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色無き女・二
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庭に面した廊下側は襖で閉め切られ、奥座敷は昼間だというのに薄暗かった。
「研究所はこんな子供を雇うほど人手に困っているのか。喜ばせてやれるほど面白い物はないが、足を崩して楽にするが良い」
「・・・」
無言のままのクロに「冗談だ。所長からお前のことは聞いている」と半笑いでからかった後、雪村の女主人は侍女を呼んだ。
だだっ広い和室には風よけの屏風が立てかけられ、そこへ敷かれた布団で雪村美智子は客人を迎えた。侍女が用意した座椅子にもたれ、クロに遠路の労をねぎらい茶を勧めた。
故意なのか、無意識なのか、訪問者を品定めしているような視線を不愉快に思いつつも、シロに託された手紙を手に美智子のそばへ近づいた。茜と約束した通り、目を伏せ、極力彼女を見ないように心がけて。
その様子を、女主人は鼻で笑った。
「この小間使いは、まったく礼儀知らずだな。目上の者へ顔を背けたまま挨拶するつもりか」
かんに触る物言いだ。
「俺は誰の小間使いでもねぇよ。研究所で調査員はしてるけど、雇い主の身内だからって媚びへつらう気はねぇし、失礼な奴だって思ってくれても全然かまわねぇから」
クロは手紙を美智子の枕元へ置き、すぐ離れた。
女王様気取りでムカつく女だが、病人には違いない。病人のワガママを真に受けてはいけないと言い聞かせた。茜はじっと二人のやり取りをリュックの中からうかがっている。
「ところで、お前は記憶がないそうだな。所長から聞いているぞ、初夏に庭に転がっていた男を拾ったら、自分が何者かも覚えていなかったと。哀れに思って、保護してやったんだとな」
「だから何だよ」
「野良犬はちゃんと言いつけを守れるかい?それとも主人に牙を剥く駄犬のままかい?」
「何のことだ?俺は犬じゃねぇ」
シロが自分を拾ったと言うことは間違っていない。世話になっていることだから、百歩譲って聞き流せる。しかし、この不遜な女に野良犬でも拾ったかのような言い方をされることには我慢ならない。
気味悪く目を吊り上げて笑う彼女は、さらに「本当は記憶喪失などではなく、ただ身元を隠しているだけではないのか?」と探りを入れてきた。
人の気も知らないで・・・!
「何を根拠にそんなこと言うんだ!人を見下すのもいい加減にしろよ!」
「クロ!!」
挑発に乗りかけたクロを茜が瞬時に制した。寸でのところで美智子を睨みつけずに済んだ。
「おや、婆さんも一緒なのかい。まだくたばっていなかったんだな。今日はガキのお守りかい?ご苦労様」
喉元につかえた遺物のような気持ち悪さのある嘲笑が座敷中に響き渡った。
冗談でも年寄り扱いされると必ず反発する茜が、身を小さくして黙っている。クロはケラケラと笑い続ける美智子に、これ以上ないほどの敵意が湧いてきた。
この女、何様のつもりだよ!
「あぁ、愉快、愉快。久々に腹の底から笑わせてもらったよ」
高笑いして息が乱れた美智子は、ほんのり紅潮した頬を青白い手で撫でた。
今にも怒鳴りつけたい衝動を堪えるクロと、必死で穏便に済ませようとする茜。二人の姿に再び笑いが込み上げてきた彼女は、さらに陰険な声で続けた。
「ふふふっ、あはははっ!そんなに私が怖いのかい?そんなに怯えずとも、私は貧弱な病人だ」
美智子は可笑しくてたまらないというふうに、くの字になっている。
「そうビクビク怯えずとも良いのだぞ?それとも、病んだ女ともまともに会話もできない肝の小さい男なのか、この野良犬は。ちっぽけな獣に庇護してもらわないと何一つできないなんてな」
「んだと、このババァ!!」
ついに堪忍袋の緒が切れたクロは、美智子を真っすぐに睨みつけた。茜が飛びついて止めようとしたが、遅かった。
ドクン!
美智子の赤味を帯びた瞳を直視したと同時に、クロの動悸は激しくなった。
目の前の風景が、溶けた飴のようにぐにゃりと歪む。大きな水流に飲みこまれた気分だ。
なんだ、この感覚は?
「・・・うぅっ」
足元が揺らぐ。自分が立っているのか倒れているのか分からない。三半規管が狂っているのか。胃の中がひっくり返りそうだ。
「クロ!クロ!」
茜が呼んでいる・・・
けど、どこから呼んでいるのか分からない。
手の先や足の先、末端の方から力が抜けていくようだ。全身を巡る血液が、指の先から吸い取られていく感覚だ。
このまま、何もかもすべて抜き取られてしまったら、自分は一体どうなるのだろう・・・
雪村邸に美智子の高笑いと茜の悲鳴が響く中、死に物狂いでもがく。
ありったけの力を振りしぼって滅茶苦茶に腕を振り回し、喉が裂けるほど絶叫した末、目の前が真っ暗になってしまった。
そして、そのまま闇に飲まれていった。
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「・・・」
無言のままのクロに「冗談だ。所長からお前のことは聞いている」と半笑いでからかった後、雪村の女主人は侍女を呼んだ。
だだっ広い和室には風よけの屏風が立てかけられ、そこへ敷かれた布団で雪村美智子は客人を迎えた。侍女が用意した座椅子にもたれ、クロに遠路の労をねぎらい茶を勧めた。
故意なのか、無意識なのか、訪問者を品定めしているような視線を不愉快に思いつつも、シロに託された手紙を手に美智子のそばへ近づいた。茜と約束した通り、目を伏せ、極力彼女を見ないように心がけて。
その様子を、女主人は鼻で笑った。
「この小間使いは、まったく礼儀知らずだな。目上の者へ顔を背けたまま挨拶するつもりか」
かんに触る物言いだ。
「俺は誰の小間使いでもねぇよ。研究所で調査員はしてるけど、雇い主の身内だからって媚びへつらう気はねぇし、失礼な奴だって思ってくれても全然かまわねぇから」
クロは手紙を美智子の枕元へ置き、すぐ離れた。
女王様気取りでムカつく女だが、病人には違いない。病人のワガママを真に受けてはいけないと言い聞かせた。茜はじっと二人のやり取りをリュックの中からうかがっている。
「ところで、お前は記憶がないそうだな。所長から聞いているぞ、初夏に庭に転がっていた男を拾ったら、自分が何者かも覚えていなかったと。哀れに思って、保護してやったんだとな」
「だから何だよ」
「野良犬はちゃんと言いつけを守れるかい?それとも主人に牙を剥く駄犬のままかい?」
「何のことだ?俺は犬じゃねぇ」
シロが自分を拾ったと言うことは間違っていない。世話になっていることだから、百歩譲って聞き流せる。しかし、この不遜な女に野良犬でも拾ったかのような言い方をされることには我慢ならない。
気味悪く目を吊り上げて笑う彼女は、さらに「本当は記憶喪失などではなく、ただ身元を隠しているだけではないのか?」と探りを入れてきた。
人の気も知らないで・・・!
「何を根拠にそんなこと言うんだ!人を見下すのもいい加減にしろよ!」
「クロ!!」
挑発に乗りかけたクロを茜が瞬時に制した。寸でのところで美智子を睨みつけずに済んだ。
「おや、婆さんも一緒なのかい。まだくたばっていなかったんだな。今日はガキのお守りかい?ご苦労様」
喉元につかえた遺物のような気持ち悪さのある嘲笑が座敷中に響き渡った。
冗談でも年寄り扱いされると必ず反発する茜が、身を小さくして黙っている。クロはケラケラと笑い続ける美智子に、これ以上ないほどの敵意が湧いてきた。
この女、何様のつもりだよ!
「あぁ、愉快、愉快。久々に腹の底から笑わせてもらったよ」
高笑いして息が乱れた美智子は、ほんのり紅潮した頬を青白い手で撫でた。
今にも怒鳴りつけたい衝動を堪えるクロと、必死で穏便に済ませようとする茜。二人の姿に再び笑いが込み上げてきた彼女は、さらに陰険な声で続けた。
「ふふふっ、あはははっ!そんなに私が怖いのかい?そんなに怯えずとも、私は貧弱な病人だ」
美智子は可笑しくてたまらないというふうに、くの字になっている。
「そうビクビク怯えずとも良いのだぞ?それとも、病んだ女ともまともに会話もできない肝の小さい男なのか、この野良犬は。ちっぽけな獣に庇護してもらわないと何一つできないなんてな」
「んだと、このババァ!!」
ついに堪忍袋の緒が切れたクロは、美智子を真っすぐに睨みつけた。茜が飛びついて止めようとしたが、遅かった。
ドクン!
美智子の赤味を帯びた瞳を直視したと同時に、クロの動悸は激しくなった。
目の前の風景が、溶けた飴のようにぐにゃりと歪む。大きな水流に飲みこまれた気分だ。
なんだ、この感覚は?
「・・・うぅっ」
足元が揺らぐ。自分が立っているのか倒れているのか分からない。三半規管が狂っているのか。胃の中がひっくり返りそうだ。
「クロ!クロ!」
茜が呼んでいる・・・
けど、どこから呼んでいるのか分からない。
手の先や足の先、末端の方から力が抜けていくようだ。全身を巡る血液が、指の先から吸い取られていく感覚だ。
このまま、何もかもすべて抜き取られてしまったら、自分は一体どうなるのだろう・・・
雪村邸に美智子の高笑いと茜の悲鳴が響く中、死に物狂いでもがく。
ありったけの力を振りしぼって滅茶苦茶に腕を振り回し、喉が裂けるほど絶叫した末、目の前が真っ暗になってしまった。
そして、そのまま闇に飲まれていった。
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