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「昴貴の章」

014.耐えられぬ渇き

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―― それから彼女を何とか宥め篠原家の車を呼び送り出したはいいものの、私は今度は目の前にいる第二の難問に取りかからなければならなかった。

「どうぞ」

「あ、あんがと」

 神君はグラスに注いだアイスティーを飲んだ。

「キレーな人だったなー。あのおねーさんフッたの?もったいない」

「大人には色々事情があってね」

「絶対後で惜しくなるに1000ドラクマ!」

 神君は親指を立て満面の笑顔を浮かべた。

「……」

 私はテーブル向かいの席に腰を掛け、頭痛を叱咤しつつコーヒーを飲んだ。よりによって彼に見られるとは。

「いーよなー、にーちゃんは」

「え?」

 怨念の籠った呟きに顔を上げると、神君が滂沱の涙を流している。

「俺だって、俺だって、にーちゃんみたいなモテ男になりたかった。いや、そこまで行かなくてもいい。可愛い彼女と思いっきりイチャイチャしたかったっ……!つーか彼女が欲しいと祈ったことはあったが、彼女になりたいと祈ったことはないぞ!ニッポンの神様聞き違えヒドスギ!もう賽銭なんか二度と入れんっ!」

「じ、神君?」

「桜子と別れたのっていつだったかもう思い出せねーよ。あれから女の子と手も握ってすらいない。こんなことになるならキスくらいしておけばよかったっ!」

 神君はそのままテーブルに突っ伏し一通り泣いた後、いささか荒んだ目で私を見上げた。

「にーちゃん、女とはヤレる時にヤっておいた方が後悔は無いぞ。俺は今3年間ジェントルマンだった自分に激しく後悔中だ」

「……」

 何が何やら分からないが、相当混乱していることは確からしい。

「落ち着いて」

 私は手を伸ばし彼の頭に触れた。金茶色の柔らかい髪が指先に絡む。

「今日はどうしたんだい?」

「……」

 一筋一筋が細いのだろう。弄ぶ度にくしゃくしゃと猫の毛ようにもつれてしまう。

「何か悩み事があるのならいくらでも相談に乗るが――」

「ごめんっ!」

 神君は突然手と額をテーブルに着いた。

「ごめん?謝られる覚えはどこにもないが」

「いきなり押し掛けただろ」

「い、いやそれは気にしていないが……」

 神君は更に額をテーブルに擦り付けた。

「今晩一晩泊めてくれ!」

 何だって?

 私は思いがけぬ申し出に目を瞬かせた。

「何があったんだい?ご家族が心配しているだろう?それに芦田君は?」

 芦田、と言う名前に神君が一瞬反応した。

「家は心配ない」

「だが」

 神君は怯えた表情で自分の両腕を抱き締め首を振った。

「あいつが来るから、戻りたくない。もう限界なんだ」

 理由は不明だが、あの男から一時的に避難したいのは確かなようだ。

「喧嘩でもしたのかい?」

「……喧嘩じゃないけど」

 神君は顔を伏せた。

「友達は皆流聖に面割れてるしもうにーちゃんしかいないんだ。野宿しようと思ったんだけどケーサツに捕まりそうになって」

 神君は物憂げな表情で溜息を吐いた。

「あいつ最近おかしいんだ」

「おかしい?どんな風に?」

「それは、」

 神君の顔が見る見る間に赤く染まる。

「……言えない」

 神君は泣きそうな顔で首を振った。

「ただ、月の明るい日や満月の夜におかしくなるんだ」

「月の明るい夜?」

 私はここ数か月で気分が悪くなり熱が出た日を思い出す。

 暑さばかりに気を取られていたが、そう言えば神君達と初めて会った日も、サッカーの練習を見に行った日も、夜には一際明るい月が輝いていていなかったか?

「……っ!」

 私は心臓を抑えた。

「に、にーちゃん?」

 またあの発作だ。

 今度はこれまで以上に強い。一瞬気が遠くなり息が出来なくなる。

「おい、大丈夫か!?」

「―― 大丈夫だ!」

 私は呼吸を整え、心配する神君を手で制した。

「で、でも」

「事情は分かった。今ベッドを用意しよう」

「いや、俺玄関に寝かしてくれるだけで」

 私は彼の手を掴んだ。

「そう言うわけにもいかない。しばらく待っていてくれ」
 

 蛇口を開き水を洗面台のシンクに貯め顔を洗う。しかし気分の悪さも鼓動の高鳴りも止まらない。

「何だと言うんだ?」

 病院では身体のどこにも異常はないと言われた。では月と関係がある?しかし今までにこのようなことはなかった。何故今年だけ?

 私は前の鏡を見た。水に濡れ青ざめた男の顔が映っている。そして、その瞳の色は昼間の黒ではなく、いつか彼女の言っていた夜の水色に変わっていた。

「また、幻覚か?それとも現実か?」

 私は拳を叩き付けた。鏡が音を立てて割れ、真紅が一筋流れ落ちる。その赤が割れた鏡の欠片に混じり、溶かし、視界と思考を歪め染め上げて行く。

 私は耐え切れず膝と両手を付いた。荒い息が迫り上げ、理性が次第に消え失せて行く。

(ホシイ)

(ホシイ)

(ホシイ)

 この熱さをぶつける何かが、飢えを満たす何が欲しい。

「……」

 私は顔を上げた。


「あ、にーちゃん」

 グラス2つを手にダイニングに戻った私を見、神君の表情がぱっと明るくなった。

「具合ヘーキか?」

「ああ、きっと働き過ぎだな」

「にーちゃん、企業戦士だもんなー」

 頬杖を付き屈託なく笑う。私もそれに笑顔で答えた。

「準備が出来たよ。今日は寝室のベッドで寝るといい」

「えっ、でもそれじゃにーちゃんは」

「私はソファでいい」

 神君は大きく首を振った。

「駄目だよ。邪魔してるのこっちなんだし」

「子供が遠慮をするんじゃない」

 私は席に腰を掛けた。黒い液体の入ったグラスを差し出す。

「ん?何コレ」

「コーラだよ」

「うわっ♪そんなのにーちゃんも飲むんだ?」

「ああ、貰い物にあったのを思い出してね。君は好きだろう?」

「うん!」

 神君は一気にグラスを空けた。そしてすぐに顔を顰める。

「これ、味がヘンだ。酒みたいな」

「……」

「あ、れ?」

 神君は目を擦った。

「何か、ねむ……」

 グラスがテーブルから床に転げ硬質の音を立てて割れる。

「う……ん」

 神君は必死に意識を保とうと抵抗していたが、やがてアルコールに力を奪われ、その手が力なくテーブルの上に落ちた。

「……」

 私は席を立った。完全に昏睡していることを確認し、金茶の髪に再び手を絡ませる。

「君は、自分が誰だかわからなくなりそうな時には、いつでも呼んでくれと言ったね……?」

 身体を抱え上げる。

「なら、それは今だ」
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