上 下
35 / 56
「昴貴の章」

009.自由の意味

しおりを挟む
――そう、確かに私はあれから空を飛ぶことができるようになった。

「……昴貴さん」

 だが、それは空に焦がれたからではない。

「しっかりして!」

 陛下、他ならぬ貴方に焦がれ、貴方と同じものを見たかったからです。

「お願い、目を覚まして」

 なのに陛下、何故なのです。何故、私ではなくあの男なのですか?なぜあのような下賤の者に、その御魂を分け与えたのですか!?



「昴貴さん!!」

「……?」

 私は目を瞬かせた。

 何だ、今の白日夢は?

「昴貴さん、大丈夫ですか!?」

 涙を浮かべた女が私の体を支えている。

「良かった……。突然倒れてしまって……。私、どうしたらいいのかと……」

 ああ、そうか。

 私は身体を起こし目の前の窓ガラスを見た。だがそこには先ほどの男はおらず、十年間でようやくこれが自分だと認識するに至った自分が映っている。

「昴貴さん?」

「驚かせてしまいましたね。立ちくらみがしまして」

 彼女が首を振り腕に手を添える。

「行けませんわ。お医者様を呼ばなければ」

「その必要はありません。どうやら、熱に酔ったらしい。情けないですね」

 私は彼女の手を取った。ドアの方向を見る。

「申し訳ありません」

「昴貴さん?」

「私が急ぎすぎました……。今夜は家まで送りましょう」

 彼女は驚いた目で私を見上げた。

「で、でも」

「まだ、心の準備ができていなかったのでしょう?」

 両手を取り包み込む。

「許して下さい。あなたがあまりに無防備なので、つい欲を出してしまいました」

「昴貴さん……」

 彼女は微笑み目を伏せた。

「お優しいのですね。私、貴方のような男の方に出会ったのは、初めてです」



 月曜日が始まりこれまでと変わりのないサイクルが繰り返される。そうだ何も変わりはしない。オフィスの様子も部下とのやりとりも今までと同じだ。

「F社からの資料を見て頂けますか」

「急ぎか?」

「いいえ。ただ、先方が課長でなければ話を通さないと言っておりまして……」

「分かった。早急に目を通す」

 部下の背を見送り、私は目頭を押さえた。

 先週のあの夢は何だったのだろう? いや、夢と言うにはあまりにも生々しい。失われた記憶に関わりがあるのだろうか?

「……」

 私は首を振った。

「は、馬鹿馬鹿しい」

 ドラゴンだと?非現実的な。

 だが、あの感動は今でも忘れられない。眼下に広がる緑の大地、青い海、輝く風。それと引き換え、今私がいる世界の何と色のないことだろう。

 私はオフィスを見渡した。全ての輪郭が曖昧であり、全ての景色が灰色だ。
 


 退社後に会社の駐車場に車を残し、徒歩でどこへ行くともなしに辿り着いたその場所は、新宿の道路をまたぐ歩道橋の真ん中だった。深夜のこの時刻になっても車の列は途切れることがない。

 私は欄干に手を掛けた。道の果てには、ビル街と篠原商事の本社が見える。いずれ一際大きなそのビルの最上階に上り詰める。つい先日までそれが私の生きる目的だった。

 篠原翁にそれ以外を教えられなかったからではない。抜け出す機会などいくらでもあった。他ならぬ私自身がそれが最も相応しいと受け入れたのだ。

 だが今のこの虚しさは何だろう? ここは排気ガスにまみれ、人の欲望に汚され、焦がれる空すらない。

「……」

 私は額を抑えた。篠原は異分子である私とを繋ぐ唯一の媒体だったのかもしれない。それを失えば、自分がこうなることが無意識のうちに理解していたのだろう。だからと言って、他に行くべき場所もない。

 私は懐から煙草を取り出した。火を付け、風に揺れるその煙の行方を見詰めながら思う。

 しがらみのなさをこの世界では自由と呼び、空を飛べぬ人はそれに憧れるが、寄る辺もない自由とはこの煙のように儚く、いずれ消えゆくしかないのだと言うことを知る者はいない。何にも、誰にも縛られないとはそう言うことだ。

(理由が欲しい)

 私がこの世界に生きる意味が欲しい。私を繋ぎとめてくれる誰かが欲しい。

「……」

 私はある人物を思い出し、スマートフォンを取り出した。
しおりを挟む