エリュシオンでささやいて

奏多

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第2章 Dear Voice

 4.

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 緊張しながら、ミミズが跳ねているような文字を解読(見て考えるより、聞いた方が早かった)して書いたのは、音楽についてのこと。

 音楽がどれだけ早瀬にとって必要なものかと熱く語っているけれど、いつも冷めたような風体の彼から、そんな激情があるなど驚きだ。

 彼にとって音楽とは、想い人らしい。
 手が届かず、恋い焦がれる想い人。

 誰もが早瀬に色目を使う環境の中、なにが恋い焦がれるってよ、どれだけ乙女なのかと、思わずぶっと吹き出せば、

「……ここで裸にして縛り上げて、ドア開けたまま放置するか? そういうのが好きだとは知らなかったな。だったらお望み通り……」

「ひたすら書きます!」

 ドS化通り越して鬼畜化しそうな勢いの早瀬に、ドM認定されそうになったため、慌てて黙々と言われるがままに書き綴る。

 言っておくが、早瀬に比べれば字が上手いというだけであって、あたしの文字が特別に美麗なわけではない。

 小学生の時に書道を習っていたという程度の腕前で、字に自信があるわけではないけれど、きっちり楷書体を書く癖がついてしまっているから、男が書いたと思われることが過去にもあった。

 それを逆手にとって、堂々と自分が書いたとして、さほど待たせずに編集者に手渡した早瀬は、とりあえずは自分のイメージを壊さずにすんだようだ。

「才能がある方は、やはり字も堂々として素敵ですね。たまになにを書いているかわからない、ミミズがのたくったような文字を書く方がいますが、あれ、本当に困るんですよ。性格までミミズなひとが多くてね、あははははは」

 ……どうなったのかとこっそり階下に下りたとき、そう聞こえた言葉に対する早瀬の顔は、筆舌尽くしがたく。

 ミミズの性格とはどんなものだろうと頭で考えるあたしの目の前で、まさか本当の早瀬の字が、ミミズがのたくった字だとも知らない編集者は、怒れる早瀬に外に放り出され、しばし出入り禁止にされたようだ。

  

 とりあえずは任務を果たしたから、お互い隣室で行われている会議に出るために別れようとしたら、早瀬があたしの腕を掴んで言う。

「礼はする」

 ありがとうは言わずに、ぶっきらぼうに前髪を掻き上げながらそう言った。

「いりませんので」

 そんなことをされたら、後で倍返しにされそう。

「する。夕食どこがいい?」

 あたしは背筋がぞっとする。

 うわ、今夜も一緒決定なの?
 勘弁だってば。

「いりません。どうしてもというなら、今夜は帰らせて下さい」

 嫌だと拒否しようとするあたしに、早瀬は思いきり不服そうに顔を歪めて。

「人選」

 まるで天下無敵の黄門様の印籠を出したように、超然とそう言った。

「それはやります。だけど夕食は家でひとりで食べたいです。借金帳消しにしろとは言ってない。ささやかなあたしの願いを叶えて下さい」
 
「……わかった」

 あたしはほっとした。

「じゃあ昼な」

 わかってなーい!!

 とにかくあんたと一緒に居たくないのよ。
 ご飯の時くらい、リラックスさせてよ。

「お昼は、上で友達と食べる約束なんです!」

 しかめっ面で牽制。

「へぇ、友達がいたとはな」

「この会社にいなくても、お昼の時にお喋り出来る子が他会社にいるんです!」

「へぇ。どんな奴? 俺の誘いを断れる、そのお友達は」

 信じてないな、そのむかつく目!

 だからあたしは言った。

 最近、上階パラダイスで見かけなくなった〝昼友〟を。

「下のシークレットムーンの、斎藤千絵ちゃんですっ!! お疑いなら、下のシークレットムーンで千絵ちゃんに聞いて下さいよ! あたしの名前を言うだけで、千絵ちゃんなら色々話してくれますから!」

 千絵ちゃんは髪も性格も、ふわふわとした話し好きな子だ。
 女帝腰元の最年少の美保ちゃんに通じる、男性の前ではちょっと媚びる感じはするけれど、凄くよく気がつく子。他会社にもたくさん友達がいて、ビルの噂とかたくさんの情報持ちで、色々話してくれる子なんだ。

 でもここ数日、千絵ちゃんを見かけていない。
 もしかすると出張とかなのかもしれない。
  
「千絵ちゃん、ねぇ?」

「では、会議に行って来ます!」

 打ち合わせノートと筆記用具を持って、育成課の定例会議に赴く。
 さあさあ仕事、仕事。

 HADESプロジェクト会議は、きっと午前中ずっとしているだろう。
 その間に300円で美味しいものが食べられるパラダイスでお昼をとればいいと、そうにんまりと笑ったことを後悔するのは、その数時間後のお昼のことだった。
 


 *+†+*――*+†+*

 
「はい、上原さん。トマトとモッツァレラの冷麺パスタに、上原さんが大好きな柚ジュレをたっぷり乗せましたよ」

 そう言ってくれるのは、厨房から顔を見せてくれる食堂パラダイスの調理人、宿直隆(とのい たかし)。

 専門学校を卒業した彼は、今年入ったばかりなのだが、彼が来てパラダイスの食事がさらに格段とおいしくなった。

 あまりに美味しくて、いつも挨拶をしているおばちゃんにそう感想を告げると、おばちゃんが笑って紹介してくれたのが隆くんだった。

――隆は私の甥っ子なんですよ。よかったねぇ、隆。色々と献立考えて、試行錯誤して作っていた甲斐があったねぇ。柚ちゃん、気に入ってくれたようだよ。

 それ以来、隆くんにいつも感想を告げていて、特にあたしは柚が好きだから、それを知る隆くんはこっそりと量を増やしてくれたり、フルーツを多く入れてくれたり。

 隆くんは髪を伸ばした野球男児のような印象で、女慣れしていない硬派な感じがするけれど、あたしの「美味しかったよ」のひと言で、ふにゃりとして真っ赤になって嬉しそうに笑う顔が可愛くて、弟みたいに思っている。

「うわあ、本当!? 今日も期待してるね。ありがとう」

「はい、期待していて下さい」

 隆くんと話していて、食堂がいつもより騒がしかったのに気づかなかったあたしは、隆くんにひらひらと手を振って、窓際の二人がけの特等席に座る。

「なんだか今日はいい日だよね。柚ジュレに、ここも空いていたなんて!」

 千絵ちゃんがいつも現われる時間帯は決まっているから、あと五分食べずに彼女を待って居ようと、窓の外を眺めていた。

 ホテルで高級ランチをしているような気分。

 見事なロケーション、見事な(安い)料理。
 ただなんだか、今日はがやがやと人の声でざわついているけれど。
  
――初めまして。私、シークレットムーンの斎藤千絵といいます。ここ、いいですか?

 最初は突然声をかけられて戸惑ったけれど、嬉しかったなあ。
 いつもひとりでお昼を食べていたから。

 同い年の千絵ちゃん。
 あたしも千絵ちゃんが嬉しそうにしているシークレットムーンみたいな会社に居たかったけど、ITのことなんてちんぷんかんぷん。

 せいぜい就職活動のために覚えたワープロソフトWordがちょこっと出来るくらいで、Excelでは表は作ったことがあるけれど、計算とか関数とかしたこともなく。数学自体もさっぱりだし、大体英字が嫌い。

――私だってそうですよ~。ITわからなくても、出来ることをしています。

 ふたりのランチに慣れてきたある日、千絵ちゃんに言われた。

――そうだ上原さん、OSHIZUKIビルの噂って、知ってますか?

 千絵ちゃんによると――。

一、忍月の後継者は正妻の子供はおらず、妾腹の男子4人がいるらしい。

一、木場のビルに同時期に入った大きな4つの会社には、母方の姓を名乗る後継者候補がそれぞれひとりずつ勤務しているらしい。

一、現在後継者争いが勃発し、彼らがそれまで勤務していた会社ごと、忍月本社のあるビルに招集され、各社には本社からの監視役が派遣されているらしい。

一、後継者候補の兄弟達はすべてイケメンらしいが、女嫌いらしい。

一、もしその後継者候補が誰かわかっても、口外した瞬間、忍月お抱えの黒服に拉致されて、東京湾に沈められるらしい。

 つまり、エリュシオンを含めたOSHIZUKIビルに入って居る会社には、少なくとも忍月財閥の後継者候補のイケメンと、その監視役がいるらしい。

 一体誰が広めたのかわからないが、それによってこのビルの女性達は、あわよくば玉の輿に乗ろうと励んでおり、しかしあまり騒ぐと東京湾に沈めるという黒服が暗躍することで、騒ぎは統制されている。

 ビルに勤める女性達を「もしも」の話で奮い立たせる、中々によく考えられた夢物語だと笑えば、千絵ちゃんは唇を尖らせる。

 どうも千絵ちゃんは信じているらしい。
  
 
――その噂を裏付けるように、忍月コーポレーションにも凄いイケメンがいるんですよ、ほらあそこ。社長になるかも知れないと言われている宮坂専務。

 千絵ちゃんが指さすのは、パーマなのかくせ毛なのか黒髪の男性。顔はよく見えなかったが、その背広姿だけでも肩幅があり体格がよく、イケメンのように見える。

 さすがは一流大企業の専務であれば、そのステータスにも群がる美女が多いのか、取り巻く美女の数は多く、まるでハーレムのような独特の世界を築いている。

 あれだけ美女が集まるのなら、相当のイケメンなんだろう。

――帝都出版の副編集長も凄いイケメンなの、知ってます?

 知らない。興味もなければ、そういうことを話す友達もいなかったから。

――上原さんのところにも、いるでしょう? 超有名なイケメンが。

 早瀬のことらしい。
 早瀬の……ごくごく普通の学校での学生時代を知るあたしとしては、イケメンであっても財閥とは関係ない、ただの王様音楽家としか思えなくて。

 では千絵ちゃんが通う会社はどうかと、今までの千絵ちゃんから仕入れた情報をまとめてみれば。

――ああ、千絵ちゃんのところにもイケメン居ると言ってたね。確か営業の……。

――ああ、実は結城さん以外にまた来るんです、イケメンが。どちらに転んでも、このビルの全会社に、イケメンがいるんですから、噂も本当っぽく思えません? 上原さんも、準備していた方がいいですよ? いつ、どんな王子様が迎えに来るかわかりませんから。

 このビルに居れば、玉の輿は四倍の可能性があるのだと、彼女は笑っていた。

「王子様ねぇ……」

 きっと、舞踏会のことを聞いたシンデレラも、こんな程度だっただろう。
 王子様よりもまず、今の状況を脱したいと。

 王子様に会うために舞踏会に行ったのではなく、虐げられた者の、ひととして女としての威厳を取り戻すために舞踏会に行ったのではないか。

 恋愛よりもまず、どんな環境でも変わることのない、アイデンティティーの確立のために。

 魔法が解けても変わらなかったのは、煌びやかな衣装ではなくガラスの靴。

 一見脆(もろ)く壊れやすそうなその靴に、姉たちは身体を傷つけて履こうとしても履けなかった。

 ガラスに見えて強靱なシンデレラのアイデンティティー。
 どんな他者の欲も撥ね除け、王子様を手繰り寄せた。

 あたしも、いつか会えるのかな。
 本当のあたしを求めてくれる王子様に。

 ……ふと、頭の中に早瀬が浮かんで、あたしは慌てて頭をぶんぶんと横に振った。

「もうやだ。なんで……」

 ぶんぶん、ぶんぶん。

 だから気づかなかったんだ。

「……それ、なにかのまじない?」

 向かい側に座ったのが、千絵ちゃんではなく、薄灰色のシャツ姿の早瀬だったことに。

 しかも王子様で早瀬が思い浮かんでいた時だったら余計、リアルの姿に驚き、椅子から転げ落ちそうなほどに動揺して。

「ここには初めて来たが、眺めもいいもんだな」

 太陽光が早瀬の顔を照らす。
 少し恍惚とした顔に、夜通しのイケナイことも思い出してしまうあたしは、声をひっくり返しながら、言う。

「な、ちょっと、なに座ってるのよ! ここには千絵ちゃんが……」

 敬語なんて使う余力もなく。

「だからその千絵ちゃんとやらに話を聞きに来た。そいつが来たらどける」

 そして早瀬は、あたしと同じパスタを、優雅な所作で食べ始めた。
  
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