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第6章
約束
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翌朝、ベッドに差し込む朝陽に白い肌を輝かせ、長い睫毛を幸福そうに閉じ天使のようにまどろむ樹季を、光汰は静かなキスで起こした。
樹季が目を開けると光汰はすっかり着替えていて、ローテーブルの上には焼きたてのバタートーストと、器用に盛り付けられたサラダとハムエッグの皿が乗っていた。
「ちょっと早いけど、起きられるか? 駅まで送ってくよ。ちょっと寄りたい所があるって、昨日言ってたろ。俺の自転車に乗っけてってやるよ」
「お…おはよう……」
樹季はまだ酷く眠かった。再び目を閉じて、まどろみそうになる。
「樹季、ちょっと、腰……診せてくれないか?」
「えっ」
樹季はいっぺんに目が覚めた。光汰は神妙な面持ちでベッドに上がってきて、昨夜のまま、何も身につけていない樹季がくるまっていた毛布を捲った。それから慎重な手つきで、樹季の腰骨の上を両手の親指でそっと圧迫したり、少し腰を持ち上げて背骨の裏側をぐっと押したりした。
理学療法士を目指している光汰は、純粋に樹季の身体を気遣っているようだった。昨夜、あまりに激しく樹季を抱いたため、その華奢な身体を傷めたのではないかと心配しているらしい。戸惑う樹季は片膝を折り畳まれ、それをぐっと腹部の方に押し付けられた。
「これ……痛くないか? 大丈夫か」
樹季は、その気遣う言葉が、昨夜何度もベッドで繰り返されたものだと思い出し、耳まで赤くなった。剥がされた毛布を手繰り寄せ、露わになった前の部分を隠すと、光汰から離れようと身体をずり上がらせた。
「なっ…何ともないったら……! 平気だ」
「バカ、誤解すんなよ……。心配してるんだ。下心でやってんじゃねぇよ」
静かに諭すように言われ、樹季はむやみに興奮した自分が少し恥ずかしくなる。いつか、光汰は樹季の方が大人だと言ってくれたことがあった。でも今は、光汰の方がずっと大人だ……。樹季はそう思った。光汰の心遣いが嬉しい反面、いつも自分を弟扱いする彼に、小さな仕返しをしてみたくなった。
「何ともねぇみたいで安心したよ。今、コーヒー淹れるからな。今朝はちゃんと豆から挽いたんだぜ」
光汰はベッドから降り、湯気の立つコーヒーをカップに注いでテーブルの上に置いた。香ばしい薫りが部屋中に広がる。それから光汰は、中々ベッドから起き上がろうとしない樹季の様子を見に来た。
「そんなに眠いのか? 昨日、寝るの遅かったもんな」
寝不足なのは、深夜まで二人で睦みあったせいだ。光汰も、思い当たって少し顔を赤くする。樹季は、全裸のまま、甘えたような声で、せがんだ。
「こっち……来て。起きるの、手伝ってくれよ……」
光汰は、誘うような樹季の表情に動揺しながら、なるべく平静を装うようにベッドの端に腰かけ、彼を抱きかかえて起こそうとした。
「なに甘えてんだ……ガキかよ」
樹季は、されるがままに半身を起こしてから、すっと光汰の背中に腕を回した。それから目を閉じ、悩ましげに光汰の胸に擦り寄っていった。
「光汰……急ぐ? すぐ、食べなきゃ…駄目かな……」
光汰は、今度は顔中を真っ赤にして言った。
「ちょっと……待て! 朝からその気にさせんなよ……ヤバいって……!」
樹季は、光汰の胸の中でくすくす笑った。
「お前こそ、誤解すんなよ。俺、猫舌なんだ。知ってるだろ? せっかく熱々のコーヒー淹れてくれたのに、すぐ飲めなくて、悪いなって思ったからさ」
「からかってんのかよぉ……まったく」
少し怒ったようにそう言うと、光汰は樹季の顎をつかまえて、その唇をキスで塞いだ。優しいが、激しいキス……。徐々に深いところまで忍びこんでこようとする光汰からいったん離れ、樹季は困ったように瞳を潤ませた。
「駄目だよ……止まら…なく……なるし」
光汰は微笑んで、樹季を両腕でぎゅっと抱き締めた。
「コーヒー……冷めるまで、こうしてる位なら……いいだろ?」
「うん……」
樹季は目を閉じて、しばらくの間、ただ光汰の胸の温もりを感じていた。
二人は朝食を済ますと、光汰の漕ぐ自転車で、あの高台を目指した。二人乗りを見咎められるかと思ったが、早朝の為すれ違う人影も殆どない。スピードを上げて街を駆け抜け、高台に続く急な坂では、樹季が荷台から降りて二人で自転車を押して登った。
思い出の場所は、息を切らして登ってきた二人を爽やかな朝の大気で包んでくれる。眼下には、朝靄に煙る懐かしい風景が広がっていた。
樹季は光汰と並んで佇み、キーケースの中から、光汰にここで譲られた一セント硬貨を取り出した。
「光汰、覚えてる? これ……」
「うん……昔、お前にやったお守りだろ。うわ……この銀のキーホルダー、めっちゃ高かったんじゃねぇの?」
光汰は懐かしそうに、樹季の掌の上にあるそれを見つめた。銅製の硬貨も、一目で純銀製とわかるキーホルダーのチェーンも、綺麗に磨かれて朝の光に煌めいている。樹季は、ちょっとためらってから、光汰に言った。
「これ、しばらく、お前に持ってて欲しいんだ」
「えっ……」
光汰は驚いて、ちょっと寂しげな表情をした。それから、俯いて呟いた。
「俺は…お前に持ってて欲しかったな……俺がそばにいられない間も、なんか安心な気がしてさ……もう…要らねぇの……?」
樹季は、少し慌ててから、言った。
「もちろん、ずっと大切にしてたよ! 要らなくなったとか、そんなんじゃないんだ」
「じゃあ……何で?」
「俺…いつもこれを見て、お前のことばかり思い出してた……。ずっと会えないのが当たり前になって、これだけが、お前と俺を繋いでくれるって思ってたんだ。だからさ、手放すのが怖かったんだけど……」
樹季は光汰にまっすぐ向き合うと、自分にも言い聞かせるようにしながら、言葉に力を込めた。
「もう、怖くなんかない」
そう強く言うと、樹季は一セント硬貨を光汰の右手に滑り込ませ、しっかりと握らせた。光汰は、少し驚いていた。樹季の眼差しには、昨夜、光汰の腕のなかで震えながら泣いていた、怯えるような儚さは微塵もなかった。いつも弟のように庇ってきた、どこか頼りなげな樹季ではない。
「樹季……?」
「それにさ、俺……このお守りもらってから、本当に病気もケガもしなかった。だから今度は、これに光汰を守って欲しいんだ。俺も、光汰を守りたい。元気でいて欲しい。その気持ちは、俺が持ってる間、沢山込めたと思うから……」
光汰の瞳が、あのとき、この高台で樹季が別れを打ち明けたときのように、潤んで行く気がした。樹季は、その瞳をまっすぐに見つめながら、本当はいっときでも離れていたくない……寂しいという言葉を、必死の思いで呑み込んだ。離れていても、もう不安になんてならない。そう決めた。
光汰を信じる、信じられる。静かな、しかし強い確信に励まされ、樹季は胸を張って光汰に向かい合った。
「暫くの間、あんまり会えないのは辛いよ……でも、我慢できる。この先、俺が館山に戻ってくるのか、ひょっとしたら光汰が東京に出てくるのか、まだ判らないけど……。いつか、ずっと一緒にいられる日が来るように、光汰にも、お守りにして、思いを込めておいて欲しいんだ」
光汰は、すっと樹季から顔を背け、パーカーの袖で顔をぐいっと拭いた。樹季は心配になり、彼の肩に掴まると、少し背伸びをしてその顔を覗き込んだ。
「くそっ……あん時と、立場が逆になっちまったじゃねぇか……! お前みたいな泣き虫に、なんで俺が泣かされなきゃならねぇんだ……メチャクチャ、カッコ悪りぃ……お前の前でだけは、泣くもんかとガキのころから頑張って来たのに……なんで今頃になってから……この、反則野郎っ……」
確かに、樹季は光汰の涙を初めて見た。いつも自分を守ってくれ、自分の前では強く振舞ってくれた光汰の思いに胸が熱くなり、袖で顔を覆ったままの彼の胸に飛び込んだ。
自分をこんなにも強くしてくれたのは、光汰なんだ……。これからは、守られるだけの存在でいたくない。自分も光汰の進む道を照らす、明るい道標になりたい。心の中で、樹季は、なんども、繰り返し、そう願った。
光汰は、樹季に涙を見られないように、彼の身体を強く自分の胸に引き寄せ、両腕で、深く、深く抱きしめてしばらく離さなかった。その右の掌には、樹季から託された幸運の一セント硬貨が、しっかりと握られている。
「樹季……お前の二十歳の誕生日、一緒にお祝いしよう」
「うん……光汰」
思い出の場所は、二人のこれからの歩みの出発点となった。
樹季の記憶に刻まれていたセピア色の情景は、降り注ぐ朝の金色の光の粒で鮮やかに塗り替わり、眩しいほどの優しい輝きに満ちていった。
完
樹季が目を開けると光汰はすっかり着替えていて、ローテーブルの上には焼きたてのバタートーストと、器用に盛り付けられたサラダとハムエッグの皿が乗っていた。
「ちょっと早いけど、起きられるか? 駅まで送ってくよ。ちょっと寄りたい所があるって、昨日言ってたろ。俺の自転車に乗っけてってやるよ」
「お…おはよう……」
樹季はまだ酷く眠かった。再び目を閉じて、まどろみそうになる。
「樹季、ちょっと、腰……診せてくれないか?」
「えっ」
樹季はいっぺんに目が覚めた。光汰は神妙な面持ちでベッドに上がってきて、昨夜のまま、何も身につけていない樹季がくるまっていた毛布を捲った。それから慎重な手つきで、樹季の腰骨の上を両手の親指でそっと圧迫したり、少し腰を持ち上げて背骨の裏側をぐっと押したりした。
理学療法士を目指している光汰は、純粋に樹季の身体を気遣っているようだった。昨夜、あまりに激しく樹季を抱いたため、その華奢な身体を傷めたのではないかと心配しているらしい。戸惑う樹季は片膝を折り畳まれ、それをぐっと腹部の方に押し付けられた。
「これ……痛くないか? 大丈夫か」
樹季は、その気遣う言葉が、昨夜何度もベッドで繰り返されたものだと思い出し、耳まで赤くなった。剥がされた毛布を手繰り寄せ、露わになった前の部分を隠すと、光汰から離れようと身体をずり上がらせた。
「なっ…何ともないったら……! 平気だ」
「バカ、誤解すんなよ……。心配してるんだ。下心でやってんじゃねぇよ」
静かに諭すように言われ、樹季はむやみに興奮した自分が少し恥ずかしくなる。いつか、光汰は樹季の方が大人だと言ってくれたことがあった。でも今は、光汰の方がずっと大人だ……。樹季はそう思った。光汰の心遣いが嬉しい反面、いつも自分を弟扱いする彼に、小さな仕返しをしてみたくなった。
「何ともねぇみたいで安心したよ。今、コーヒー淹れるからな。今朝はちゃんと豆から挽いたんだぜ」
光汰はベッドから降り、湯気の立つコーヒーをカップに注いでテーブルの上に置いた。香ばしい薫りが部屋中に広がる。それから光汰は、中々ベッドから起き上がろうとしない樹季の様子を見に来た。
「そんなに眠いのか? 昨日、寝るの遅かったもんな」
寝不足なのは、深夜まで二人で睦みあったせいだ。光汰も、思い当たって少し顔を赤くする。樹季は、全裸のまま、甘えたような声で、せがんだ。
「こっち……来て。起きるの、手伝ってくれよ……」
光汰は、誘うような樹季の表情に動揺しながら、なるべく平静を装うようにベッドの端に腰かけ、彼を抱きかかえて起こそうとした。
「なに甘えてんだ……ガキかよ」
樹季は、されるがままに半身を起こしてから、すっと光汰の背中に腕を回した。それから目を閉じ、悩ましげに光汰の胸に擦り寄っていった。
「光汰……急ぐ? すぐ、食べなきゃ…駄目かな……」
光汰は、今度は顔中を真っ赤にして言った。
「ちょっと……待て! 朝からその気にさせんなよ……ヤバいって……!」
樹季は、光汰の胸の中でくすくす笑った。
「お前こそ、誤解すんなよ。俺、猫舌なんだ。知ってるだろ? せっかく熱々のコーヒー淹れてくれたのに、すぐ飲めなくて、悪いなって思ったからさ」
「からかってんのかよぉ……まったく」
少し怒ったようにそう言うと、光汰は樹季の顎をつかまえて、その唇をキスで塞いだ。優しいが、激しいキス……。徐々に深いところまで忍びこんでこようとする光汰からいったん離れ、樹季は困ったように瞳を潤ませた。
「駄目だよ……止まら…なく……なるし」
光汰は微笑んで、樹季を両腕でぎゅっと抱き締めた。
「コーヒー……冷めるまで、こうしてる位なら……いいだろ?」
「うん……」
樹季は目を閉じて、しばらくの間、ただ光汰の胸の温もりを感じていた。
二人は朝食を済ますと、光汰の漕ぐ自転車で、あの高台を目指した。二人乗りを見咎められるかと思ったが、早朝の為すれ違う人影も殆どない。スピードを上げて街を駆け抜け、高台に続く急な坂では、樹季が荷台から降りて二人で自転車を押して登った。
思い出の場所は、息を切らして登ってきた二人を爽やかな朝の大気で包んでくれる。眼下には、朝靄に煙る懐かしい風景が広がっていた。
樹季は光汰と並んで佇み、キーケースの中から、光汰にここで譲られた一セント硬貨を取り出した。
「光汰、覚えてる? これ……」
「うん……昔、お前にやったお守りだろ。うわ……この銀のキーホルダー、めっちゃ高かったんじゃねぇの?」
光汰は懐かしそうに、樹季の掌の上にあるそれを見つめた。銅製の硬貨も、一目で純銀製とわかるキーホルダーのチェーンも、綺麗に磨かれて朝の光に煌めいている。樹季は、ちょっとためらってから、光汰に言った。
「これ、しばらく、お前に持ってて欲しいんだ」
「えっ……」
光汰は驚いて、ちょっと寂しげな表情をした。それから、俯いて呟いた。
「俺は…お前に持ってて欲しかったな……俺がそばにいられない間も、なんか安心な気がしてさ……もう…要らねぇの……?」
樹季は、少し慌ててから、言った。
「もちろん、ずっと大切にしてたよ! 要らなくなったとか、そんなんじゃないんだ」
「じゃあ……何で?」
「俺…いつもこれを見て、お前のことばかり思い出してた……。ずっと会えないのが当たり前になって、これだけが、お前と俺を繋いでくれるって思ってたんだ。だからさ、手放すのが怖かったんだけど……」
樹季は光汰にまっすぐ向き合うと、自分にも言い聞かせるようにしながら、言葉に力を込めた。
「もう、怖くなんかない」
そう強く言うと、樹季は一セント硬貨を光汰の右手に滑り込ませ、しっかりと握らせた。光汰は、少し驚いていた。樹季の眼差しには、昨夜、光汰の腕のなかで震えながら泣いていた、怯えるような儚さは微塵もなかった。いつも弟のように庇ってきた、どこか頼りなげな樹季ではない。
「樹季……?」
「それにさ、俺……このお守りもらってから、本当に病気もケガもしなかった。だから今度は、これに光汰を守って欲しいんだ。俺も、光汰を守りたい。元気でいて欲しい。その気持ちは、俺が持ってる間、沢山込めたと思うから……」
光汰の瞳が、あのとき、この高台で樹季が別れを打ち明けたときのように、潤んで行く気がした。樹季は、その瞳をまっすぐに見つめながら、本当はいっときでも離れていたくない……寂しいという言葉を、必死の思いで呑み込んだ。離れていても、もう不安になんてならない。そう決めた。
光汰を信じる、信じられる。静かな、しかし強い確信に励まされ、樹季は胸を張って光汰に向かい合った。
「暫くの間、あんまり会えないのは辛いよ……でも、我慢できる。この先、俺が館山に戻ってくるのか、ひょっとしたら光汰が東京に出てくるのか、まだ判らないけど……。いつか、ずっと一緒にいられる日が来るように、光汰にも、お守りにして、思いを込めておいて欲しいんだ」
光汰は、すっと樹季から顔を背け、パーカーの袖で顔をぐいっと拭いた。樹季は心配になり、彼の肩に掴まると、少し背伸びをしてその顔を覗き込んだ。
「くそっ……あん時と、立場が逆になっちまったじゃねぇか……! お前みたいな泣き虫に、なんで俺が泣かされなきゃならねぇんだ……メチャクチャ、カッコ悪りぃ……お前の前でだけは、泣くもんかとガキのころから頑張って来たのに……なんで今頃になってから……この、反則野郎っ……」
確かに、樹季は光汰の涙を初めて見た。いつも自分を守ってくれ、自分の前では強く振舞ってくれた光汰の思いに胸が熱くなり、袖で顔を覆ったままの彼の胸に飛び込んだ。
自分をこんなにも強くしてくれたのは、光汰なんだ……。これからは、守られるだけの存在でいたくない。自分も光汰の進む道を照らす、明るい道標になりたい。心の中で、樹季は、なんども、繰り返し、そう願った。
光汰は、樹季に涙を見られないように、彼の身体を強く自分の胸に引き寄せ、両腕で、深く、深く抱きしめてしばらく離さなかった。その右の掌には、樹季から託された幸運の一セント硬貨が、しっかりと握られている。
「樹季……お前の二十歳の誕生日、一緒にお祝いしよう」
「うん……光汰」
思い出の場所は、二人のこれからの歩みの出発点となった。
樹季の記憶に刻まれていたセピア色の情景は、降り注ぐ朝の金色の光の粒で鮮やかに塗り替わり、眩しいほどの優しい輝きに満ちていった。
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