妖狐乙嫁譚

サモト

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決意 1

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 夏の盛りであっても川の水は冷たい。
 さらさらと流れる小川に素足を浸して、十和は頬をゆるめた。

「気持ちいいですね、月白様」
「冷たい」

 狐姿の月白も前脚を水につけた。

「……怖くないか?」
「これくらい浅ければ平気です。近くに妖気もありませんし」

 昔、妖怪に水に引きこまれた時は足のつかない深さだったが、この小川の浅い。水深はくるぶしと膝の中ほどだ。

「昼間なら霊も出にくいですし、月白様も一緒ですし」

 なにより、と十和は心の中でつづける。

(弱い妖魔なら自分でも追い払えるようになったから、外に出る怖さが減ったわ)

 口に出さないのは、いうと月白がかえって心配するからだ。
 強い妖魔に出くわしたとき、ヘタに立ち向かってけがをしないか――と気を揉まれる。

(なんだか私、巣穴から出たばかりの子狐のような扱いね)

 十和は不満をのせて水を蹴った。しぶきが木漏れ日にきらめいた。

 二人が来ているのは屋敷から少し離れたところにある小川だ。
 川幅は肩幅二つ分ほど。水は清く澄み、川底の小石がはっきりと見通せる。屋敷の者たちも行水や洗い物をするのによく使っている。
 周囲はほどよく樹木が茂り、木陰にいると風がさわやかだった。屋敷にいれば暑苦しい蝉時雨も心地よい音色だ。

 一通り水を楽しんだ頃、月白が告げる。

「そろそろ沸く」
「ありがとうございます。狐火が使えると本当に便利ですね」

 十和は小川から上がって、岩の間においてある鍋をのぞきこんだ。鍋の下では青い妖火が燃え、鍋の中の水を沸き立たせていた。
 着物のそでとすそをからげ、湯を大きなたらいに移す。ひしゃくで水を足し、人肌ほどの温かさに調える。

「月白様、お湯加減はこのくらいでいかがですか?」

 いい、と答えて、狐姿の月白はたらいの縁をまたいだ。前脚をそろえてお行儀よくたらいに納まる。今日は普通の狐と変わりない大きさなのではみ出ることはない。

「では、お体失礼致しますね」

 十和はうきうきと狐姿の月白に手を伸ばした。
 たらいの中のぬるま湯で月白の体を軽く濡らす。夏毛に変わってほっそりしている体がいっそうほっそりした。人の姿のときと同じように、よぶんな肉のない引き締まった体つきだ。

「お屋敷にも湯殿はございますけど、外だと広々使えるから良いですね」

 道具を持ってくる手間はあるが、十和は妖魔を恐れて屋敷にこもりがちだ。外出は大きな楽しみだった。多少の苦労は何でもない。
 持参した米ぬかをたらいのお湯に溶かし、白い毛とよくなじませる。
 首周りを揉むようにすると、気持ちいいようで金色の目が細まった。
 十和は幸福を噛みしめる。

(嬉しい。月白様がお体に触らせてくれるようになるなんて)

 米ぬかで洗った後はお湯を替えてすすぎ、最後は川に移ってよく洗い流す。
 せっせと働く十和を、月白が気遣った。

「……疲れないか?」
「いえ全然!」

 その証拠に十和の目尻は下がりっぱなしだった。始終上機嫌で月白の体を拭く。

「夏ですから乾くのも早いですね」

 霊力を注ぎながら、毛に櫛を通す。月白が初めて身じろぎした。

「十和。俺に霊力は必要ない」
「明日はみんなが集まりますから。できる限りきれいにしておきたくて」

 明日は十和の異母姉、吉乃の婚儀だ。披露宴には花見のときより大勢の妖狐が集まる。

「……主役は新郎新婦だろう」
「そうですけど」

 実のところ十和は理由などどうでもいい。月白のお世話をさせてもらうことが目的で、義姉たちの婚礼はただの口実だ。

「いけませんか?」
「……好きにしていい」

 月白はまたおとなしく十和のひざに上体をあずけた。
 許可が出たので、十和は自分の持てる技術と霊力を注ぎこんで月白に磨きをかける。

「つやつやのふわふわですよ、月白様」
「さっぱりした。世話をかけた」

 しめった舌がぺろりと頬をなめてくる。
 くすぐったさと嬉しさに、十和は笑みをこぼした。

「なでていいですか?」
「好きにしていい」

 精魂込めて梳いた毛は絹のようになめらかだ。真白い毛はたっぷりと霊力をまとい、月光に照らされているような艶をおびている。

(夏毛は冬毛と比べてかさがないけれど、その分、やわらかい下毛によく触れられて気持ちいいのよね)

 夢心地でなでる一方、十和はひそかに嘆く。

(ああ……私ったらどうしてあの夜、逃げ出してしまったのかしら)

 あの夜とは、龍神に出会った梅雨の日のことだ。
 せっかく『形だけの夫婦』を解消する機会が訪れた雰囲気だったのに、羞恥心に駆られて逃げ出してしまった。

(あれから抱きついてみたり、おそばに座ったりしてみたりするけれど、反応ないのよね)

 月白は寝床でも一定の距離を保って近づいてこない。

(赤城さんには『また酔わせてみたら?』といわれたけど。
 酔わなければそういう気になれないのなら、無理強いしているようで気が引けるし)

 十和が悶々と悩んでいると、ぽつりと月白が口を開いた。

「……十和は、母君は?」
「私を生んですぐに亡くなっておりますよ」

「身寄りは」
「父だけです」

「二人はどうして一緒に?」

 月白にしては珍しい質問だった。意外に思いながらも、十和は喜んで話す。大好きな話だけれども、ふだんは豊乃をはばかって大っぴらには語れないことだ。

「父が母を見染めたのです。一目惚れだったそうで。母に出会ったときに受けた衝撃は、千年生きていても初めてだったと言っていました」
「……母君は、さぞ驚かれただろうな」

「ええ。父もそういっていました。とても驚いていたと」
「ふつうの人間は狐に、しかも妖怪に惚れたりしないものだから」

 冷めた意見に、十和は動揺した。天遊の話に十和はうっとりしていたが、月白は現実的で少しも夢を見ていなかった。

「そんなことはございませんよ。だって、私が生まれているので」

 言い足していて、十和は悲しくなった。人間と妖怪の間に恋など生まれないという月白の言葉が、まるで自分たちのことを言っているような気がした。

「父のように、妖狐が人間に惚れることがあるのですから。反対もあって当然です」

 返事はなかった。十和はどうしていいか分からなくて、白い毛並みをなでていた手を浮かせた。

「ところで十和はいいのか、水浴び。よければもう一度湯を沸かすが」
「私はあとで――」

 断りかけて、十和は考え直した。
 ひょっとしたらこれはいい機会かもしれない。

(月白様は律儀なお方だもの。私がお世話をしたから、自分も返さなくてはと思って私にも行水を勧めて下さっているのだわ。
 ということは――こ、今度は月白様が私の汗を流してくださるのでは!?)

 想像して、十和は全身が熱くなった。

(昼間から、そんな。こんなところで肌をさらなんて恥ずかしい……けどけどけど! もう一歩進んだ仲になりたいし!)

 十和は覚悟を決めた。

「やっぱり、汗をかきましたし。せっかくなので私も汗を流していきます」

 お湯まではいらないと断って、十和は立ち上がった。
 ひざからどいた月白は近くの岩に座り直す。十和には背をむけて。
 十和は拍子抜けした。

(月白様……見張りなのね)

 三角形の耳はぴんと立ち、あちこち向きを変える。だれか来たらすぐに気づけるように。
 予想が外れてがっかりするやら安心するやらだったが、十和の帯をほどく手はぎこちなくなった。月白がすぐそばにいる中で素肌をさらすのは落ち着かない。

「……何か手伝うことはあるか?」
「え、えと、帯の結び目が固くて。ほどいていただけると助かります」

 口実でなく本当だった。今日の野良着は料理番の千代に借りたものだが、借りる際に千代はついでに着替えを手伝ってくれた。結んでもらった帯が固くて十和の力ではゆるまない。
 さすがに月白は力があり、人の姿になると、さほど手こずることもなく帯をゆるめてくれた。

「他は」
「で――でしたら」

 洗うのを手伝ってもらおう。
 十和は思い切って、着物の合わせ目に手をかけた。
 が、肌をさらすのを月白の手に止められる。

(はしたないって思われた!?)

 自分の行いを後悔したが、ちがった。

「十和。人が、くる」

 葉と葉の擦れ合う音がして、夏草の間から赤城が姿をあらわした。
 地面に落ちている帯と、十和の着物の合わせ目にかかっている月白の手を見て、くるりと身を反転させる。

「……出直すわ」
「大丈夫です、赤城さん! 戻って来てください!」

 十和はあわてて帯を拾って腰に巻きつけた。

「月白様にご用でしたか?」
「ううん、十和ちゃんに」

 赤城は苦虫を噛みつぶしたような表情になった。

「御殿から呼び出し。吉乃嬢から」
「ひょっとして明日の婚儀に向けてお手入れを、ですか?」
「用件はいってなかったけど、たぶんそう」

 赤城はうんざりと赤い髪をかきあげる。

「使いのやつに『出かけてていつ戻るか分からない』っていったら行先を聞かれてさ。
 探しに行かれると二人の迷惑になりかねないと思って、アタシが来たの。
 なんとか追い返したかったんだけど、あっちは駕籠も用意して来てて。連れて行く気満々。
 ごめんねえ、せっかくのお出かけ中に邪魔して」

「いえ、いえ。赤城さんが悪いわけではございません」

 十和は急いでたらいに鍋やひしゃくや手拭いを放りこんだ。

「ゆっくりでいーわよ。無理いってんのあっちなんだから。やって欲しいなら、もっと事前に話しとけよって話じゃない」

 赤城はそういうが、十和は急いだ。吉乃の不興を買うと面倒だ。

「……十和。気が進まないなら俺が断るが」
「月白様、お気づかないなく。婚礼の日にきれいにしたいという気持ちはよく分かります」

「そうよ月白、いってやっていってやって。
 吉乃嬢の世話を焼くのは十和ちゃんの仕事じゃないわよ。
 今は十和ちゃん、あんたの奥さんなんだから。同格の間柄なのに呼びつけられるいわれなんてないでしょうよ」

「私、以前に吉乃お姉様にお着物を頂いているのです。そのお返しということで」

 それでも不服そうな赤城に、十和は小声でつけ足す。

「月白様はこの縄張りで暮すことをお望みですから、私のことでもめて追い出されてしまっては立つ瀬がございません」

 赤城もようやく引き下がったが、帰り道では愚痴が止まらなかった。

「ああ嫌だ。吉乃と黒松が結婚したら、ますます豊乃の天下ね。
 天遊様の妻とはいえ二尾なのに、すっかりヌシ気取り。今でも公私混同しているけど、ますます増長するんじゃないかと心配だわ。
 今回の婚儀だって、こんな暑いさなかにやるの、あの母子が披露宴で花火を上げたいって言い出したかららしいし」

 赤城は怒っていたが、月白の意見は違っていた。淡々という。

「豊乃殿がいるから、この群れは天遊殿がいなくとも瓦解せずに済んでいるのだろう。
 ふつう死んではいなくともヌシがいなくなれば次の座をめぐって争いが起きる」

 起きないのは、豊乃が有力な妖狐と縁を結んで君臨しているから。
 結束のある中で反旗をひるがえすのは危険が大きい。群れの全員が敵になる。

「花見のとき、黒松が『結婚した暁にはぜひ自分に天遊殿の代わりを務めさせて欲しい』と豊乃殿にいっていたが。
 豊乃殿は『それは他の妖狐たちと相談しないと』と後ろに子供とその伴侶たちをつけて答えていて。うまくやるものだと感心した」

 赤城は月白にやや呆れた目を向けた。

「あんた、嫌じゃないの? 自分より格下に偉そうにされて。妖魔の世界は力が物言う世界なのに」
「別に。いばると面倒なだけだ」

 本気でいっているらしい月白に、十和は尊敬に似た感情を抱いた。

「月白様は欲がないですね」
「本当にね。本来なら黒松かあんたか、どっちかが天遊様の後釜だってのに。
 アタシとしては、あんたにもっと野心を持って欲しいんだけど」
「欲ならある。どこかの群れでヌシでなく食客としておいてもらうというのが俺の野望だ」

 食客――客人として養われつつ、いざという時には才を活かして働く待遇のことだ。
 月白はあくまで大勢の中の一人でいたいらしい。

 やる気のなさにあふれた望みに、十和も赤城も「野望とは」と独りごちた。
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