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帝冠より大切なもの
嬉しかったから
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翌朝、洞穴の外で、イドリスはラファトを再びサキルに引き合わせた。
明るい昼間なら、怖がらせずにドラゴンに慣れさせることが出来るかもしれないと思ったのだ。
しかしラファトは、さすがに一筋縄では行かない男だった。
「こわいこわいこわい」
大きな図体をして、ラファトが必死にイドリスの背中に隠れようとする。
昨日のように逃げ出さなくなったのは進歩だが、今日の彼はまるで鳥の雛のように、イドリスにべったりだった。
何故か、起きた瞬間から――それこそ人が小用に行く時さえもお構いなしに――どこへ行くのにも後をついてくるようになっていたのだ。
「ラファト……サキルにもなついてやれ……」
必死に抱きついてくる腕を無理やり引っ張って、その手のひらをサキルの額に触れさせる。
サキルはいつもと様子の違う主人の震える手を、ベロリと舐めた。
「わあああっ」
べっとりとついた緑の粘液に、ラファトの動揺が深まる。
「こら、サキル。ラファトが赤ん坊に戻ってるからって、舐めるんじゃない」
「よごれたっ……」
ラファトはすっかり不機嫌になって、手をブンブンと振っている。
その手を布でぬぐってやりながら、イドリスは肩をすくめた。
「……仕方ない。ちょうど天気もいいし気分転換に狩でもしよう。サキル、留守番を頼むぞ」
矢筒を背負い弓を片手に掴んで、イドリスはラファトと連れ立って森の中に入った。
眩しく落ちる木漏れ日の中、ラファトが長い白金の髪を煌めかせ、まるで猟犬のようにぴったりと付いてくる。
二人で溶け残った雪の上に残る足跡を辿って獲物を探し、しばらく歩いた。
「これはウサギだ。まだ新しい……近いぞ」
木の根元にしゃがみ込んだイドリスの後ろで、興味深々の顔でラファトが頷く。
痕跡を追ううちに、ウサギの巣穴が見つかった。
「ウサギは例え猟犬に追われても自分の縄張りから出ることがない。この辺りに居るはずだ」
じっくりと巣穴の周囲を捜す内に、白いウサギが木の皮を齧っている姿にでくわした。
「……ラファト、静かにしていろよ」
「ん」
風下の樹木の影に隠れながら、イドリスは音を立てぬように弓に矢をつがえて構え、ひゅっとそれを獲物に放つ。
一瞬にしてウサギの頭が矢に貫かれ、痙攣しながら雪の上に血を流して倒れた。
「あああっ……」
ラファトが悲鳴のような声を上げて、ウサギの方へと駆け寄ってゆく。
目を開いたまま動かなくなっているウサギの身体を一目見ると、彼は手のひらで口を押さえて立ち尽くした。
一方、イドリスはウサギの耳を掴んで獲物を拾うと、即座にナイフを首に当て、逆さ吊りにし、血抜きを始めた。
手際よく腹を裂き、腸を取り出して、獲物を毛皮と肉の塊にしてゆく。
「――このようにすれば、すぐに肉の温度が下がり、腐りにくくなる。……次はお前も獲物を仕留めてみるか?」
ラファトは血の気を失ったような顔をしていたが、こくんと頷いた。
「よし」
矢筒の紐にウサギの足を布で結びつけて背負い、二人は次の獲物を探し始めた。
よく日の当たるところを選び、雪解け水でぬかるんだ斜面を注意深く登ってゆく。
流れる水の音に混じり、獣の足音がうっすらと聞こえてくる。
耳をすましながら辺りを探ると、鬱蒼とした木々の間から、崖の上に佇む雄鹿の姿がちらりと見えた。
まだツノ先が分かれていない、若い一歳の鹿だ。
だいぶ距離があるが、狙えなくはない。
「ラファト、サキルの為にあれを獲ろう。腹側に当てると暴れさせて苦しめる。頭か、肺や心臓の集まっている胸をしっかりと狙え」
ラファトの身体を後ろから抱くようにして、弓と矢を構えさせ、位置を調整する。
すると、ラファトは無意識に身体が覚えていたのか、しっかりと背を正し、美しい構えを取った。
「今だ!」
イドリスの囁きと共に矢が放たれ、見事にそれが獲物の急所に当たって、鹿が急斜面を転がり落ちてゆく。
二人は窪地に飛び込み、雄鹿の落ちた先に向かった。
身の軽いラファトは先に着いたものの、自分で仕留めた獲物を前に跪き、ぼんやりとしている。
イドリスは彼の隣まで来ると、ラファトの手に自分のナイフを握らせた。
「心の臓が止まり切らないうちに血を抜いてしまわなければならない。鎖骨の中心だ。やれ」
切るべき頸動脈の場所を示したが、ラファトは戸惑ったまま、首を振った。
「……肉が臭くなって、サキルが食わなくなったらどうする」
イドリスに注意されても、ラファトは獲物の虚ろな瞳を見つめたまま唇を噛み締め、動こうとしない。
「――仕方ない、貸せ」
イドリスはラファトの手からナイフを奪い取り、手早く傷口を開けた。
まだ止まり切らない心臓が、雪の上に赤い血潮を押し出していく。
内臓を取り出す解体の作業をしている間にも、ラファトは後味の悪いものを見るような、悲しそうな顔をしていた。
さっきウサギを獲った時にも、特に嬉しそうな顔をしていなかったことを、イドリスは思い出した。
恐らく食べ物と結びついていないからだろう。
仕方がない――と思いながらも、他に思いついたことがあった。
もしかすると、子供の頃のラファトが、元々はこんな風な人間だったのではないだろうか。
人見知りで、どちらかといえば内気で、武芸自慢をすることよりも、動物の方に愛情や関心が深いような子供。
騎竜術は天才的だが、人間に関しては、やり取りが不器用で一方的だった理由が何となく分かったような気がした。
恐らく帝国で叩き込まれた教育が、こんな愛らしい部分を完全に殺して、彼を我儘で不遜な人間にしてしまったのかもしれない。
ふと気付くと、イドリスの手際をただ横で見ているばかりのラファトが勝手にうなだれてしょげている。
イドリスはナイフを置くと、彼の肩を強く抱き締め、噛んで含めるように言い聞かせた。
「ラファト、出来ないことがあっても、別に良い。……できるようになる時まで、いや、出来なくても……代わりに上手く出来るものがいるなら、無理する必要はない。……お前は、よくやった。初めてなのに、鹿を仕留めたのだ。偉かったな」
すぐに腕を離し、イドリスがまた解体作業に戻ろうとすると、ラファトそれを止めるように両腕でイドリスを捕まえ、その唇に触れるだけの口付けをした。
「……!」
柔らかな感触に驚くイドリスの横で、膝を抱きながらラファトがはにかんで微笑む。
「……口にする、うれしかったから」
言葉が拙すぎて、昨日の口付けが嬉しかったから口付けしたのか、今嬉しかったから口付けしたのか、よく分からない。
……だが、きっと両方なのだろう。
「……邪魔するなよ」
鹿のような大きな獲物の解体はかなりの手間だ。
イドリスは手元に集中したまま、密かに唇を笑みの形にした。
明るい昼間なら、怖がらせずにドラゴンに慣れさせることが出来るかもしれないと思ったのだ。
しかしラファトは、さすがに一筋縄では行かない男だった。
「こわいこわいこわい」
大きな図体をして、ラファトが必死にイドリスの背中に隠れようとする。
昨日のように逃げ出さなくなったのは進歩だが、今日の彼はまるで鳥の雛のように、イドリスにべったりだった。
何故か、起きた瞬間から――それこそ人が小用に行く時さえもお構いなしに――どこへ行くのにも後をついてくるようになっていたのだ。
「ラファト……サキルにもなついてやれ……」
必死に抱きついてくる腕を無理やり引っ張って、その手のひらをサキルの額に触れさせる。
サキルはいつもと様子の違う主人の震える手を、ベロリと舐めた。
「わあああっ」
べっとりとついた緑の粘液に、ラファトの動揺が深まる。
「こら、サキル。ラファトが赤ん坊に戻ってるからって、舐めるんじゃない」
「よごれたっ……」
ラファトはすっかり不機嫌になって、手をブンブンと振っている。
その手を布でぬぐってやりながら、イドリスは肩をすくめた。
「……仕方ない。ちょうど天気もいいし気分転換に狩でもしよう。サキル、留守番を頼むぞ」
矢筒を背負い弓を片手に掴んで、イドリスはラファトと連れ立って森の中に入った。
眩しく落ちる木漏れ日の中、ラファトが長い白金の髪を煌めかせ、まるで猟犬のようにぴったりと付いてくる。
二人で溶け残った雪の上に残る足跡を辿って獲物を探し、しばらく歩いた。
「これはウサギだ。まだ新しい……近いぞ」
木の根元にしゃがみ込んだイドリスの後ろで、興味深々の顔でラファトが頷く。
痕跡を追ううちに、ウサギの巣穴が見つかった。
「ウサギは例え猟犬に追われても自分の縄張りから出ることがない。この辺りに居るはずだ」
じっくりと巣穴の周囲を捜す内に、白いウサギが木の皮を齧っている姿にでくわした。
「……ラファト、静かにしていろよ」
「ん」
風下の樹木の影に隠れながら、イドリスは音を立てぬように弓に矢をつがえて構え、ひゅっとそれを獲物に放つ。
一瞬にしてウサギの頭が矢に貫かれ、痙攣しながら雪の上に血を流して倒れた。
「あああっ……」
ラファトが悲鳴のような声を上げて、ウサギの方へと駆け寄ってゆく。
目を開いたまま動かなくなっているウサギの身体を一目見ると、彼は手のひらで口を押さえて立ち尽くした。
一方、イドリスはウサギの耳を掴んで獲物を拾うと、即座にナイフを首に当て、逆さ吊りにし、血抜きを始めた。
手際よく腹を裂き、腸を取り出して、獲物を毛皮と肉の塊にしてゆく。
「――このようにすれば、すぐに肉の温度が下がり、腐りにくくなる。……次はお前も獲物を仕留めてみるか?」
ラファトは血の気を失ったような顔をしていたが、こくんと頷いた。
「よし」
矢筒の紐にウサギの足を布で結びつけて背負い、二人は次の獲物を探し始めた。
よく日の当たるところを選び、雪解け水でぬかるんだ斜面を注意深く登ってゆく。
流れる水の音に混じり、獣の足音がうっすらと聞こえてくる。
耳をすましながら辺りを探ると、鬱蒼とした木々の間から、崖の上に佇む雄鹿の姿がちらりと見えた。
まだツノ先が分かれていない、若い一歳の鹿だ。
だいぶ距離があるが、狙えなくはない。
「ラファト、サキルの為にあれを獲ろう。腹側に当てると暴れさせて苦しめる。頭か、肺や心臓の集まっている胸をしっかりと狙え」
ラファトの身体を後ろから抱くようにして、弓と矢を構えさせ、位置を調整する。
すると、ラファトは無意識に身体が覚えていたのか、しっかりと背を正し、美しい構えを取った。
「今だ!」
イドリスの囁きと共に矢が放たれ、見事にそれが獲物の急所に当たって、鹿が急斜面を転がり落ちてゆく。
二人は窪地に飛び込み、雄鹿の落ちた先に向かった。
身の軽いラファトは先に着いたものの、自分で仕留めた獲物を前に跪き、ぼんやりとしている。
イドリスは彼の隣まで来ると、ラファトの手に自分のナイフを握らせた。
「心の臓が止まり切らないうちに血を抜いてしまわなければならない。鎖骨の中心だ。やれ」
切るべき頸動脈の場所を示したが、ラファトは戸惑ったまま、首を振った。
「……肉が臭くなって、サキルが食わなくなったらどうする」
イドリスに注意されても、ラファトは獲物の虚ろな瞳を見つめたまま唇を噛み締め、動こうとしない。
「――仕方ない、貸せ」
イドリスはラファトの手からナイフを奪い取り、手早く傷口を開けた。
まだ止まり切らない心臓が、雪の上に赤い血潮を押し出していく。
内臓を取り出す解体の作業をしている間にも、ラファトは後味の悪いものを見るような、悲しそうな顔をしていた。
さっきウサギを獲った時にも、特に嬉しそうな顔をしていなかったことを、イドリスは思い出した。
恐らく食べ物と結びついていないからだろう。
仕方がない――と思いながらも、他に思いついたことがあった。
もしかすると、子供の頃のラファトが、元々はこんな風な人間だったのではないだろうか。
人見知りで、どちらかといえば内気で、武芸自慢をすることよりも、動物の方に愛情や関心が深いような子供。
騎竜術は天才的だが、人間に関しては、やり取りが不器用で一方的だった理由が何となく分かったような気がした。
恐らく帝国で叩き込まれた教育が、こんな愛らしい部分を完全に殺して、彼を我儘で不遜な人間にしてしまったのかもしれない。
ふと気付くと、イドリスの手際をただ横で見ているばかりのラファトが勝手にうなだれてしょげている。
イドリスはナイフを置くと、彼の肩を強く抱き締め、噛んで含めるように言い聞かせた。
「ラファト、出来ないことがあっても、別に良い。……できるようになる時まで、いや、出来なくても……代わりに上手く出来るものがいるなら、無理する必要はない。……お前は、よくやった。初めてなのに、鹿を仕留めたのだ。偉かったな」
すぐに腕を離し、イドリスがまた解体作業に戻ろうとすると、ラファトそれを止めるように両腕でイドリスを捕まえ、その唇に触れるだけの口付けをした。
「……!」
柔らかな感触に驚くイドリスの横で、膝を抱きながらラファトがはにかんで微笑む。
「……口にする、うれしかったから」
言葉が拙すぎて、昨日の口付けが嬉しかったから口付けしたのか、今嬉しかったから口付けしたのか、よく分からない。
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