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第1章 Lost Voice
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都内千代田区にある日比谷公園――。
オフィスが建ち並ぶ有楽町や、庁舎や議事堂がある霞ヶ関にほど近い大きな公園は昔から主要な建築物を包含し、今では市政会館や日比谷公会堂、日比谷図書文化館以外にも、大小の野外音楽堂がある。
早瀬に急かされながら共に降り立つと、なにやらたくさんの歌声が聞こえて来た。
「ああ、始まってるな」
早瀬に連れて行かれたのは野外音楽堂、通称野音。
蒼天の元、ステージ上には沢山の男女がマイクを持っていて、ステージの後ろで楽器を演奏しているバッキングに合わせ、ひとつの曲を歌っているようだ。
個性溢れるアレンジが加わったボーカルの主旋律を聴きながら、聴衆は立ち上がって耳に残るサビの部分を一緒に歌っている。
この旋律は、今まであたしがエリュシオンで聴いていたデモの音楽だ。
と、いうことは……。
「デビュー前のインディーズの人気ボーカルにひとつの曲を歌わせている、合同オーディションだ。あのデモの連中とはまた違う。……俺も納得いかねぇよ。あんな程度の取り繕った歌声では、俺の曲が壊れる」
群衆の後ろで立ちながら、早瀬はそんなことをのたまう。
「だったらデモを聞いた時点で、あなたがそう言えばよかったじゃないですか。デモ選びなんか他人にさせずに」
話すまいと思っていたのに、仕事の話に誘導されてついつい尋ねてしまう。
「お前が、俺と同じようにOKをださなかった理由は?」
「……歌によってやけに音楽が歪んで聞こえたり、歌唱力の問題もあります。ボイトレ効果がなかったり。バッキングに負けてたり、とにかく曲とボーカルの相性が悪かったので」
「はは。課題曲でこうなら、HADESのデビュー曲は歌えねぇだろ。今回のコンセプトはミステリアス。あいつらの音は、日が当たりすぎている」
早瀬の言いたいことはわかった。
「はっきりいって顔はどうでもいい。顔よりも声、歌声なんだ。それが誰にも理解されてねぇ」
ひとを魅了できる、得体のしれない影の部分を出したいのだろう。
聞いていて、本能でぞくぞく感じるような。
だがエリュシオンが用意したデモは、添付されたファイルを見る限りにおいて、ビジュアル面がまず重視されている。
つまり音楽に重きを置きたい早瀬のコンセプトに合わないんだ。
「ボーカルが普通の十二平均律で歌うと、楽器の音にも歪みを出す。不協和音にしかならねぇ」
十二平均律というのは、現代音楽の音律の標準となっているもので、ピアノの調律もこれに倣っている、1オクターブを12の半音に等分する方法。移調や転調はしやすいけれど、和音となるとどうしても歪みが出てしまう。
現代音楽は、電子ピアノであるシンセサイザーや、ギターの音質を変えるイコライザなど、楽器の音を機械で自由に歪ませることが出来るため、それをわざと歪ませることで効果的に楽曲に用いたりする。
ジャズでよく使う和音のセブンスコードと呼ばれるものも(たとえばCはドミソ、C7はドミソシ♭になる)、わざと不協和音にも思えるような音を付け加えることで、逆に格好よく演出しているものが多いんだ。
「だとしたら、あなたが作っているのは平均律以外の曲で、それを歌えるボーカルを探しているということですか?」
「そうだ、HADESは純正律の曲を歌わせる。さすがにお前なら話が早いな。というか、その言葉遣い直せ」
彼の言葉を、軽く聞き流す。
平均律に対し、移調や転調が出来ない音律を純正律といい、グレゴリオ聖歌が代表される。
音とは周波数であり、和音という複数の周波数の組み合わせが歪んで聞こえるのが、平均律だ。
今思えば、あの天使の歌声も、純正律だったように思える。
十二平均律の音楽が溢れている中で、純正律で歌えるのは凄いことだ。純正律はどの音律なのかと、それをわかっていなければならないから。
つまり純正律の曲を聴いても、あのデモの男性陣は純正律で歌えなかった、ということになるのだろう。耳から流れる音で歌えなかった、と。
「まさかあたしに、純正律の音楽を歌える声を探せと言うんですか?」
「ああ。純正律は後の訓練でもなんとかなる。だから俺の曲調に柔軟に対応出来る奴を見つけ出せ。どんな曲でもこなせる奴を」
「簡単に……」
「お前の耳は純正律を聞き分ける力と、絶対音感がある。お前、あのデモの曲をすべてパート分けして楽譜に書けといったら、出来るだろ?」
「あれくらいなら」
「それが、絶対音感の持ち主だ。あのデモは、デビュー曲ではないが、純正律で作ったもの。デモに、お前がOK出さなかったのは、プロジェクトを知らずとも、俺が求める歌声ではないと悟ったんだろう?」
――すげぇ、お前純正律の音がわかるんだ?
また昔のことを思い出した。
この平均律と純正律の話を彼に教えたのはあたしなのだ。
市販のCDで癒やし系のものは純正律で作られているものが多いから、心が奮えるのだと、そんなことを話したように思う。
音楽室にはシンセサイザーも置いてあったから、そこでピッチを調節して弾いたり楽譜を書いたりしてみせた。
「音をお前はわかっている。だから探せ。純正律を奏でられる歌声を」
……それが祟って、こうして早瀬と仕事をすることになるとは。
「ボーカルの選考は今月末まで、あと十日ぐらいだ。今までにない歌を歌える奴をふたり探して欲しい」
秋風が髪先を揺らし、沈みかけた陽光が彼の髪を深い蒼に染めた。
「オーディションは大々的に開催を予定しているが、その他お前が偶然見つけた奴でもいい。見つからなければ、企画を潰す」
「潰すって、たくさんのひとと金が動いているのに!」
「それでも、気にくわない雑音を世に出すよりはいい」
早瀬は音楽に妥協しないのは、昔からだ。
今はそれがもっと顕著でストイックなまでに厳格だから、やれば成功できるのだろう。なにもビジュアルだけが彼の長所ではない。
それはわかるけれども――。
「探せ」
……荷が重い。
なんていう役目をあたしに押しつけるんだ。
「あたし、HADESプロジェクトに無関係なのに……」
「なんのためにデモを選ぶ役目をさせたと思ってるんだ。ただの雑用とでも思ってたのか? お前が能力を見せれば、これを期に、お前をプロジェクトに入れる」
「はああああ!?」
「お前は……自分が選びたいと思わないのか?」
――お前は、自分で音楽を作りたいと思わねぇの?
九年前の若い早瀬の言葉が蘇る。
「俺の曲に、お前が選んだ歌声を乗せたいと思わねぇのか?」
「別にあたしは……」
「お前は謙虚すぎて消極的なんだよ。生きた音楽に実際携わってプロまで目指していた演者は、エリュシオンでお前だけだ。あとは皆、中途半端な知識しかねぇ。頭から入った奴とお前は違う。お前のセンスに誇りを持て。お前は音を聞き分ける力と、どの音がいいのかわかる力がある。少なくとも俺が信じられる音は、この世で――俺とお前が選ぶ音だけだ」
痛いくらいの眼差しで奏でられる早瀬の言葉にどきっとする。
……本当に女泣かせだね。
九年前なら、喜んでころっと行ってたよ。
この世で理解しあえるのは、あたしと早瀬だけだって。
ふたりだけの世界を夢見ていた。
だけど、これは仕事。
早瀬の理想に、あたしが必要だったというだけのこと。
九年前なんて、忘れればいいのにね。
あたしのことなんか、突き放せばいいのに。
どんな思惑があるのかわからないけれど、
――俺の曲に、お前が選んだ歌声を乗せたいと思わねぇのか?
早瀬の音は、悔しいけど素敵で称賛出来るから。
初めて聞いた時、あたしは涙して……早瀬が作ったのだと後で聞き、その才能に驚嘆した。
交わることがないと思っていた、あたしと早瀬。
交わって出来る、未知数のHADES。
あたしの力がどこまで役立つかわからないけれど、早瀬に無能だと呆れ返られるまで、頑張ってみようか。
あたしも、このまま燻りたくない。
「たらたらしねぇで、働けよ?」
エリュシオンの王様は、斜め上から鼻を鳴らすようにして言う。
「……あたし、いつもたらたらしてやる気無さそうなんですか?」
「やる気の問題じゃねぇよ。やる気なら人一倍あるだろうさ。お前には貪欲さがねぇんだ。言われたことを無難にこなすことばかり考えて、自己表現力が弱い。土台と質はいいのに、これでは宝の持ち腐れだ。そのまま年食って死ぬつもりか」
「……っ」
「言っただろう? お前のことは、俺が一番にわかっている。誰よりもだ」
……不遜な男。
だけどきっとひとは、彼のこうした揺らぎない超然としたものに惹かれていくのだろう。
そこまで言われて、個人的感情で逃げるわけにはいかない。
あたしだって、一度は遠ざかろうとしたとはいえ、元社長に仕込まれた音楽に対する誇りがある。
至高の音楽を、皆に提供したい。
そして多分それは、天才音楽家の早瀬なら可能にする――。
――俺の曲に、お前が選んだ歌声を乗せたいと思わねぇのか?
あたしは伸ばしていた、肩にかかる髪をバッグから取り出したバレッタで止めて、耳を外気にさらした。それが、彼の要求を飲んだ証。
周囲を見渡せば、立体的に合唱が聞こえてくる。
爆音が耳にうるさいが、それでも音の聞き分けは出来る。
さあ、たくさんの音よ。
あたしに純正律を奏でられる音を導いて――。
・
・
・
・
……なんて、意気込んだのはいいけれど、この歌声という決め手がなく、また他のところを見て探そうということで、今回のオーディションは解散となった。
そう簡単に逸材というものは見つからないのが現状。
「もう六時か。よし、じゃあ直帰するか。……ホテルに」
忘れていたあたしは竦み上がった。
「私、自宅に帰りますので! では!」
ぺこりと頭を下げて猛ダッシュしたはずのあたしの襟首を、数歩歩いただけの早瀬がひょいと掴んで持ち上げた。
「……逃げるんじゃねぇよ」
「もう疲れたし、お風呂に入ってゆっくりと……」
抵抗すると、後ろから耳元で囁かれた。
「風呂プレイ? ゆっくり抱かれたいって? 俺煽ってんの?」
この低く艶やかな声にぞくぞくする。
「違います。まったく違うから、本当にもう今日は……。一昨日したばかりでしょう!?」
「毎日じゃねぇだろ? ひとに我慢させやがって」
「ま、毎日する気!? 一日にどれだけ溜め込むのよ、あんた!!」
思わず素で叫ぶと、早瀬が笑った。
九年前と変わらない、鋭さがなくなってあどけなく思えるような笑みに。
「やっぱ、お前……いいわ」
「あ、いらないということですね、では!」
今度は後ろから両腕が出て羽交い締めされて、またもや逃亡失敗。
「違う、誰がいらねぇって言ってるんだよ。逆だ、こうなった責任取れって言ってるんだ」
早瀬が体を押しつけてきて、なにか膨らんだものを、あたしのお尻に押しつけるようにして回転させた。
「――っ、ちょっと!」
それがなにかわかったあたしは騒ぐが、早瀬がすぐに制する。
「ホテルが嫌なら、別に外でもいいけど?」
「外は駄目っ、そこで喋らないで!!」
早瀬の甘い匂いと甘い声のダブルの攻撃に、ぶるりと身震いをしてしまう。
「駄目駄目うるせぇな、お前拒否れる立場?」
「う……」
「ホテルが嫌なら選ばせてやる。お前の家か外か。はたまた〝アキ〟の援助取り消しか」
悪魔が突きつけるものに、さっきとは違うぞくぞくがする。
……あたしに取れるのはひとつしかないじゃないか。
「……ホテル」
「良い子だ」
髪を上げて露わになっているうなじを、熱いものに強く吸われた。
「ひっ!」
「色気のねぇ声。はは、簡単につくのな、キスマーク」
「やめてったら!!」
「……今までセックスしてきたの、俺以外に誰?」
突然声音が恐ろしく低くなる。
「〝アキ〟も、こんなことしてたの?」
あたしは言葉に詰まる。
亜貴となにもなかったわけではないから。
――この世は半分が男だ。大丈夫、俺から慣れてみよう。
あたしが、セックス以外の普通の生活で、男に対する恐怖症を隠していられるのは、亜貴の献身のおかげだから。
天使があたしの心を救ってくれたのなら、亜貴は、条件反射に男に恐怖するあたしの身体を、鎮めてくれたのだ。
あの頃のあたしは、幾ら精神的に元気になっても、身体は男に触れられただけでも嫌悪感で吐いてしまって、社会に適応できる状態ではなかった――。
「か、関係ないでしょ」
亜貴とのことには、触れて欲しくない。
嘘をつけないあたしの誤魔化しに、早瀬は詰るように言った。
「……むかつく」
「ぎゃあああ、思い切りうなじを噛むなっ!! このケダモノ!!」
……性処理の道具に対する所有欲を、勘違いしてはいけない。
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