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「昴貴の章」

003.ライバル宣言!?

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 その夜私は勤務先である篠原物産の会長であり、また、育ての親でもある篠原翁の屋敷に招かれていた。翁自慢のシェフによる料理が振る舞われたが、私は食事を楽しむこともそこそこに、今日出会ったあの少年のことばかりを考えていた。

(あれで男だと?)

 未だに信じられない。

「……昴貴こうき

 だが、あれは確かに男だった。

「昴貴よ」

 では、私は少年に恋をしたと言うのだろうか?それも一回りも年の違う高校生だ。

(……)

 だから何だと言うのだ? 私にとっての真実は実に単純だ。

―どのような手段を使ってでも、彼が欲しい。

「昴貴、まだ熱中症か?」

 翁の言葉に、私はようやく我に返った。皿の上で止まっていたフォークとナイフを再び動かし始める。

「いいえ。既に手当を受けております」

「そうか、ならいい」

 翁は目を伏せた。このような時翁は必ず汚れ役の仕事を命じる。

「本日のご用件は何でしょう?」

「来月サウジアラビアへ行ってもらう」

「……」

 私は魚を切った。

「仕事の内容はどのようなものですか?」

「あれが向こうの王族を怒らせてな。篠原との取引を破談にすると言ってきた」

 翁は大きくため息を吐いた。

「お前は得意だろう?天然ガスに関連するプロジェクトは、篠原の生命線だ」

 またあの銅鑼息子の尻拭いか。全く私も大層な身分である。

 十年前昴貴と言う名前以外の記憶を失い途方に暮れていた私を拾い、戸籍と教育を授けてくれたことには感謝しているが、所詮都合のいい手駒程度の考えなのだろう。

 なら、こちらもそれを利用するまでだ。

 私は無言で料理を口に運んだ。翁が私の返事を待ち、苛立っているのが分かる。

「さすがのお前でも難しいか?」

 皿が魚から肉へと進み、新たなグラスに赤ワインが注がれる。

「いいえ」

 私は顔を上げた。

「1週間で片付けましょう」

「……いつもすまんな」

 私は笑顔でワイングラスを翳した。右目の視界が赤く染まる。

「これが私の役目ですから」

 現在篠原物産の本社では二つの派閥がある。この篠原翁の息子である篠原取締役と甥の二川取締役だ。今こそ実子である篠原専務が有利であると考えられているようだが、それは大きな間違いである。何故なら彼のこれまでの功績は、全て私の手によるものだからだ。 

 ここで私が二川側に付けばどうなるかは火を見るより明らかである。現に二川取締役からは既にその話を持ち掛けられていた。

 だが、彼の提示する条件は私の求めるものとはほど遠い。二川取締役はニューヨーク支部の部長の地位を与えることを約束しているが、私は飽くまで本社の経営部門を希望していた。

――そしていずれは私がこの篠原物産を手に入れるのだ。

 同じ野心を抱いているからこそ、二川取締役が考えていることなどお見通しである。一見聞こえのいい海外のポストを与えておきながら、私のノウハウを根こそぎ搾り取った後は、そのまま島流しにする算段なのだろう。

「あれはどうも交渉事が苦手でな。そこが、経営者として不安な点ではあるが」

「会長、ご安心を。そのために私がいるのです」

 翁は大きく二度頷いた。

「そう、そうだな。儂に万が一のことがあった際には、どうかあれを助けてやってくれ……」

 この老人は己の手駒が従順な兎を装う狼であることに決して気づくことはあるまい。

 若いころは相当の切れ者だったと聞いているが、老いて子や孫に全てを譲渡したくなったところを見ると、所詮これも矮小な人間に過ぎないと言うことか。
 
 皿は更に進み、次はニソワーズが運ばれて来る。

 すっかり機嫌を良くした翁は、それに舌鼓を打ちながら再び私に視線を向けた。

「今日はもう1つ話がある。これはお前自身に関わることだ」

「何でしょう?」

「お前も時期二十八だろう?そろそろ結婚を考えてはどうだ?」

 予想はしていたものの、それでも思わず顔を上げる。

「結婚ですか」

「私の親族に今年大学を卒業する娘がいてな。お前さえよければ場を設けてもいい」

 なるほど、血で絡め捕るつもりか。

「……暫く考えさせて頂けますか」

「ふむ、よかろう。お前も身辺整理があるだろうしな」

 翁は私が断るなどとは考えてもいないのだろう。

 無論、私もいずれは役に立つ妻が必要となることは良く分かっているつもりである。これは結婚と言う名のビジネスなのだ。
 
 
 食事を終え翁と別れの挨拶を交わした後、私は用意された篠原家専属のタクシーに乗り込んだ。

「世田谷のマンションまで」

 シートに背中を預ける。翁との夕食は余り美味いとは言えなかった。立て続けに二つもの不愉快な仕事を命じられれば当たり前だ。

 今日唯一あった収穫はあの少年を知ったことくらいか――。

 目を閉じその顔を思い浮かべる。神大河、と言う名前だと言っていた。

(神大河……)

 私は懐に手を入れ一枚のメモを取り出した。そこにはあの男のメールアドレスだけが書かれている。

 私は日を改めて礼をしたいので是非連絡先を教えて欲しいと頼んだのだが、あの男は自分を通さなければ接触を許さないと、決して少年に住所や電話番号を教えさせようとはしなかったのだ。

「……忌々しい餓鬼が」

 私は手の中のメモを握り潰した。
 
 このようなものなどなくとも、いくらでもあの少年に会うことは可能だ。

――貴様がそのつもりなら、私も受けて立とうではないか。
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