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番外編:ほろにがチョコプディング〜バレンタイン仕立て〜
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いつからなんだろう、バレンタインにチョコレートを贈るなんていう風習が出来上がったのは。
かつて僕もこの風習を呪ってきた人生を歩んできたわけだが、去年はめでたくハッピーな一日を過ごすことができた。
前回のバレンタインで頼子が贈ってくれたチョコレートは、このデパートで買ったと思しき有名ショコラトリーのもの。ほろ苦く飾り気のない生チョコは、大好きな彼女から贈られるたったひとつのチョコレートは特別においしかった。しかも、あの頃はなかなか会えなかった寂しさも手伝い、かなり舞い上がってしまった記憶がある。まぁ、彼女の引っ越し準備を手伝っている最中に渡されるという謎シチュエーションだったけれども。
たかがチョコレート、されどチョコレート。いくつになってもこの日ばかりはソワソワと落ち着かなくなり、義理すら恵まれない世の男性たちは憂鬱な一日を過ごす羽目になる。
二月七日、バレンタインフェアがあちこちで開かれている今日このごろ。こんな山のように積み上げられたチョコレートをもらう選ばれし者は果たして幾人なのだろうかと、僕は途方に暮れていた。
今日はデパートの催事場で開かれているバレンタインフェアに仕事で来ている。味陽の飲食事業部が経営するパティスリーとのタイアップ企画としてこのフェアに参加することになったのだ。
飲食事業部の野間さん、企画営業部の花島さんと汐田さん、そして食品開発部の僕、真殿のチームで生チョコやチョコケーキやを売っているわけだが、どうしても有名ショコラトリーの方へ客が流れていってしまうのを悲しく見つめるしかない。
要するに、暇である。
「汐田ー、バレンタインは誰かに渡すのかい?」
責任者の野間さんがいない間、接客担当の女子ふたりが雑談を始める。
花島さんの質問に、汐田さんは「えー」と恥ずかしそうに笑った。僕は商品の様子を見ているふりをしながら聞き耳を立てる。
「あ、わかった。湯崎だ!」
花島さんが指をパチンと鳴らした。
「えっ、なっ、なんでっ!?」
わかりやすく慌てふためく汐田さん。まだ二十二歳くらいの初々しい彼女は先輩社員である花島さんの腕をポカスカ容赦なく殴る。そんな後輩を微笑ましく見る花島さんは感慨深そうに言った。
「あー、やっぱりそうなんだ。なんだかんだ仲良しだもんなぁ」
え? そうなの?
僕は思わず作業の手を止めた。そんなの初耳だ。
「まぁ、湯崎さんは私の恩人ですからね……そりゃあ、何か渡さないとなぁって思いますけど」
汐田さんが恥ずかしそうに答える。耳まで真っ赤だ。そしてその話も初耳だ。
「あー、汐田をうちにいれたのって主にあいつの力だもんねぇ」
「そうです。行きつけの喫茶店で偶然出会ったんですけど、あの喫茶店を救ってくれたのが湯崎さんだったんです。それで味陽に入りたいって思って、本当いろいろとお世話になりました」
へぇぇ。湯崎さん、ああ見えて意外と面倒見がいいところあるんだな。
「そっかそっか。じゃあなんか買っていきなよ。ほら、あそこにゴティバがあるし」
「ゴティバかぁ……湯崎さん、食にうるさいし、それなら許してくれるかなぁ」
「食にうるさい男を好きになっちゃうって、かなり大変そうだな。まぁ、がんばれよ汐田」
「だから、そんなんじゃないですってば! そういう花島さんはどうするんですか。旦那さん、チョコ待ってますよ」
そう言えば花島さんは九月に入籍し、姓も「市田」に変わったらしい。でも、みんな旧姓のまま呼んでいるし本人も「花島でいい」と言っている。
「そうだなぁ……あたしも買っとこうかな。うちは安いのでいいんだわ。アポロンチョコにしよ」
「アポロンチョコって、駄菓子じゃないですか」
「いいのいいの、それだけで十分」
花島さんの旦那さん、かわいそうに……って言うか、ふたりともうちの商品買っていけばいいのに、なんて言えるはずがなく。
しかし、汐田さんの好きな人がまさか湯崎さんだったとは。うまくいけばいいなぁ。がんばれ、汐田さん!
そんなことを考えていると、ふたりが同時にこちらを振り返ったので咄嗟にショーケースの陰に隠れようとする。しかし、花島さんの手がしっかりと僕の襟をつかんでいた。
「真殿、絶対に湯崎には内緒だからな?」
逆らえるはずがなく、僕は亀のように首をすくめてガクガクと頷いた。
***
後片付けや事務的なもろもろは野間さんと花島さんに任せて、僕は汐田さんと一緒に味陽へ帰ってきた。エレベーターで汐田さんから「絶対に言わないでくださいね」と念を押されてしまい、何度もなだめすかす。
「絶対ですからね!」
「はいはい、大丈夫だってば。絶対に言わないから──」
エレベーターが開くと、そこには噂の湯崎さんがいた。思わず口をつぐむ。
「あ、真殿さん、いた!」
いつもはローテンションな湯崎さんが、なにやら鋭い剣幕でエレベーターをこじ開ける。僕の腕をつかんで引きずり出した。
「遅い!」
「え? すみません……何かありました?」
「昨日言った約束、忘れたんですか?」
僕は仕事のミスがあったのかと思ったが、どうやら違うらしいことを瞬時に悟る。
約束──そう言えば昨日、帰り際に湯崎さんから「明日、十五時からミーティングです」と告げられたような。
「ほら、みんな待ってるんで、早く!」
湯崎さんが僕の腕をつかんだまま引っ張っていく。それを汐田さんが唖然とした顔で見つめている。
ミーティング……なんのミーティングだろう?
朝礼の時、戸高部長はとくにそんなことは言ってなかったけれど。
しかも、連れてこられたのは食品開発部の会議用円卓ではなく、主に他部署との連携用に使う第二会議室だった。
白いドアを開けると、そこには数名の男性社員(しかも若手の平社員のみ)だけが集められていて空気が重い。総務部、企画営業部、広報一部と二部、そして僕ら食品開発部。ざっと十五名弱ほど。僕は湯崎さんに連れられるまま右端の空いた席に座った。湯崎さんと佐藤くんの間に挟まれる。
「えー、それじゃあ全員集まったということで、会議を始めます」
司会進行は広報一部のSNS担当、杉野さんらしい。
「今回で第二回目を迎える委員会ですが……」
二回って随分と浅い歴史だな。
普段はテンションが高くて明るい杉野さんが物々しい挨拶をするので、みんなも厳かに一礼する。そんな雰囲気に飲まれ、僕は質問する勇気が出ない。
すると、
「質問いいですか?」
佐藤くんが颯爽と挙手する。「どうぞ」と杉野さんから促され、佐藤くんは咳払いして訊いた。
「これはなんの会議なんでしょうか」
よくぞ聞いてくれた。さすが佐藤くん。同期として鼻が高いよ。
「あぁ、そうか。去年は日曜日だったから知らない人もいるのか」
杉野さんが拍子抜けする。他の社員たちも少しだけ和やかに笑う。どうやら、僕と佐藤くんだけが何も知らずに連れてこられたようだ。
「えーっと、簡単に言えば、義理チョコ委員会とでも言いましょうか……バレンタインに経理部へ贈る義理チョコについて協議するんです。もっと具体的に言えば、企画営業部長よりもいいやつを贈って経理部に媚びようという、そういった目的のもと集まってもらったわけです」
杉野さんの淡々とした説明に、僕と佐藤くんはチラッと目線だけを合わせた。お互いに「なんだそれ」と言いたいのをグッと我慢する。
「バレンタインって、女性から男性にチョコを贈る日ですよね……?」
いろいろ考えた末に出た佐藤くんの質問は小学生レベルだった。しかも堅物な彼が訊くものだから、僕の隣にいる湯崎さんが必死に笑いを堪えている。
そんな佐藤くんのために、杉野さんはまるで先生のように真摯に答えてくれた。
「えぇ。でも今の時代、どっちから贈っても問題ありません。欧米では男性から女性に贈るものですし。それに我が社は女性役員も多いから日頃の感謝を込めてチョコを贈るのはもはや暗黙の了解……あ、うん、面倒なのはわかるけどね、一旦座って話聞こうか、佐藤」
退席しようとする佐藤くんを杉野さんが慌てて引き止める。露骨に嫌そうな顔をする佐藤くんだが、全員の視線に負けて渋々着席した。
「ちなみに、企画営業部長……相田部長よりもいいやつを贈るってどういうことですか?」
佐藤くんがなおも質問する。企画営業部長の相田さんといえば、佐藤くんの直属の上司だ。
すると、杉野さんの横にいる総務部(この中では一番年長)の川畑さんがメタルフレームの眼鏡をくいっと持ち上げて静かに口を開いた。
「相田部長は毎年この時期、チョコを女性社員に振る舞うんですね。それを経費で落とすんです」
「あの確認ですが、それって私用ですよね? 経費で落ちるものですか?」
「本来なら落ちません。しかし、これが許されるのは相田部長が経理部にだけ他の女子社員とは違う高級チョコを送っているからなんです」
話が一気にダークな方面へ転がっていき、僕も真剣に聞き入ってしまう。
「一方、我々平社員男性たちは経理部に何を贈っても冷たくあしらわれます。当然、経費になりません。だから、我々は一丸となって経理部へのイメージアップと、ついでに相田部長の足を引っ張るため、この委員会を発足しました。ご理解いただけましたか」
いつも寡黙で厳しい顔つきをしている川畑さんの早口な解説に、僕はともかく佐藤くんも何も言えなくなった。むしろ、こののんびりとした会社で意味不明な格差があったとは知らず、ショックを感じている。
思い返せば、いつも忙しい経理部が僕らへの態度が厳しかった。基本的に不機嫌な経理部に経費の申請をするのが怖かったのは事実だ。
「なるほど、それは由々しき事態ですね」
そう言ったのは佐藤くんだった。意外なことに、彼も俄然乗り気である。
「まぁ、佐藤の場合は単純に相田部長が嫌いなだけだろうな」
横で湯崎さんがあくびを噛みながら言うので、僕は声をひそめて聞き返した。
「相田部長って人当たりいいし、優しいし、嫌いになる要素なくないですか?」
「そうなんですけどねぇ……でも、たまーに仕事の無茶振りしてくるし、俺も苦手な部類です。あれは光の住人だから。あとイケメンってとこも妬みの対象」
湯崎さんが苦笑いする。まぁ、相田部長が光の住人だってのは否めないが、イケメンを妬む感覚が僕にはないので、そこは理解しかねる。
「というわけで、佐藤くんには相田部長の動向を監視してほしいんです。総務も全力で君をバックアップしますので、何卒!」
総務部の人たちが一斉にお辞儀する。佐藤くんは「承知しました」と即答した。僕は思わず彼の方を見て驚いた。
「あとの皆さんは、どこのメーカーのチョコがいいか意見を提出してください。なるはやで。よろしくお願いします!」
杉野さんがそう締めくくり、義理チョコ委員会はたった十分の会議で終了した。十分にしてはとても濃厚な会議だった。また他の女子社員や役員に怪しまれないよう時間を開けて会議室を出るという徹底ぶりに、僕はなんとも言えない虚無を感じている。
「うちら食品開発部はチョコのリサーチを期待されてます。真殿さん、頼みますよ」
そう言って、湯崎さんが僕の肩をポンと叩く。それは前回の苦労までも物語っているようで、僕はゴクリと唾を飲んだ。
はぁ……なんだか面倒なことに巻き込まれたな……
「あ、真殿」
湯崎さんと一緒に会議室を出ようとしたら杉野さんに止められる。
「わかってるとは思うけど、このこと誰にも言っちゃダメだからね」
「え? はい……」
こんなこと、他の女子社員に言えるもんか。
苦笑交じりにうなずくと、杉野さんの腕が僕の鼻先ギリギリを通過し、逃げ道を塞がれる。壁ドンならぬドアドンに僕は固まった。
「本当にわかってる? 外部の人間に絶対教えちゃダメだって言ってるんだよ」
「えっ……」
「垣内さんにも教えるなってことっすよ」
背後で湯崎さんがそっと教えてくれる。僕はハッとし、杉野さんを見た。にっこりと微笑む杉野さんはまるで狐のような顔をしていてなんだか怖い。
「うちの筒井先輩と垣内さんが仲良しらしいから、くれぐれも注意するように」
柔らかな低音に圧をかけられ、僕は亀のように首をすくめてガクガクと頷いた。
かつて僕もこの風習を呪ってきた人生を歩んできたわけだが、去年はめでたくハッピーな一日を過ごすことができた。
前回のバレンタインで頼子が贈ってくれたチョコレートは、このデパートで買ったと思しき有名ショコラトリーのもの。ほろ苦く飾り気のない生チョコは、大好きな彼女から贈られるたったひとつのチョコレートは特別においしかった。しかも、あの頃はなかなか会えなかった寂しさも手伝い、かなり舞い上がってしまった記憶がある。まぁ、彼女の引っ越し準備を手伝っている最中に渡されるという謎シチュエーションだったけれども。
たかがチョコレート、されどチョコレート。いくつになってもこの日ばかりはソワソワと落ち着かなくなり、義理すら恵まれない世の男性たちは憂鬱な一日を過ごす羽目になる。
二月七日、バレンタインフェアがあちこちで開かれている今日このごろ。こんな山のように積み上げられたチョコレートをもらう選ばれし者は果たして幾人なのだろうかと、僕は途方に暮れていた。
今日はデパートの催事場で開かれているバレンタインフェアに仕事で来ている。味陽の飲食事業部が経営するパティスリーとのタイアップ企画としてこのフェアに参加することになったのだ。
飲食事業部の野間さん、企画営業部の花島さんと汐田さん、そして食品開発部の僕、真殿のチームで生チョコやチョコケーキやを売っているわけだが、どうしても有名ショコラトリーの方へ客が流れていってしまうのを悲しく見つめるしかない。
要するに、暇である。
「汐田ー、バレンタインは誰かに渡すのかい?」
責任者の野間さんがいない間、接客担当の女子ふたりが雑談を始める。
花島さんの質問に、汐田さんは「えー」と恥ずかしそうに笑った。僕は商品の様子を見ているふりをしながら聞き耳を立てる。
「あ、わかった。湯崎だ!」
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「えっ、なっ、なんでっ!?」
わかりやすく慌てふためく汐田さん。まだ二十二歳くらいの初々しい彼女は先輩社員である花島さんの腕をポカスカ容赦なく殴る。そんな後輩を微笑ましく見る花島さんは感慨深そうに言った。
「あー、やっぱりそうなんだ。なんだかんだ仲良しだもんなぁ」
え? そうなの?
僕は思わず作業の手を止めた。そんなの初耳だ。
「まぁ、湯崎さんは私の恩人ですからね……そりゃあ、何か渡さないとなぁって思いますけど」
汐田さんが恥ずかしそうに答える。耳まで真っ赤だ。そしてその話も初耳だ。
「あー、汐田をうちにいれたのって主にあいつの力だもんねぇ」
「そうです。行きつけの喫茶店で偶然出会ったんですけど、あの喫茶店を救ってくれたのが湯崎さんだったんです。それで味陽に入りたいって思って、本当いろいろとお世話になりました」
へぇぇ。湯崎さん、ああ見えて意外と面倒見がいいところあるんだな。
「そっかそっか。じゃあなんか買っていきなよ。ほら、あそこにゴティバがあるし」
「ゴティバかぁ……湯崎さん、食にうるさいし、それなら許してくれるかなぁ」
「食にうるさい男を好きになっちゃうって、かなり大変そうだな。まぁ、がんばれよ汐田」
「だから、そんなんじゃないですってば! そういう花島さんはどうするんですか。旦那さん、チョコ待ってますよ」
そう言えば花島さんは九月に入籍し、姓も「市田」に変わったらしい。でも、みんな旧姓のまま呼んでいるし本人も「花島でいい」と言っている。
「そうだなぁ……あたしも買っとこうかな。うちは安いのでいいんだわ。アポロンチョコにしよ」
「アポロンチョコって、駄菓子じゃないですか」
「いいのいいの、それだけで十分」
花島さんの旦那さん、かわいそうに……って言うか、ふたりともうちの商品買っていけばいいのに、なんて言えるはずがなく。
しかし、汐田さんの好きな人がまさか湯崎さんだったとは。うまくいけばいいなぁ。がんばれ、汐田さん!
そんなことを考えていると、ふたりが同時にこちらを振り返ったので咄嗟にショーケースの陰に隠れようとする。しかし、花島さんの手がしっかりと僕の襟をつかんでいた。
「真殿、絶対に湯崎には内緒だからな?」
逆らえるはずがなく、僕は亀のように首をすくめてガクガクと頷いた。
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「絶対ですからね!」
「はいはい、大丈夫だってば。絶対に言わないから──」
エレベーターが開くと、そこには噂の湯崎さんがいた。思わず口をつぐむ。
「あ、真殿さん、いた!」
いつもはローテンションな湯崎さんが、なにやら鋭い剣幕でエレベーターをこじ開ける。僕の腕をつかんで引きずり出した。
「遅い!」
「え? すみません……何かありました?」
「昨日言った約束、忘れたんですか?」
僕は仕事のミスがあったのかと思ったが、どうやら違うらしいことを瞬時に悟る。
約束──そう言えば昨日、帰り際に湯崎さんから「明日、十五時からミーティングです」と告げられたような。
「ほら、みんな待ってるんで、早く!」
湯崎さんが僕の腕をつかんだまま引っ張っていく。それを汐田さんが唖然とした顔で見つめている。
ミーティング……なんのミーティングだろう?
朝礼の時、戸高部長はとくにそんなことは言ってなかったけれど。
しかも、連れてこられたのは食品開発部の会議用円卓ではなく、主に他部署との連携用に使う第二会議室だった。
白いドアを開けると、そこには数名の男性社員(しかも若手の平社員のみ)だけが集められていて空気が重い。総務部、企画営業部、広報一部と二部、そして僕ら食品開発部。ざっと十五名弱ほど。僕は湯崎さんに連れられるまま右端の空いた席に座った。湯崎さんと佐藤くんの間に挟まれる。
「えー、それじゃあ全員集まったということで、会議を始めます」
司会進行は広報一部のSNS担当、杉野さんらしい。
「今回で第二回目を迎える委員会ですが……」
二回って随分と浅い歴史だな。
普段はテンションが高くて明るい杉野さんが物々しい挨拶をするので、みんなも厳かに一礼する。そんな雰囲気に飲まれ、僕は質問する勇気が出ない。
すると、
「質問いいですか?」
佐藤くんが颯爽と挙手する。「どうぞ」と杉野さんから促され、佐藤くんは咳払いして訊いた。
「これはなんの会議なんでしょうか」
よくぞ聞いてくれた。さすが佐藤くん。同期として鼻が高いよ。
「あぁ、そうか。去年は日曜日だったから知らない人もいるのか」
杉野さんが拍子抜けする。他の社員たちも少しだけ和やかに笑う。どうやら、僕と佐藤くんだけが何も知らずに連れてこられたようだ。
「えーっと、簡単に言えば、義理チョコ委員会とでも言いましょうか……バレンタインに経理部へ贈る義理チョコについて協議するんです。もっと具体的に言えば、企画営業部長よりもいいやつを贈って経理部に媚びようという、そういった目的のもと集まってもらったわけです」
杉野さんの淡々とした説明に、僕と佐藤くんはチラッと目線だけを合わせた。お互いに「なんだそれ」と言いたいのをグッと我慢する。
「バレンタインって、女性から男性にチョコを贈る日ですよね……?」
いろいろ考えた末に出た佐藤くんの質問は小学生レベルだった。しかも堅物な彼が訊くものだから、僕の隣にいる湯崎さんが必死に笑いを堪えている。
そんな佐藤くんのために、杉野さんはまるで先生のように真摯に答えてくれた。
「えぇ。でも今の時代、どっちから贈っても問題ありません。欧米では男性から女性に贈るものですし。それに我が社は女性役員も多いから日頃の感謝を込めてチョコを贈るのはもはや暗黙の了解……あ、うん、面倒なのはわかるけどね、一旦座って話聞こうか、佐藤」
退席しようとする佐藤くんを杉野さんが慌てて引き止める。露骨に嫌そうな顔をする佐藤くんだが、全員の視線に負けて渋々着席した。
「ちなみに、企画営業部長……相田部長よりもいいやつを贈るってどういうことですか?」
佐藤くんがなおも質問する。企画営業部長の相田さんといえば、佐藤くんの直属の上司だ。
すると、杉野さんの横にいる総務部(この中では一番年長)の川畑さんがメタルフレームの眼鏡をくいっと持ち上げて静かに口を開いた。
「相田部長は毎年この時期、チョコを女性社員に振る舞うんですね。それを経費で落とすんです」
「あの確認ですが、それって私用ですよね? 経費で落ちるものですか?」
「本来なら落ちません。しかし、これが許されるのは相田部長が経理部にだけ他の女子社員とは違う高級チョコを送っているからなんです」
話が一気にダークな方面へ転がっていき、僕も真剣に聞き入ってしまう。
「一方、我々平社員男性たちは経理部に何を贈っても冷たくあしらわれます。当然、経費になりません。だから、我々は一丸となって経理部へのイメージアップと、ついでに相田部長の足を引っ張るため、この委員会を発足しました。ご理解いただけましたか」
いつも寡黙で厳しい顔つきをしている川畑さんの早口な解説に、僕はともかく佐藤くんも何も言えなくなった。むしろ、こののんびりとした会社で意味不明な格差があったとは知らず、ショックを感じている。
思い返せば、いつも忙しい経理部が僕らへの態度が厳しかった。基本的に不機嫌な経理部に経費の申請をするのが怖かったのは事実だ。
「なるほど、それは由々しき事態ですね」
そう言ったのは佐藤くんだった。意外なことに、彼も俄然乗り気である。
「まぁ、佐藤の場合は単純に相田部長が嫌いなだけだろうな」
横で湯崎さんがあくびを噛みながら言うので、僕は声をひそめて聞き返した。
「相田部長って人当たりいいし、優しいし、嫌いになる要素なくないですか?」
「そうなんですけどねぇ……でも、たまーに仕事の無茶振りしてくるし、俺も苦手な部類です。あれは光の住人だから。あとイケメンってとこも妬みの対象」
湯崎さんが苦笑いする。まぁ、相田部長が光の住人だってのは否めないが、イケメンを妬む感覚が僕にはないので、そこは理解しかねる。
「というわけで、佐藤くんには相田部長の動向を監視してほしいんです。総務も全力で君をバックアップしますので、何卒!」
総務部の人たちが一斉にお辞儀する。佐藤くんは「承知しました」と即答した。僕は思わず彼の方を見て驚いた。
「あとの皆さんは、どこのメーカーのチョコがいいか意見を提出してください。なるはやで。よろしくお願いします!」
杉野さんがそう締めくくり、義理チョコ委員会はたった十分の会議で終了した。十分にしてはとても濃厚な会議だった。また他の女子社員や役員に怪しまれないよう時間を開けて会議室を出るという徹底ぶりに、僕はなんとも言えない虚無を感じている。
「うちら食品開発部はチョコのリサーチを期待されてます。真殿さん、頼みますよ」
そう言って、湯崎さんが僕の肩をポンと叩く。それは前回の苦労までも物語っているようで、僕はゴクリと唾を飲んだ。
はぁ……なんだか面倒なことに巻き込まれたな……
「あ、真殿」
湯崎さんと一緒に会議室を出ようとしたら杉野さんに止められる。
「わかってるとは思うけど、このこと誰にも言っちゃダメだからね」
「え? はい……」
こんなこと、他の女子社員に言えるもんか。
苦笑交じりにうなずくと、杉野さんの腕が僕の鼻先ギリギリを通過し、逃げ道を塞がれる。壁ドンならぬドアドンに僕は固まった。
「本当にわかってる? 外部の人間に絶対教えちゃダメだって言ってるんだよ」
「えっ……」
「垣内さんにも教えるなってことっすよ」
背後で湯崎さんがそっと教えてくれる。僕はハッとし、杉野さんを見た。にっこりと微笑む杉野さんはまるで狐のような顔をしていてなんだか怖い。
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