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Kapitel 03:霜刃
霜刃 03
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少年は学校の休み時間が苦痛だった。自分を苦しめる同級生たちが無理難題を押しつけてくるのは、休み時間や下校途中が多かったからだ。
しかしながら、今日は違う。勇気を持つと決めてからは待ち構える余裕すらあった。
少年が教室の自分の席に座っていると、いつもの連中が集まってきた。
少年はズボンのポケットのなかで勇気を握り締めた。
「なあ、トイカダー。購買からパン持ってきてくれよ」
「持ってくるってオマエ、ソレ万引きだろアハハ」
「校内なら盗ったのバレてもケーサツ呼んだりされねーだろ。ヨユーじゃん」
「嫌だ」
トイカダはハッキリと言葉にした。
連中にとってトイカダの反抗は気にするようなものではなかった。今までも少々の反抗は間々あった。しかし、脅したり拳を挙げたりすればすぐに言うことをきくようになる。
連中のひとりがニヤニヤしてトイカダの机を爪先でガンッと蹴った。
「あ? なに逆らってんのンの? オマエ、最近調子に乗ってね。ノリ悪いしよー」
「いいからメシ持ってこいって。俺ハラ減ってんだよバカ」
「嫌だ」
机を蹴った男がトイカダの胸倉を捕まえて椅子から立たせた。
「ちょっと向こう行こうーぜ、トイカダ」
「触るなよ」
トイカダはポケットから手を引き抜き、握っているものを振り翳した。
ヒュッ、と空を切る音。トイカダの胸倉を掴む男の手の甲に赤い線が走った。そこからプツッと赤い玉雫が生じた。
男は咄嗟にトイカダから手を離した。
「うわッ! コイツ切りやがった!」
赤い血と刃物。それを目にした男の声によって教室中の視線が集まった。
「えっ。男子、ちょっとあれ……」
「ヤバッ。血が出てンじゃん」
きゃぁぁああああーーッ!
劈くような悲鳴が教室に響いた。
男も女もみんな、潮が引くように一斉にトイカダから離れた。いつも絡んでくる連中さえも怯んで後退った。
トイカダは連中の引き攣った表情を初めて見た。いつもニタニタ薄ら笑っているくせに。人に命令するときや殴るときとは何より愉快そうにしているくせに。
今日は笑っているのはトイカダのほうだ。身を以て知っている暴力の妙を、今日は本当の意味で思い知った。暴力はシンプルだ。このような薄刃ひとつで立場は入れ替わる。嫌だ嫌だと思っていた日々が、こんなにも容易く解決するならもっと早くにこうすればよかった。
――勇気を出したらスッキリした。
絶対逆らえないって思ってたけど、こんなヤツらに逆らうなんて簡単なことだった。暴力で言うことをきかせようとされたなら、それ以上の暴力で撥ね除ければいいだけだ。力の差なんて、こんなカッター一本で乗り越えられる。
§ § § § §
白の通学路。下校途中。
白は公園に立ち寄った。平日の夕暮れ時はやはり人気がなくて静かだ。周囲を気にしながら、公園をコンビニエンスストアがある方角へ向かって歩いた。
(いない。そんな簡単には会えないかー)
白はあの少年を探していた。天尊にもういいよとは言ったが、少年を傷つけてしまったことが胸に引っかかっていた。事情を深く知ったところで解決することはできないという点では嘘は言っていない。しかし、正直すぎたかもしれない。突き放してしまったかもしれない。問題を根本解決することは困難でも、気休めに話を聞くことくらいはできた。それで彼の負担が少しでも軽くなるのなら、そうしてやればよかった。
もう一度出会えたとして、何を言えばよいか思いつかない。彼にはとうに嫌われてしまった虞も否定できない。それでも気に懸かるから、銀太が待つ家になるべく早く帰らなくてはと思いつつ、彼と遭遇した場所に自然と足が向いた。
もうすぐで公園を通り抜けようかという地点に差しかかり、ベンチに腰かけた人物を見つけた。学生服姿でズボンに両手を突っ込んだ少年は、まさにあの彼だった。
白は彼に歩み寄った。「こんにちは」と声をかけると、彼から小さい声で「ああ」とだけ返ってきた。これはやはり嫌われてしまったらしい。寡黙な彼を前にして、やはりかけるべき言葉は思い浮かばなかった。
「あの……この間はごめん」
「何が?」
「何がって言われると難しいんだけど、なんだか悪い言い方したかなと思って」
「そんなことで謝るヤツいるんだ」
「うん。悪いことしたなと思ったら謝るよ?」
白は何故そのようなことを言われるのか分からないという表情で小首を傾げ、トイカダはアハハと笑った。
それは白の世界では当たり前のこと。しかし、トイカダの世界ではそうではなかった。日常が、学校生活が、周囲の人間が、当たり前に優しい世界。否、特別優しくされたいわけではない。対等なひとりの人間として扱われたいだけ。理不尽に命令されることも、取り上げられることも、莫迦にされることも、殴られることもない、そのような毎日がとても羨ましい。
「俺の周りは違う。そんなヤツいない。やっぱイイガッコに通う人間は俺たちみたいなのとは違うな」
トイカダは声を上げて笑って頭を掻いた。
他人が当たり前に持っているものが、自分には許されなかった不条理を考えると笑えてきた。不条理。そうだ、理屈などない。ただそこにいたというだけで気紛れにターゲットにされた。
白は、髪を掻き上げるトイカダの指先が赤黒く変色しているのを見つけてギョッとした。
「血ッ⁉ どうしたの⁉ ケガッ?」
トイカダは得意気にニヤリと口許を歪めた。
「勇気……出したんだよ」
「え?」
「アンタ、勇気出せって言っただろ。だから、勇気を出してアイツらにもう俺に命令すんなって言ってやった」
トイカダはベンチから勢いよく立ち上がった。やや興奮気味な口調で、白と知り合ってから初めて見せる、爛々とした眼をしていた。
カシャン。――トイカダのポケットから何かが滑り出て足許に落下した。
白はそれを目で追ってハッとした。トイカダの足許に落ちたカッターには、トイカダの手と同じように赤黒い血痕が付着していた。
一瞬にして嫌な想像が脳裏を過り、白の顔面の筋肉が強張った。
「このカッターは?」
「…………。アイツら、言うこと聞かないと殴るんだ。今まで何回も殴られたからよく分かってる。今日は殴られて言うこときく気なかったから。絶対勝ってやろうって思ってさー、武装? みたいな」
白は黙りこんだ。よくやった、お前は正しい、と全面的な賞賛が得られなかったことは、トイカダの癇に障った。
「何だよ、その態度」
トイカダは白に一歩詰め寄った。
「向こうは何人もいるのに、俺はたったひとりで戦わなきゃいけないなんておかしいだろ! 勝たなきゃいけないんだから、これくらい要る! 俺は間違ってない! 勇気を出しただけだ! そうだろ、なあ!」
トイカダの目は血走って、必死だった。自分の行いの正当性を認められたくて懸命に熱弁した。
最初に暴力を振るったのはアイツらのほうだ。嫌だと言ったのに力でねじ伏せたアイツらだ。毎日毎日、笑いながら人の意思を踏みつけ続けた。反抗する為に、自分自身の身を守る為に、手っ取り早く強さに手を伸ばして何が悪い。誰も助けてくれなかったではないか。自分でどうにかするしかない。悪いのはアイツらのほうで、間違っているのは社会のルールで、周囲に優しい人間がいなかった自分は不遇な弱者だ。
さりとて、トイカダは人並みの常識を持ち、今に至っても正常な判断力は残っている。カッターで同級生を切りつけた。とんでもないことをしてしまった自覚はある。悪いのはアイツらだと頑なに批難しつつも、自分の行いが完全なる善行ではないことも分かっている。なけなしの勇気を振り絞って嫌だと主張した情けない自分に、ありがとうと言ってくれた少女だけでも、お前は正しいと認められ、勇敢だと賞賛してくれれば充分だった。
しかしながら、少女は深刻な表情をして口を噤んだ。その視線に責められているとすら感じた。
「何なんだよ! 何でこの前みたいに褒めてくれないんだよ!」
トイカダは地面に向かって怒鳴った。
「褒める……?」
「この前は褒めてくれただろ! 勇気があるって!」
トイカダは縋りつくように白に手を伸ばした。
その瞬間、ふたりの間に突如として壁がそそり立った。
バサンッ。――布が翻る音。
白の視界を上下に横切って天尊が目の前に降り立った。
「ティエン!」
壁が出現したように感じたのは、天尊が空から着地したからだった。天尊が飛行できることを知っている白にはそれを認知できたが、トイカダには何が起こったのか分からなかった。
「近付くな」
天尊は白を背中に庇ってトイカダに身体の正面を向けて放言した。
「なッ⁉ 今どこからッ……」
「俺の言葉が分からないか。近付くなと言っている」
トイカダは、屈強な成人男性に真正面から威圧されてたじろいだ。
白は天尊の袖をギュッと握り締めた。天尊は明らかにトイカダに対して高圧的で敵対的だ。今にも手を出してしまいそうな雰囲気だ。
「ごめん」
白は天尊の背後から出てきて横に並んでトイカダにそう言った。
「キミを褒めてあげられない。この前も褒めたつもりはないけど……」
「は……? 何でそんなこと言うんだよ。お前が言うから勇気出したんだぞッ」
「本当に褒められることしたと思う? そんなに必死で誰かに褒められたいのは、自分でもいけないことをしたと思ってるからじゃないの」
「違うだろ! 俺は間違ってないだろ! 俺を殴るアイツらのほうが悪いに決まってる!」
「喚くな、うるさい」
天尊は、はあーっ、とあからさまに聞いていられないという溜息を吐いた。
話の流れは分からないが、男の喚き声など聞き苦しい。取り乱した男と、冷静な白、どちらの言い分が正しいかなど推して知るべしだ。
「こんなのの相手をするな、帰るぞ。時間の無駄だ」
「偉そうにするな!」
トイカダは足許からカッターを拾い上げ、刃先を天尊に向けた。
「俺に武器を向ける意味を解っているか?」
天尊に動揺はなかった。身構えて警戒する必要すらもなかった。天尊にとって、無知でか弱い子どもなど、大人の男であっても人間など、恐れるべき対象になり得ない。
「やめて」
白は天尊の前に出てきてトイカダの刃先の延長線上に立ち、毅然と言い放った。
(俺の前に立つなと言っているのにコイツは)
天尊は小さな嘆息を漏らした。
「そうやってティエンにカッターを向けるのも勇気? 自分より強そうな人みんなにそうするの? それが最初にカッターを持ったときに、本当にしたかったこと?」
「うるさいな! もうわかんないよ、そんなこと。そんなこと考えたってもう全部意味ないんだよ。俺、アイツらを刺してッ……」
「キミが最初にカッターを持ったのも、たぶん、勇気だったんだと思う。でも、カッターを使ってしまったときと、ネコを庇おうとしたときと、どっちの自分を褒めてあげたい? 自分で自分を褒められることに勇気を出さなきゃダメだよ」
「うるさいうるさいうるさい! オマエなんかが分かったようなこと言うな! イイ学校に通って、そんなヤツに守られて、家もどうせ金持ちで……オマエみたいな恵まれてるヤツが好き勝手言うな! 俺なんかとゼンゼン違う。俺の気持ちなんか絶対分かンねーよ!」
天尊が白を押し退けてトイカダの目の前に進み出た。トイカダがビクッとたじろいだ隙にカッターの刃渡りを直接素手で握った。
パキィンッ。――天尊はいとも容易くカッターの刃を握り潰した。手の平を開くと銀色の破片がパラパラと舞い落ちた。
「なんッ⁉ うえッ⁉」
「付き合ってられん。貴様の泣き言なんか知ったことか」
天尊は白を軽々と肩に担ぎ上げ、トイカダにクルッと背を向けた。
白は充分に真摯に接した。一方的に非難せず歩み寄って説いた。その慈悲を解さず、ただただ喚き散らす男にこれ以上何を言っても無駄だ。最初に思った通り、時間の無駄だ。諫言には聞く耳など持たない。此奴はただ自分の勇敢さを固持して賞賛されたいだけなのだから。
「ちょっと待てよッ」
トイカダから呼び止められた天尊は、足を停めて振り向いた。
天尊は真正面からトイカダを見据えた。トイカダはその威容に気圧され、引き留めたはよいが次の言葉を絞り出せなかった。
「待ったが、どうする。武器なしで俺に向かってこれるのか。そんなちっぽけなもの、あってもなくても同じだがな。所詮、貴様は自分が弱い者だと思った途端に意志を曲げる甘ったれだ」
数秒待ったが、トイカダは物を言わなかった。天尊は無言で踵を返して歩き出した。
天尊はトイカダの臆病な心根も見透かしていた。それこそ、コンビニエンスストアで白が声をかけたときから。自分より大柄で屈強で強そうな天尊と決して目を合わせようとしないくせに、常に注意を払っている様子だった。何か気に障ることがあってその矛先が自分に向きはしないかと。自分の脅威に対して過敏なのは、虐げられた臆病者の癖だ。
「ティエン。あれは言い過ぎだよ」
白が天尊の肩の上から文句を言い、天尊はハッと鼻で笑った。
「どこがだ。自分を守る為に武器を握れる男だぞ。保身の為に暴力を振るったくせに他人の所為にしているだけだ。アキラを、自分を正当化する道具にしているだけだ。アキラは優しすぎる。あんなのにまで優しさをふりまく必要はない」
白はトイカダのほうへ目線を向けた。トイカダは顔を伏せて肩を震わせ、泣いているようだった。
泣かせてしまったかもしれない。傷つけてしまったのだろう。理不尽な困難に挫けそうな彼を突き放してしまった。
「ボクは優しくないよ。渡筏くんが言ってほしい言葉を言ってあげられなかった」
「そういうところが優しすぎるというんだ。普通はあんなのには関わりたがらない。慈悲など与えない」
しかしながら、今日は違う。勇気を持つと決めてからは待ち構える余裕すらあった。
少年が教室の自分の席に座っていると、いつもの連中が集まってきた。
少年はズボンのポケットのなかで勇気を握り締めた。
「なあ、トイカダー。購買からパン持ってきてくれよ」
「持ってくるってオマエ、ソレ万引きだろアハハ」
「校内なら盗ったのバレてもケーサツ呼んだりされねーだろ。ヨユーじゃん」
「嫌だ」
トイカダはハッキリと言葉にした。
連中にとってトイカダの反抗は気にするようなものではなかった。今までも少々の反抗は間々あった。しかし、脅したり拳を挙げたりすればすぐに言うことをきくようになる。
連中のひとりがニヤニヤしてトイカダの机を爪先でガンッと蹴った。
「あ? なに逆らってんのンの? オマエ、最近調子に乗ってね。ノリ悪いしよー」
「いいからメシ持ってこいって。俺ハラ減ってんだよバカ」
「嫌だ」
机を蹴った男がトイカダの胸倉を捕まえて椅子から立たせた。
「ちょっと向こう行こうーぜ、トイカダ」
「触るなよ」
トイカダはポケットから手を引き抜き、握っているものを振り翳した。
ヒュッ、と空を切る音。トイカダの胸倉を掴む男の手の甲に赤い線が走った。そこからプツッと赤い玉雫が生じた。
男は咄嗟にトイカダから手を離した。
「うわッ! コイツ切りやがった!」
赤い血と刃物。それを目にした男の声によって教室中の視線が集まった。
「えっ。男子、ちょっとあれ……」
「ヤバッ。血が出てンじゃん」
きゃぁぁああああーーッ!
劈くような悲鳴が教室に響いた。
男も女もみんな、潮が引くように一斉にトイカダから離れた。いつも絡んでくる連中さえも怯んで後退った。
トイカダは連中の引き攣った表情を初めて見た。いつもニタニタ薄ら笑っているくせに。人に命令するときや殴るときとは何より愉快そうにしているくせに。
今日は笑っているのはトイカダのほうだ。身を以て知っている暴力の妙を、今日は本当の意味で思い知った。暴力はシンプルだ。このような薄刃ひとつで立場は入れ替わる。嫌だ嫌だと思っていた日々が、こんなにも容易く解決するならもっと早くにこうすればよかった。
――勇気を出したらスッキリした。
絶対逆らえないって思ってたけど、こんなヤツらに逆らうなんて簡単なことだった。暴力で言うことをきかせようとされたなら、それ以上の暴力で撥ね除ければいいだけだ。力の差なんて、こんなカッター一本で乗り越えられる。
§ § § § §
白の通学路。下校途中。
白は公園に立ち寄った。平日の夕暮れ時はやはり人気がなくて静かだ。周囲を気にしながら、公園をコンビニエンスストアがある方角へ向かって歩いた。
(いない。そんな簡単には会えないかー)
白はあの少年を探していた。天尊にもういいよとは言ったが、少年を傷つけてしまったことが胸に引っかかっていた。事情を深く知ったところで解決することはできないという点では嘘は言っていない。しかし、正直すぎたかもしれない。突き放してしまったかもしれない。問題を根本解決することは困難でも、気休めに話を聞くことくらいはできた。それで彼の負担が少しでも軽くなるのなら、そうしてやればよかった。
もう一度出会えたとして、何を言えばよいか思いつかない。彼にはとうに嫌われてしまった虞も否定できない。それでも気に懸かるから、銀太が待つ家になるべく早く帰らなくてはと思いつつ、彼と遭遇した場所に自然と足が向いた。
もうすぐで公園を通り抜けようかという地点に差しかかり、ベンチに腰かけた人物を見つけた。学生服姿でズボンに両手を突っ込んだ少年は、まさにあの彼だった。
白は彼に歩み寄った。「こんにちは」と声をかけると、彼から小さい声で「ああ」とだけ返ってきた。これはやはり嫌われてしまったらしい。寡黙な彼を前にして、やはりかけるべき言葉は思い浮かばなかった。
「あの……この間はごめん」
「何が?」
「何がって言われると難しいんだけど、なんだか悪い言い方したかなと思って」
「そんなことで謝るヤツいるんだ」
「うん。悪いことしたなと思ったら謝るよ?」
白は何故そのようなことを言われるのか分からないという表情で小首を傾げ、トイカダはアハハと笑った。
それは白の世界では当たり前のこと。しかし、トイカダの世界ではそうではなかった。日常が、学校生活が、周囲の人間が、当たり前に優しい世界。否、特別優しくされたいわけではない。対等なひとりの人間として扱われたいだけ。理不尽に命令されることも、取り上げられることも、莫迦にされることも、殴られることもない、そのような毎日がとても羨ましい。
「俺の周りは違う。そんなヤツいない。やっぱイイガッコに通う人間は俺たちみたいなのとは違うな」
トイカダは声を上げて笑って頭を掻いた。
他人が当たり前に持っているものが、自分には許されなかった不条理を考えると笑えてきた。不条理。そうだ、理屈などない。ただそこにいたというだけで気紛れにターゲットにされた。
白は、髪を掻き上げるトイカダの指先が赤黒く変色しているのを見つけてギョッとした。
「血ッ⁉ どうしたの⁉ ケガッ?」
トイカダは得意気にニヤリと口許を歪めた。
「勇気……出したんだよ」
「え?」
「アンタ、勇気出せって言っただろ。だから、勇気を出してアイツらにもう俺に命令すんなって言ってやった」
トイカダはベンチから勢いよく立ち上がった。やや興奮気味な口調で、白と知り合ってから初めて見せる、爛々とした眼をしていた。
カシャン。――トイカダのポケットから何かが滑り出て足許に落下した。
白はそれを目で追ってハッとした。トイカダの足許に落ちたカッターには、トイカダの手と同じように赤黒い血痕が付着していた。
一瞬にして嫌な想像が脳裏を過り、白の顔面の筋肉が強張った。
「このカッターは?」
「…………。アイツら、言うこと聞かないと殴るんだ。今まで何回も殴られたからよく分かってる。今日は殴られて言うこときく気なかったから。絶対勝ってやろうって思ってさー、武装? みたいな」
白は黙りこんだ。よくやった、お前は正しい、と全面的な賞賛が得られなかったことは、トイカダの癇に障った。
「何だよ、その態度」
トイカダは白に一歩詰め寄った。
「向こうは何人もいるのに、俺はたったひとりで戦わなきゃいけないなんておかしいだろ! 勝たなきゃいけないんだから、これくらい要る! 俺は間違ってない! 勇気を出しただけだ! そうだろ、なあ!」
トイカダの目は血走って、必死だった。自分の行いの正当性を認められたくて懸命に熱弁した。
最初に暴力を振るったのはアイツらのほうだ。嫌だと言ったのに力でねじ伏せたアイツらだ。毎日毎日、笑いながら人の意思を踏みつけ続けた。反抗する為に、自分自身の身を守る為に、手っ取り早く強さに手を伸ばして何が悪い。誰も助けてくれなかったではないか。自分でどうにかするしかない。悪いのはアイツらのほうで、間違っているのは社会のルールで、周囲に優しい人間がいなかった自分は不遇な弱者だ。
さりとて、トイカダは人並みの常識を持ち、今に至っても正常な判断力は残っている。カッターで同級生を切りつけた。とんでもないことをしてしまった自覚はある。悪いのはアイツらだと頑なに批難しつつも、自分の行いが完全なる善行ではないことも分かっている。なけなしの勇気を振り絞って嫌だと主張した情けない自分に、ありがとうと言ってくれた少女だけでも、お前は正しいと認められ、勇敢だと賞賛してくれれば充分だった。
しかしながら、少女は深刻な表情をして口を噤んだ。その視線に責められているとすら感じた。
「何なんだよ! 何でこの前みたいに褒めてくれないんだよ!」
トイカダは地面に向かって怒鳴った。
「褒める……?」
「この前は褒めてくれただろ! 勇気があるって!」
トイカダは縋りつくように白に手を伸ばした。
その瞬間、ふたりの間に突如として壁がそそり立った。
バサンッ。――布が翻る音。
白の視界を上下に横切って天尊が目の前に降り立った。
「ティエン!」
壁が出現したように感じたのは、天尊が空から着地したからだった。天尊が飛行できることを知っている白にはそれを認知できたが、トイカダには何が起こったのか分からなかった。
「近付くな」
天尊は白を背中に庇ってトイカダに身体の正面を向けて放言した。
「なッ⁉ 今どこからッ……」
「俺の言葉が分からないか。近付くなと言っている」
トイカダは、屈強な成人男性に真正面から威圧されてたじろいだ。
白は天尊の袖をギュッと握り締めた。天尊は明らかにトイカダに対して高圧的で敵対的だ。今にも手を出してしまいそうな雰囲気だ。
「ごめん」
白は天尊の背後から出てきて横に並んでトイカダにそう言った。
「キミを褒めてあげられない。この前も褒めたつもりはないけど……」
「は……? 何でそんなこと言うんだよ。お前が言うから勇気出したんだぞッ」
「本当に褒められることしたと思う? そんなに必死で誰かに褒められたいのは、自分でもいけないことをしたと思ってるからじゃないの」
「違うだろ! 俺は間違ってないだろ! 俺を殴るアイツらのほうが悪いに決まってる!」
「喚くな、うるさい」
天尊は、はあーっ、とあからさまに聞いていられないという溜息を吐いた。
話の流れは分からないが、男の喚き声など聞き苦しい。取り乱した男と、冷静な白、どちらの言い分が正しいかなど推して知るべしだ。
「こんなのの相手をするな、帰るぞ。時間の無駄だ」
「偉そうにするな!」
トイカダは足許からカッターを拾い上げ、刃先を天尊に向けた。
「俺に武器を向ける意味を解っているか?」
天尊に動揺はなかった。身構えて警戒する必要すらもなかった。天尊にとって、無知でか弱い子どもなど、大人の男であっても人間など、恐れるべき対象になり得ない。
「やめて」
白は天尊の前に出てきてトイカダの刃先の延長線上に立ち、毅然と言い放った。
(俺の前に立つなと言っているのにコイツは)
天尊は小さな嘆息を漏らした。
「そうやってティエンにカッターを向けるのも勇気? 自分より強そうな人みんなにそうするの? それが最初にカッターを持ったときに、本当にしたかったこと?」
「うるさいな! もうわかんないよ、そんなこと。そんなこと考えたってもう全部意味ないんだよ。俺、アイツらを刺してッ……」
「キミが最初にカッターを持ったのも、たぶん、勇気だったんだと思う。でも、カッターを使ってしまったときと、ネコを庇おうとしたときと、どっちの自分を褒めてあげたい? 自分で自分を褒められることに勇気を出さなきゃダメだよ」
「うるさいうるさいうるさい! オマエなんかが分かったようなこと言うな! イイ学校に通って、そんなヤツに守られて、家もどうせ金持ちで……オマエみたいな恵まれてるヤツが好き勝手言うな! 俺なんかとゼンゼン違う。俺の気持ちなんか絶対分かンねーよ!」
天尊が白を押し退けてトイカダの目の前に進み出た。トイカダがビクッとたじろいだ隙にカッターの刃渡りを直接素手で握った。
パキィンッ。――天尊はいとも容易くカッターの刃を握り潰した。手の平を開くと銀色の破片がパラパラと舞い落ちた。
「なんッ⁉ うえッ⁉」
「付き合ってられん。貴様の泣き言なんか知ったことか」
天尊は白を軽々と肩に担ぎ上げ、トイカダにクルッと背を向けた。
白は充分に真摯に接した。一方的に非難せず歩み寄って説いた。その慈悲を解さず、ただただ喚き散らす男にこれ以上何を言っても無駄だ。最初に思った通り、時間の無駄だ。諫言には聞く耳など持たない。此奴はただ自分の勇敢さを固持して賞賛されたいだけなのだから。
「ちょっと待てよッ」
トイカダから呼び止められた天尊は、足を停めて振り向いた。
天尊は真正面からトイカダを見据えた。トイカダはその威容に気圧され、引き留めたはよいが次の言葉を絞り出せなかった。
「待ったが、どうする。武器なしで俺に向かってこれるのか。そんなちっぽけなもの、あってもなくても同じだがな。所詮、貴様は自分が弱い者だと思った途端に意志を曲げる甘ったれだ」
数秒待ったが、トイカダは物を言わなかった。天尊は無言で踵を返して歩き出した。
天尊はトイカダの臆病な心根も見透かしていた。それこそ、コンビニエンスストアで白が声をかけたときから。自分より大柄で屈強で強そうな天尊と決して目を合わせようとしないくせに、常に注意を払っている様子だった。何か気に障ることがあってその矛先が自分に向きはしないかと。自分の脅威に対して過敏なのは、虐げられた臆病者の癖だ。
「ティエン。あれは言い過ぎだよ」
白が天尊の肩の上から文句を言い、天尊はハッと鼻で笑った。
「どこがだ。自分を守る為に武器を握れる男だぞ。保身の為に暴力を振るったくせに他人の所為にしているだけだ。アキラを、自分を正当化する道具にしているだけだ。アキラは優しすぎる。あんなのにまで優しさをふりまく必要はない」
白はトイカダのほうへ目線を向けた。トイカダは顔を伏せて肩を震わせ、泣いているようだった。
泣かせてしまったかもしれない。傷つけてしまったのだろう。理不尽な困難に挫けそうな彼を突き放してしまった。
「ボクは優しくないよ。渡筏くんが言ってほしい言葉を言ってあげられなかった」
「そういうところが優しすぎるというんだ。普通はあんなのには関わりたがらない。慈悲など与えない」
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そんなユヅキの逆ハーレムのお話。
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