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第六章:蛍の苦悩
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そんなことが、あるはずない。
だって自分は、彼が背負うもののために、身を引いたのだから。
彼が多くを失わないように、この恋を諦めたのだから。
蛍里は知らず、布団カバーを握りしめた。
結局、本当のところは彼に訊いてみなければわからない。
明日、彼に会って確かめよう。蛍里はあの日の彼の眼差しを
思い出し、唇を噛んだ。
翌朝。いつもより早い電車に乗って出勤すると、フロア内には
すでに幾人かの姿があった。当然かもしれない。みんな自分と
同じように、突然の知らせに心を落ち着かなくさせているのだ。
蛍里は数人の社員たちを前に渋い顔をしている、経理部長を
見つけ、足を向けた。
「……僕もね、ついさっき報告を受けたばかりなんだよ」
そう言って、腕を組みながら顎を擦っている経理部長の声が
聴こえてくる。部長の前にいる社員は、送別会で見た総務部の
子たちだ。蛍里は彼女たちの背後から、思い切って訊ねた。
「あの、部長はどういった報告を受けてるんですか?」
部長が顎を擦ったままで、口をへの字に曲げる。
「いや、だからね。正式な合併の期日と、従業員に不利益が
生じないよう人事制度を見直すから、心配せず通常業務を
続けてくれと言われただけなんだよ」
部長の口ぶりから、蛍里の前に立つ彼女たちも同じ質問を
したのだとわかる。彼がいま語った以上のことを知って
いるとは到底思えないが………
蛍里はちら、と専務室の方を見やった。ドアは開け放たれた
ままで、その部屋にまだ彼はいない。本人に訊くのが一番
手っ取り早いけれど、もし知っているのなら教えてほしかった。
「あの、役員の方々がどうなるかは聴いていませんか?
専務や本部長は……」
蛍里がそのことを口にすると、部長は「それなんだけどね」
と、少し考えてから唸るように言った。
「もちろん本部長はこのまま役職を続けるけど、どうやら
榊専務は辞任届を提出したらしいんだ。僕もびっくりして
いてね。詳しい事情はよくわからないんだが……」
「え」
部長のその言葉に、蛍里は思わず声を漏らしていた。
一緒に聞いていた総務の二人も、驚いて顔を見合わせて
いたが、蛍里の動揺はそんなものではない。
-----専務が辞める?どうして……
頭の中は真っ白で、がくがくと膝が震えだしてしまう。
蛍里は立っていられなくなって、ふらりと自分の席に
戻っていった。すとん、と椅子に腰かけて、彼のいない
専務室を振り返る。
彼の笑顔を最後に見たのは、いつだったか。
記憶を辿っても、上手く思い出すことが出来ない。
だって自分は、彼が背負うもののために、身を引いたのだから。
彼が多くを失わないように、この恋を諦めたのだから。
蛍里は知らず、布団カバーを握りしめた。
結局、本当のところは彼に訊いてみなければわからない。
明日、彼に会って確かめよう。蛍里はあの日の彼の眼差しを
思い出し、唇を噛んだ。
翌朝。いつもより早い電車に乗って出勤すると、フロア内には
すでに幾人かの姿があった。当然かもしれない。みんな自分と
同じように、突然の知らせに心を落ち着かなくさせているのだ。
蛍里は数人の社員たちを前に渋い顔をしている、経理部長を
見つけ、足を向けた。
「……僕もね、ついさっき報告を受けたばかりなんだよ」
そう言って、腕を組みながら顎を擦っている経理部長の声が
聴こえてくる。部長の前にいる社員は、送別会で見た総務部の
子たちだ。蛍里は彼女たちの背後から、思い切って訊ねた。
「あの、部長はどういった報告を受けてるんですか?」
部長が顎を擦ったままで、口をへの字に曲げる。
「いや、だからね。正式な合併の期日と、従業員に不利益が
生じないよう人事制度を見直すから、心配せず通常業務を
続けてくれと言われただけなんだよ」
部長の口ぶりから、蛍里の前に立つ彼女たちも同じ質問を
したのだとわかる。彼がいま語った以上のことを知って
いるとは到底思えないが………
蛍里はちら、と専務室の方を見やった。ドアは開け放たれた
ままで、その部屋にまだ彼はいない。本人に訊くのが一番
手っ取り早いけれど、もし知っているのなら教えてほしかった。
「あの、役員の方々がどうなるかは聴いていませんか?
専務や本部長は……」
蛍里がそのことを口にすると、部長は「それなんだけどね」
と、少し考えてから唸るように言った。
「もちろん本部長はこのまま役職を続けるけど、どうやら
榊専務は辞任届を提出したらしいんだ。僕もびっくりして
いてね。詳しい事情はよくわからないんだが……」
「え」
部長のその言葉に、蛍里は思わず声を漏らしていた。
一緒に聞いていた総務の二人も、驚いて顔を見合わせて
いたが、蛍里の動揺はそんなものではない。
-----専務が辞める?どうして……
頭の中は真っ白で、がくがくと膝が震えだしてしまう。
蛍里は立っていられなくなって、ふらりと自分の席に
戻っていった。すとん、と椅子に腰かけて、彼のいない
専務室を振り返る。
彼の笑顔を最後に見たのは、いつだったか。
記憶を辿っても、上手く思い出すことが出来ない。
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