西上総神通力研究所

智春

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刃持つ男・二

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寝起きの目をこすり、研究所の離れに間借りしている自室から、調査資料が収められている部屋へ向かった。

雨戸の閉め切られた廊下は朝の陽も入らず、まだ夜のようだった。
もう慣れてしまったが、ここへ雇われた当初はこの暗さが居心地悪かった。所長であるシロの体質のせいだと分かっていても、昼も夜も暗い研究所内では、時間の経過が通常の世界と違うようなに錯覚してしまう。深い海の底のみたいだ。

クロは、朝一で資料を取りに来るように言われていた。
今回調査する対象者は、今日の午後出所予定なのだそうだ。事件の状況から、シロが「特殊能力者の可能性が高い」と判断し、もし能力者だったとしたら、その能力を詳細に分析するように言われていた。

出所って、犯罪者まで相手にするのか。

「もし能力者じゃなかったら、どう言い訳すればいいんだ?声かけておいてよ」

様々な状況をシミュレーションしつつ、大あくびしてから煙草をくわえ火を点けた。
ノックもせずに資料を保管する部屋のドアに手を伸ばしたクロは、そのまま動きを止めた。誰か部屋にいる。

「クロに何かしたら、アタシはアンタを許さないからね!アタシみたいな人は、二度と出させないから」

「何をそんなに殺気立っているのですか、茜さん。そんなに怒ると、せっかくの美人さんが台無しですよ」

「ふざけないで。アンタ、雪村に何させようとしたの?あの子に何しようとしたのよ?もう少しで、あの子、雪村に飲まれちゃうところだったのよ?」

ドアノブを握ったまま、クロはその場に固まった。
茜がシロを問い詰めている。しかも、自分のことで。

今までシロに対して悪態はついても従順だった茜が、主人に食ってかかっている姿は初めて見た。怒りの原因は、先日の雪村での一件らしい。

先日、シロに頼まれ雪村邸に派遣された日の記憶はほとんどない。
付き添いで一緒に訪問した茜に、いくら訊いても何ひとつ教えてくれないし、シロもニヤニヤ笑うだけではぐらかされていた。ひどく嫌な体験をしたことは確かだが。

「今まで、助手たちが同様の扱いをされていても口出ししなかったのに、なぜクロ君だけ気に掛けるのですか?」

「クロだけじゃないわ。他の子だって、本当は守ってあげたかったわよ。アタシにその力があれば。でも、今回は、クロは・・・何も悪いことしてないじゃない」

「記憶がないので、過去が分からないだけです。分からないのなら、悪人か、善人か言いきれません」

湯飲みからコーヒーを啜った音がして、「いや、大罪人だと言っていましたっけ、八神の調査の時に」とかすかに笑ったような声色で言った。

何のことを言っているんだ?雪村が何をしているって?

疑問はいくつも浮かんでくるが、ドアを開けて問うことを躊躇ってしまった。
自分の知らないところで自分以外の者たちが動いている・・・気分の良い話ではない。しかも、その中に茜がいることが信じられない。
気になるが、余計なしがらみに煩わされたくはない。

「アンタがどんな企てをしようとも、きっとクロなら打ち負かしてくれるわ。あの子、強いわよ」

「何のことでしょうか?僕がクロ君に何かするとお思いですか?」

「へらへら笑って、日差しにも負けるひ弱な男だと侮らせて、とんでもないことを画策しているってことくらい、能力を失ったアタシにでも分かるわ。見え見えよ、アンタの欲が」

「口が悪くなりましたね。いったい誰に影響されたのか」

「誰のせいでもないわ。アタシ自身がもう嫌気がさしただけよ!」

そう言い放った茜が、ドアから飛び出してきて、廊下に立ち尽くしているクロに驚いた。

「茜」

「クロ!なんでアンタ、ここに・・・」

気が昂ぶって逆立った毛並みをごまかすように、クロに足元をすり抜けて「先に準備しておくわよ」と一言残し走り去った。

「クロ君、どうぞ。入ってきてください」

茜の小さな後ろ姿を見送り、乱雑に書物が積み上げられた薄暗い部屋に入ったクロは、〈山嵐〉と付箋の貼られた対象者のプロフィールを渡された。
いつものようにシロから能力の質などの仮説を聞きながら、いつの間にか燃え尽きてしまった煙草の吸殻を空き缶にねじ込んだ。

さっきの会話はいったいなんなのか?

正面に座り、細い目で自分を見つめて話すシロの声を遠くに感じつつ、悲しそうに見えた茜の背中が脳裏からなかなか消えなかった。
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