ナース服の中の僕・続編:そして、私になる

なな

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第一章 アパートの鍵と口紅

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 かすかに冷たい風が、コートのすそを揺らす。街灯のオレンジ色が、歩道を長く照らしていた。

 スーパーの袋を片手に、もう一方の手は、隣を歩く彼の手に自然に預けられている。ヒールの音と革靴の音が、交互にアスファルトを打つ。

「今日も……すごく似合ってるよ」

 何でもないように、けれどとても穏やかに、桐谷さんがそう言った。

 私はちょっとだけ下を向いたまま、小さく息を吸い込む。

「……ありがとう」

 それだけ。でも、胸の奥が静かに波立つ。褒められることに、まだ慣れていない。けれど、否定したくなるような違和感は、もうなかった。

 

 ――カチリ。

 エントランスを通り抜け、彼の部屋の前に着いたとき。

 彼はポケットから、ひとつの銀色の鍵を取り出した。

「ねぇ、これ……」

 私が声をかけるより先に、彼は私の手をとって、その鍵をそっと握らせた。

「来るたびにチャイム鳴らしてくれるけど……良かったら、持ってて。無理にとは言わないけど」

 鍵の重さが、掌にずしりと伝わる。

 それは物理的な質量じゃない。渡された意味と、そこに込められた想いの重さ。

 私はしばらく声が出せなかった。

 そして、何も言わずに、ただゆっくりと頷いた。

 

 部屋のなかは、いつも通り清潔で、穏やかな匂いがしていた。

 洗面所の前でコートを脱ぎ、キャミソールのストラップを整える。桐谷さんは気を利かせてシャワーをすすめてくれて、私は素直に甘えることにした。

 お湯を浴びたあと、ルームウェア代わりの柔らかいワンピースに着替え、洗面台の前に立ったとき――そこに、小さな異変があった。

 見慣れない、淡いピンクベージュの口紅が、洗面台の端に置かれていたのだ。

 艶のあるゴールドのキャップ。小さく「Y」のイニシャルが刻まれている。

 心当たりのある人は、ひとりしかいない。

「……これ、私に?」

 鏡越しに声をかけると、ソファから彼の声が返ってきた。

「うん。似合うと思って、つい。迷惑だったら言ってね」

 私は口紅を手に取って、キャップを開ける。ほのかにローズの香りがする。

 手元が少し震えていたけど、それでも私はそれを唇にあてた。ゆっくりと、下唇から、上唇へ。

 鏡の中の“私”が、少し照れたように微笑んでいた。

 唇に色がのると、表情が変わる。それは、どこからどう見ても「女の子の顔」だった。

 

 リビングに戻ると、彼はテレビもつけずにソファに腰掛けていて、私が隣に座ると、黙って肩を抱いてくれた。

「鍵、ほんとに……いいの?」

「うん。だって、君がそこにいると、帰る理由になるから」

 私は何も言えなくなって、ただ彼の胸に顔を預けた。鍵がポケットの中で、かすかに揺れていた。

 

 机の上には、まだほんの少し唇の色が残ったグラスと、未使用のコースターが並んでいた。

 そして、横には、受け取ったばかりのスペアキー。

 どちらも、たしかに私のものだと思えた。

 

 ――今日、私は初めて「帰ってきた」と思った。

 ひとつの合鍵と、一本の口紅。
 女の子としての“生活”が、きっとここから始まっていく。
 静かで、優しく、でもたしかに続いていく未来が、もうすぐ手の届くところにある。
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