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霜月
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辿り着いた寺院の、山にせりだした舞台に立ち、冬支度をし始めた木々と、その袂に広がる古の都を眺める。
「宇佐美くん、もっとこっちに来たら?」
手摺りギリギリのところに立って眼下を覗き込んでいた海老原が、手招きをしてくる。
「あ、あぁ」
舞台の真ん中ら辺で景色を楽しんでいた俺は、海老原の呼び掛けに応えて、ゆっくり足を進める。
海老原の隣では、まだよちよち歩き女の子が祖父に手を繋がれて、手摺りの下を見て楽しそうに声を上げている。
吊り橋みたいに揺れることはないし、あんな子供だって平気で近付いてるんだ。
大丈夫だ、と言い聞かせながら、手摺りに近付く度に重くなっていく足を叱咤激励する。
「無理して行かなくてもいいですよ」
右隣を歩く男が、心配そうに声を掛けてくる。
「無理なんかしてない」
「そうですか。僕は少し怖いので、手を繋いでもらってもいいですか?」
「仕方ねーなー。海老原に、アンタが怖がって手を繋いでくれって泣いて頼んできたから繋いでやったって言うからな」
「ええ。本当のことですから構いませんよ」
右手を差し出すと、クスリと笑った男が左手を重ねてくる。
掌に、仄かな熱が伝わってきた。
その優しい熱が俺の中にある恐怖や不安を吸いとっていったようで、さっきまで付いていた錘が外れたように軽くなった足取りで、海老原の隣に向かう。
「コイツが怖いって言うからさ……」
海老原の隣に立つと、何も聞かれていないのに繋がれた手の言い訳をしてしまう。
「可愛い」
俺の言葉で手を繋いでいることに気付いたらしい海老原が、クスッと笑う。
完璧と表現しても差し障りのない美しい容姿で、何も怖いものなどないような大人な雰囲気を漂わせる男が、高いところが怖くて手を繋いでくれとせがんだのを可愛いと思ったのか?
確かに男には、見た目からは想像できないようなガキっぽいところや、無垢な子供のようなところもある。
その姿は、四六時中一緒にいて、声も聞こえる俺しか知らないだろうと思っていた。
悔しいような、寂しいような気分で少し胸が痛い。
俺だけにしか懐かない野良猫が海老原にも懐いていたのを知ったような、特別なのは自分だけではないのだと知った虚しさなのだろうか。
「幽霊さんじゃなくて、宇佐美くんを可愛いなって思ったんだからね」
だから安心して、と意味深に笑う海老原。
俺が可愛い? 頭にきてもいい台詞を言われたのに、それが男に向けられた台詞だったのではないと分かり、ほっとしている自分がいて混乱する。
古都の町並みを眺めることに集中して、変な方向に進みそうになる思考を止めるように試みた。
「滝に向かって左が学問成就の水、真ん中が恋愛成就の水、右が延命長寿の水なんだよ。どれが飲みたい?」
寺院を後にして裏手にある滝に辿り着くと、滝の前にできた三本の行列を指差しながら海老原が聞いてきた。
「学問、かな」
ちらりと男の顔を見ると、異議はないと言わんばかりに頷いた。
「だよね。ボクも学問にしようと思ってたもん」
学問成就の水の前には、俺と同じ制服を着た奴ばかりが並んでいる。
苦笑しながら、右に視線を移していく。
延命長寿の水の前には、ツアーで来ているのか、胸に同じバッジを付けた中高年の団体が並んでいる。
恋愛成就の水には、うちの学校の女子や大学生くらいの若い女性のグループが並んでいた。
そんな行列に、学ラン姿が混ざっているのに気付いた。見覚えのある、あの後ろ姿は……
「柚木?」
迷わず学問成就に並ぶと誰もが思っていただろう柚木が、何故か恋愛成就に並んでいるのだ。
柚木の後ろに並ぶうちの学校の女子達が、信じられないような光景が幻覚ではないことを確かめ合うように耳打ちしあっている。
隣の学問成就に並んでいる奴等も、本当にあの柚木なのか? と確認するように凝視している。
注目の的の柚木は俯き、羞恥に耐えるように拳を握っている。
その様子を学問成就に並んだ佐久間が、ケラケラ笑いながら写真に撮っている。
「なんだ、あれ?」
柚木の様子から自ら進んで並んだわけではなく、佐久間に命令されて並んだのだろうと推測できる。
何故そんなことをしているんだろうと疑問に思い、海老原に聞いてみる。
「公開羞恥プレイじゃないの?」
「はぁ?」
「ホテルの隣の部屋、柚木くんと佐久間くんなんだよね。煩くなきゃいいけど」
クスクス笑いながら、学問成就の列の最後尾に向かっていく海老原。
「柚木は佐久間に虐められているのか?」
その原因が俺だとしたら、胸糞悪いので止めさせなければならない。
俺とあの二人の関係を知っている男はどう思っているのか、訊ねてみる。
「虐めでしょうが、苦痛を感じるものではなく快楽を感じるものですから安心してください」
「はぁ? 虐められるのが好きな奴なんていないだろ」
「腐った蜜柑の場合は、嫌よ嫌よも好きなうち、というやつですから拓也が気を病むことはありませんよ」
「そうなのか?」
そういうのに精通していそうな男の言うことだから、大丈夫なのだろう。
そうなんだ。男は性的なことに手慣れているんだ。
俺だけは特別だと言っても、永久に共にいたいと思ったのは俺だけだと言っても、男にしか恥ずかしい姿を見せたことのない俺とは違い、男は過去に何人かと肌を合わせていたのだろう。
俺じゃなくても、体が熱くなって求めていたのだろうか?
まるで針山にでもされたかのように、心臓にチクチクチクと小さな針が刺さっていく。
俺の記憶しかいらないと言うのならば、過去の経験も全て消えてしまえばいいのに。
心に深く残っている傷も、体が覚えている記憶も、全て無くなってしまえばいい。
言葉だけの特別なんていらないんだ。俺が欲しいのは……
「拓也?」
心配そうに男に名を呼ばれて、我に返る。
「あ、あぁ、何でもない。来年の受験の為にしっかり水を飲んどかなきゃな」
何でもないということをアピールするように軽く言い、海老原が並ぶ学問成就の水の最後尾へと足を進める。
海に落ちて死を意識してから、なんだか思考が可笑しい。
海水に思考回路を可笑しくする未知の生物でも混ざっていたのだろうか?
ここ最近の自分を省みると、笑い話ではないかもしれないと背中がゾクリとした。
「宇佐美くん、もっとこっちに来たら?」
手摺りギリギリのところに立って眼下を覗き込んでいた海老原が、手招きをしてくる。
「あ、あぁ」
舞台の真ん中ら辺で景色を楽しんでいた俺は、海老原の呼び掛けに応えて、ゆっくり足を進める。
海老原の隣では、まだよちよち歩き女の子が祖父に手を繋がれて、手摺りの下を見て楽しそうに声を上げている。
吊り橋みたいに揺れることはないし、あんな子供だって平気で近付いてるんだ。
大丈夫だ、と言い聞かせながら、手摺りに近付く度に重くなっていく足を叱咤激励する。
「無理して行かなくてもいいですよ」
右隣を歩く男が、心配そうに声を掛けてくる。
「無理なんかしてない」
「そうですか。僕は少し怖いので、手を繋いでもらってもいいですか?」
「仕方ねーなー。海老原に、アンタが怖がって手を繋いでくれって泣いて頼んできたから繋いでやったって言うからな」
「ええ。本当のことですから構いませんよ」
右手を差し出すと、クスリと笑った男が左手を重ねてくる。
掌に、仄かな熱が伝わってきた。
その優しい熱が俺の中にある恐怖や不安を吸いとっていったようで、さっきまで付いていた錘が外れたように軽くなった足取りで、海老原の隣に向かう。
「コイツが怖いって言うからさ……」
海老原の隣に立つと、何も聞かれていないのに繋がれた手の言い訳をしてしまう。
「可愛い」
俺の言葉で手を繋いでいることに気付いたらしい海老原が、クスッと笑う。
完璧と表現しても差し障りのない美しい容姿で、何も怖いものなどないような大人な雰囲気を漂わせる男が、高いところが怖くて手を繋いでくれとせがんだのを可愛いと思ったのか?
確かに男には、見た目からは想像できないようなガキっぽいところや、無垢な子供のようなところもある。
その姿は、四六時中一緒にいて、声も聞こえる俺しか知らないだろうと思っていた。
悔しいような、寂しいような気分で少し胸が痛い。
俺だけにしか懐かない野良猫が海老原にも懐いていたのを知ったような、特別なのは自分だけではないのだと知った虚しさなのだろうか。
「幽霊さんじゃなくて、宇佐美くんを可愛いなって思ったんだからね」
だから安心して、と意味深に笑う海老原。
俺が可愛い? 頭にきてもいい台詞を言われたのに、それが男に向けられた台詞だったのではないと分かり、ほっとしている自分がいて混乱する。
古都の町並みを眺めることに集中して、変な方向に進みそうになる思考を止めるように試みた。
「滝に向かって左が学問成就の水、真ん中が恋愛成就の水、右が延命長寿の水なんだよ。どれが飲みたい?」
寺院を後にして裏手にある滝に辿り着くと、滝の前にできた三本の行列を指差しながら海老原が聞いてきた。
「学問、かな」
ちらりと男の顔を見ると、異議はないと言わんばかりに頷いた。
「だよね。ボクも学問にしようと思ってたもん」
学問成就の水の前には、俺と同じ制服を着た奴ばかりが並んでいる。
苦笑しながら、右に視線を移していく。
延命長寿の水の前には、ツアーで来ているのか、胸に同じバッジを付けた中高年の団体が並んでいる。
恋愛成就の水には、うちの学校の女子や大学生くらいの若い女性のグループが並んでいた。
そんな行列に、学ラン姿が混ざっているのに気付いた。見覚えのある、あの後ろ姿は……
「柚木?」
迷わず学問成就に並ぶと誰もが思っていただろう柚木が、何故か恋愛成就に並んでいるのだ。
柚木の後ろに並ぶうちの学校の女子達が、信じられないような光景が幻覚ではないことを確かめ合うように耳打ちしあっている。
隣の学問成就に並んでいる奴等も、本当にあの柚木なのか? と確認するように凝視している。
注目の的の柚木は俯き、羞恥に耐えるように拳を握っている。
その様子を学問成就に並んだ佐久間が、ケラケラ笑いながら写真に撮っている。
「なんだ、あれ?」
柚木の様子から自ら進んで並んだわけではなく、佐久間に命令されて並んだのだろうと推測できる。
何故そんなことをしているんだろうと疑問に思い、海老原に聞いてみる。
「公開羞恥プレイじゃないの?」
「はぁ?」
「ホテルの隣の部屋、柚木くんと佐久間くんなんだよね。煩くなきゃいいけど」
クスクス笑いながら、学問成就の列の最後尾に向かっていく海老原。
「柚木は佐久間に虐められているのか?」
その原因が俺だとしたら、胸糞悪いので止めさせなければならない。
俺とあの二人の関係を知っている男はどう思っているのか、訊ねてみる。
「虐めでしょうが、苦痛を感じるものではなく快楽を感じるものですから安心してください」
「はぁ? 虐められるのが好きな奴なんていないだろ」
「腐った蜜柑の場合は、嫌よ嫌よも好きなうち、というやつですから拓也が気を病むことはありませんよ」
「そうなのか?」
そういうのに精通していそうな男の言うことだから、大丈夫なのだろう。
そうなんだ。男は性的なことに手慣れているんだ。
俺だけは特別だと言っても、永久に共にいたいと思ったのは俺だけだと言っても、男にしか恥ずかしい姿を見せたことのない俺とは違い、男は過去に何人かと肌を合わせていたのだろう。
俺じゃなくても、体が熱くなって求めていたのだろうか?
まるで針山にでもされたかのように、心臓にチクチクチクと小さな針が刺さっていく。
俺の記憶しかいらないと言うのならば、過去の経験も全て消えてしまえばいいのに。
心に深く残っている傷も、体が覚えている記憶も、全て無くなってしまえばいい。
言葉だけの特別なんていらないんだ。俺が欲しいのは……
「拓也?」
心配そうに男に名を呼ばれて、我に返る。
「あ、あぁ、何でもない。来年の受験の為にしっかり水を飲んどかなきゃな」
何でもないということをアピールするように軽く言い、海老原が並ぶ学問成就の水の最後尾へと足を進める。
海に落ちて死を意識してから、なんだか思考が可笑しい。
海水に思考回路を可笑しくする未知の生物でも混ざっていたのだろうか?
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