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別離 4
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御殿はしんと静まり返っていた。
朧月の光は淡く、明かりになるには不十分だった。大座敷は闇に包まれて暗い。
視界がきかず音もない中では、鼻がよく働いた。どこかで花開いた沈丁花の甘い香りが、障子を開いた縁側から香ってきた。
風がこずえを揺らす音にまぎれて、さっと何かが敷地に入りこんだ――気がした。
十和ははやる胸を落ち着け、姿勢を正した。ひざにのせている手を握る。
息を詰めて待っていると、大座敷の壁に沿って青い妖火がいくつも浮かんだ。
背の高い影が縁側に立つ。
十和は畳に指をついた。
「ご無沙汰しております、月白様」
ゆっくりと上体を起こすと、記憶にあるのと変わらない月白の姿があった。ヌシになっても不精は抜けず、髪は乱れ放題、着物は着崩れている。
着物の縦縞柄には見覚えがあった。十和の仕立てたものだ。裾が見苦しくほつれているが、それだけよく着てくれているのだと思うと、十和の心に喜びが沁みた。
「……強くなったな」
大座敷を見回して、月白がぽつりと感想を漏らす。
十和はにっこり笑った。
「はい」
壁際には、御殿に住まう妖狐たちが魔封じの札を貼られてずらりと並んでいた。
手下が十和によってすべて無力化されてしまったので、ヌシである月白が出てこざるを得なくなったというわけだ。
といっても、十和と赤城たちの間に激しい戦いといったものは一切ない。
赤城も酔星も千代もおとなしく、むしろ進んで魔封じの札を貼られた。他の者たちも赤城の指示で従順に札を貼られた。妖狐が一列に並んで自ら札を貼られにいく様子は、祭りの屋台で順番を待つお客に似た光景だった。
「……用件は」
あいさつもそこそこに、月白は本題を切り出した。
そっけない態度に気落ちしながら、十和は尻尾の曲がった若い狐を示す。
「……いつかの。オカマ」
「オカマじゃねーし! 便利だから女になってただけのふつうの男だし!」
久礼はそっぽを向いて、照れくさそうに話を切り出す。
「その、さ。アンタの元でなら修行してもいいかなーって。手下になってやろうかなって」
「断る。面倒」
即答だった。取りつく島もなかった。
勇気をふり絞って頼んだ久礼は、むっとした顔つきになった。
だが、いくらにらんでも月白の態度は変わらない。むだを悟ると、正面を変えた。
「……分かったよ。じゃあ、こっちで修行するよ」
久礼は十和になれなれしくすり寄った。
「なー、十和ちゃん。オイラを手下にしてよ」
「え? わ、私ですか?」
久礼は困惑している十和の膝に前脚をのせた。
「オイラ、がんばるから。アンタの手下として妖魔退治に精を出すから。まだ毛皮になんてなりたくない。見捨てないで」
キラキラとしたつぶらな瞳に見つめられると、十和は親切心がうずいた。
「……本当にやる気があるなら、協力しますけど」
「あるある。めっちゃある。オイラ、十和ちゃんに褒められたらがんばれそうな気がするー!」
べたべたと、久礼は十和にまとわりつく。
岩のごとく黙っていた月白が、重々しく口を開いた。
「……おまえ。変化が得意そうだな」
「おうよ。変化の腕にかけちゃ、オイラに敵うヤツはなかなかいないと思うぜ」
「小さいもの――例えば鼠にも変化できるのか」
「楽勝だけど? なになに? 試験? それできたら手下にしてくれる?」
久礼はぱっと十和からはなれ、またたくまに鼠へと変化した。二本足で立って小さな胸を張る。
「どうよ!」
返事はなかった。月白は小動物となった久礼をひっつかんだ。大きくふりかぶり、塀の外に向かって思い切り投げる。
夜空の星ほど遠くなってしまった久礼に、十和は悲鳴を上げた。
「月白様っ、何を!?」
「……これで戻ってきたら仲間にする」
至極面倒くさそうに、不承不承月白は請け負う。乱暴なのも相変わらずだった。
「……結局未練タラタラなんじゃないのよ、あいつ」
「……嫉妬ですよねえ、あれ」
「……大人げねー」
壁際の赤城たちが小声でヌシを批判した。
「……用は、これで済んだか」
「あ……はい。ご足労をおかけしました」
十和は妖狐たちに貼った魔封じの札をはがして回った。赤城たち以外は、めいめいの持ち場に戻っていく。
これで用事は終わりだ。十和はもじもじと両手をこね回す。
「あ――りがとうございました、月白様。おかげさまで妖魔に脅かされることもなく、元気でやっております」
「……なら、何より」
上座の月白は庭に目をやるばかりで、ろくに顔を合わせようともしない。
旧交を温める気のないことを読み取って、十和は帰る決意を固めた。一礼して、踵《きびす》を返す。
すると突然、赤城が突拍子もないことを言い出した。
「ダメよ十和ちゃん、やっぱり本当のこといわなくちゃ!」
十和はなんのことかと当惑するが、赤城は大声でつづける。
「天遊様という見世物がなくなったせいで神社は借金まみれ、おまけに悪徳高利貸しに引っかかって借金のカタに結婚を迫られているんでしょう?」
「は!?」と叫びかけた口は千代の手にふさがれた。上座からは見えないように配慮して。
千代もまた、十和のまったく知らない話を語り出す。
「かわいそうな十和様。あんなハゲでデブでチビなジジイと!
後妻どころか後後後妻なんですよね!
しかもすでに妾も愛人もたくさんいる好色ジジイなんて! ひどすぎますよう!」
酔星も声高に気の毒がる。
「いやー、怖い怖い。昨今の人の世は妖怪の世界より恐ろしっスからねー!
いくらお強くなったとはいえ、化け狸と人間の狸ジジイじゃ厄介さが違うっスよねー!」
十和がいかに悲惨な状況かを主張し、三人はちらっと上座をふり返った。
庭ばかり見ていた月白が、やっと十和の方を向いていた。
「……十和。本当なのか」
ようやく十和は赤城たちの意図を悟った。
なんとか月白に十和を引き留めさせようとしてくれているのだ。
三人の顔は十和に「うなずいて!」と訴えていた。
「そ、そう、です、ね」
ぎこちなさにあふれた肯定だったが、月白を信用させるには充分だった。
月白はおもむろに立ち上がって、物騒なことを吐く。
「……妖怪らしく。ちょっと呪い殺してくる」
「嘘ですーっ!」
十和は元夫の背中にすがりついた。必死で前言を撤回する。
「嘘です嘘です嘘です全部嘘です申し訳ございません!」
「本当に?」
「本当です。心配して……下さったんですね」
卑怯な手段を使ったことを申し訳なく思いつつも、十和は喜びが抑えきれなかった。
勇気を出して、もう一歩踏み込む。
「もう妻でもないのに、どうして?」
問われて初めて、月白は己の行動を不可解そうにした。小首を傾げてしばし考え込む。
「……十和が幸せでないと俺が死にたくなるから?」
心ある一言に十和は死にそうになった。
「十和が生きている限りは俺も生きようと思っているから、十和には幸せに長生きして欲しい」
「は、はい! 月白様のためにも楽しく長生きします!」
月白のこの一言だけで、十和はこの先百年でも楽しく生きられそうな気がした。
赤城たちはあきれ返る。
「月白、あんた。好きが分からないからって、十和ちゃんのことを袖にしたらしいけど。
本当はもうしっかり分かってんじゃないのよ!」
「何が」
「好きってことよ! 相手を心配したり、相手の幸せを自分のことのように思うって。それって全部、相手を好きで仕方ないからすることでしょ!」
赤城は指を突きつけ、鬼の首を取ったように責めたが、月白の反応はふわふわとした雲のように頼りなかった。また首をかしげる。
「……そうなのか」
「そうなの! っていうか、死ぬほど思い詰めててもまだ無自覚とか。
どうなってんのよ。感性とか情緒とか死んでんの!?」
「たぶん」
ためらいもなくもなく首肯されて、赤城は脱力した。のれんに腕を押すのに疲れ、もうヤダ、とさじを投げるが、あとは十和だけでも大丈夫だった。
十和は両手を握り合わせ、思い切って申し出る。
「月白様は以前、私が妖怪の世界で暮らすのは危ないとおっしゃられましたけれど、私も今は自分の身を自分で守れるようになりました。
それなら……こちらの世界で暮らしても大丈夫、ですよね?」
「……そうだな」
青い妖火が月白の白い面を照らしている。
久しぶりに見る想い人の顔だ。触れたいと願っていると、月白の方が十和に触れてきた。
苦しいほどの強い力で抱き締められる。
「……十和。いつだったか好きなものができたら教えて欲しいといっていたが、ようやく俺も答えが言える」
「お伺いしても、よろしいですか?」
なつかしい胸に頬を寄せて、十和は幸せな答えを聞いた。
「十和だ」
朧月の光は淡く、明かりになるには不十分だった。大座敷は闇に包まれて暗い。
視界がきかず音もない中では、鼻がよく働いた。どこかで花開いた沈丁花の甘い香りが、障子を開いた縁側から香ってきた。
風がこずえを揺らす音にまぎれて、さっと何かが敷地に入りこんだ――気がした。
十和ははやる胸を落ち着け、姿勢を正した。ひざにのせている手を握る。
息を詰めて待っていると、大座敷の壁に沿って青い妖火がいくつも浮かんだ。
背の高い影が縁側に立つ。
十和は畳に指をついた。
「ご無沙汰しております、月白様」
ゆっくりと上体を起こすと、記憶にあるのと変わらない月白の姿があった。ヌシになっても不精は抜けず、髪は乱れ放題、着物は着崩れている。
着物の縦縞柄には見覚えがあった。十和の仕立てたものだ。裾が見苦しくほつれているが、それだけよく着てくれているのだと思うと、十和の心に喜びが沁みた。
「……強くなったな」
大座敷を見回して、月白がぽつりと感想を漏らす。
十和はにっこり笑った。
「はい」
壁際には、御殿に住まう妖狐たちが魔封じの札を貼られてずらりと並んでいた。
手下が十和によってすべて無力化されてしまったので、ヌシである月白が出てこざるを得なくなったというわけだ。
といっても、十和と赤城たちの間に激しい戦いといったものは一切ない。
赤城も酔星も千代もおとなしく、むしろ進んで魔封じの札を貼られた。他の者たちも赤城の指示で従順に札を貼られた。妖狐が一列に並んで自ら札を貼られにいく様子は、祭りの屋台で順番を待つお客に似た光景だった。
「……用件は」
あいさつもそこそこに、月白は本題を切り出した。
そっけない態度に気落ちしながら、十和は尻尾の曲がった若い狐を示す。
「……いつかの。オカマ」
「オカマじゃねーし! 便利だから女になってただけのふつうの男だし!」
久礼はそっぽを向いて、照れくさそうに話を切り出す。
「その、さ。アンタの元でなら修行してもいいかなーって。手下になってやろうかなって」
「断る。面倒」
即答だった。取りつく島もなかった。
勇気をふり絞って頼んだ久礼は、むっとした顔つきになった。
だが、いくらにらんでも月白の態度は変わらない。むだを悟ると、正面を変えた。
「……分かったよ。じゃあ、こっちで修行するよ」
久礼は十和になれなれしくすり寄った。
「なー、十和ちゃん。オイラを手下にしてよ」
「え? わ、私ですか?」
久礼は困惑している十和の膝に前脚をのせた。
「オイラ、がんばるから。アンタの手下として妖魔退治に精を出すから。まだ毛皮になんてなりたくない。見捨てないで」
キラキラとしたつぶらな瞳に見つめられると、十和は親切心がうずいた。
「……本当にやる気があるなら、協力しますけど」
「あるある。めっちゃある。オイラ、十和ちゃんに褒められたらがんばれそうな気がするー!」
べたべたと、久礼は十和にまとわりつく。
岩のごとく黙っていた月白が、重々しく口を開いた。
「……おまえ。変化が得意そうだな」
「おうよ。変化の腕にかけちゃ、オイラに敵うヤツはなかなかいないと思うぜ」
「小さいもの――例えば鼠にも変化できるのか」
「楽勝だけど? なになに? 試験? それできたら手下にしてくれる?」
久礼はぱっと十和からはなれ、またたくまに鼠へと変化した。二本足で立って小さな胸を張る。
「どうよ!」
返事はなかった。月白は小動物となった久礼をひっつかんだ。大きくふりかぶり、塀の外に向かって思い切り投げる。
夜空の星ほど遠くなってしまった久礼に、十和は悲鳴を上げた。
「月白様っ、何を!?」
「……これで戻ってきたら仲間にする」
至極面倒くさそうに、不承不承月白は請け負う。乱暴なのも相変わらずだった。
「……結局未練タラタラなんじゃないのよ、あいつ」
「……嫉妬ですよねえ、あれ」
「……大人げねー」
壁際の赤城たちが小声でヌシを批判した。
「……用は、これで済んだか」
「あ……はい。ご足労をおかけしました」
十和は妖狐たちに貼った魔封じの札をはがして回った。赤城たち以外は、めいめいの持ち場に戻っていく。
これで用事は終わりだ。十和はもじもじと両手をこね回す。
「あ――りがとうございました、月白様。おかげさまで妖魔に脅かされることもなく、元気でやっております」
「……なら、何より」
上座の月白は庭に目をやるばかりで、ろくに顔を合わせようともしない。
旧交を温める気のないことを読み取って、十和は帰る決意を固めた。一礼して、踵《きびす》を返す。
すると突然、赤城が突拍子もないことを言い出した。
「ダメよ十和ちゃん、やっぱり本当のこといわなくちゃ!」
十和はなんのことかと当惑するが、赤城は大声でつづける。
「天遊様という見世物がなくなったせいで神社は借金まみれ、おまけに悪徳高利貸しに引っかかって借金のカタに結婚を迫られているんでしょう?」
「は!?」と叫びかけた口は千代の手にふさがれた。上座からは見えないように配慮して。
千代もまた、十和のまったく知らない話を語り出す。
「かわいそうな十和様。あんなハゲでデブでチビなジジイと!
後妻どころか後後後妻なんですよね!
しかもすでに妾も愛人もたくさんいる好色ジジイなんて! ひどすぎますよう!」
酔星も声高に気の毒がる。
「いやー、怖い怖い。昨今の人の世は妖怪の世界より恐ろしっスからねー!
いくらお強くなったとはいえ、化け狸と人間の狸ジジイじゃ厄介さが違うっスよねー!」
十和がいかに悲惨な状況かを主張し、三人はちらっと上座をふり返った。
庭ばかり見ていた月白が、やっと十和の方を向いていた。
「……十和。本当なのか」
ようやく十和は赤城たちの意図を悟った。
なんとか月白に十和を引き留めさせようとしてくれているのだ。
三人の顔は十和に「うなずいて!」と訴えていた。
「そ、そう、です、ね」
ぎこちなさにあふれた肯定だったが、月白を信用させるには充分だった。
月白はおもむろに立ち上がって、物騒なことを吐く。
「……妖怪らしく。ちょっと呪い殺してくる」
「嘘ですーっ!」
十和は元夫の背中にすがりついた。必死で前言を撤回する。
「嘘です嘘です嘘です全部嘘です申し訳ございません!」
「本当に?」
「本当です。心配して……下さったんですね」
卑怯な手段を使ったことを申し訳なく思いつつも、十和は喜びが抑えきれなかった。
勇気を出して、もう一歩踏み込む。
「もう妻でもないのに、どうして?」
問われて初めて、月白は己の行動を不可解そうにした。小首を傾げてしばし考え込む。
「……十和が幸せでないと俺が死にたくなるから?」
心ある一言に十和は死にそうになった。
「十和が生きている限りは俺も生きようと思っているから、十和には幸せに長生きして欲しい」
「は、はい! 月白様のためにも楽しく長生きします!」
月白のこの一言だけで、十和はこの先百年でも楽しく生きられそうな気がした。
赤城たちはあきれ返る。
「月白、あんた。好きが分からないからって、十和ちゃんのことを袖にしたらしいけど。
本当はもうしっかり分かってんじゃないのよ!」
「何が」
「好きってことよ! 相手を心配したり、相手の幸せを自分のことのように思うって。それって全部、相手を好きで仕方ないからすることでしょ!」
赤城は指を突きつけ、鬼の首を取ったように責めたが、月白の反応はふわふわとした雲のように頼りなかった。また首をかしげる。
「……そうなのか」
「そうなの! っていうか、死ぬほど思い詰めててもまだ無自覚とか。
どうなってんのよ。感性とか情緒とか死んでんの!?」
「たぶん」
ためらいもなくもなく首肯されて、赤城は脱力した。のれんに腕を押すのに疲れ、もうヤダ、とさじを投げるが、あとは十和だけでも大丈夫だった。
十和は両手を握り合わせ、思い切って申し出る。
「月白様は以前、私が妖怪の世界で暮らすのは危ないとおっしゃられましたけれど、私も今は自分の身を自分で守れるようになりました。
それなら……こちらの世界で暮らしても大丈夫、ですよね?」
「……そうだな」
青い妖火が月白の白い面を照らしている。
久しぶりに見る想い人の顔だ。触れたいと願っていると、月白の方が十和に触れてきた。
苦しいほどの強い力で抱き締められる。
「……十和。いつだったか好きなものができたら教えて欲しいといっていたが、ようやく俺も答えが言える」
「お伺いしても、よろしいですか?」
なつかしい胸に頬を寄せて、十和は幸せな答えを聞いた。
「十和だ」
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