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第6章 Overture Voice
14.
しおりを挟む「エリュシオンにはなんで……」
「……最低な俺は、永遠に片想いでいいから、だからどうか死ぬ前にお前に会わせて欲しいと、存在を信じたことのねぇ神様とやらに願い続けて……そうしたら二年前、俺を見捨てた身内から、お前がエリュシオンに居ることを知った。どうにか会社に打診して、条件をつけて、お前から離れたくねぇと」
二年前、突然早瀬は、新エリュシオンに現われた。
「なんで会社に条件をつけるの?」
ふと、疑問に思った。
外部から打診するのなら、早瀬に条件をつけられる方が普通じゃないか。
「俺は、組織というのが嫌いで、水面下でお前を連れて独立しようとしてた。それを阻まれて、独立しない条件ということで金をふんだくってやってる」
独立ではなく、エリュシオンであたしに近づくことに意味があったのだろうか。なにより早瀬は時間外もよく働いている。
「その割にはよく働いているね」
「それは……」
早瀬は言い淀み、そして苦笑した。
「お前が、エリュシオンを好きだから、だ。俺には愛社精神なんてねぇよ。……音楽を軽んじているやり方も嫌いだけど、社名からして嫌いだ」
「………」
「お前が笑顔になるのなら、潰さねぇようにしねぇと。貰っている金以上の利益を出さねぇといけねぇし」
「………」
「お前を、身内ならすぐに探し出せたのに、俺自力では見つけられなかった。少しばかり有名になっても、お前にも見つけて貰えなかった。悔しかった。七年ぶりにいざ会えたら、敵視されて嫌悪されて。そこまで嫌われるなら離れればいいと思いながら、それでも俺は、お前にまた惹かれて、お前を縛り付けても傍にいようと思った。すべては俺の自分勝手なお前への想いゆえに」
「あたし……、今も好かれていたの?」
疑問が口に出た。
「なに九年前で分断させているんだよ。当然だろ。お前が好きだから、しつこくエリュシオンに来たんじゃねぇか、俺。ただの罪悪感だけで、エリュシオンには来ねぇよ。組織と同じ名前の会社なんか」
組織の名前、エリュシオンだったんだ。
「あたし、音楽を好きだから、音楽会社に来たのだとばかり……」
「好きだよ。音楽は、イコールお前だから。俺の中では。お前に俺の気持ちを語るように、音楽を作っていたんだから」
あたしは――。
早瀬の音楽が、切なくなるほど好きだった。
特に恋愛系の音楽は、ぎゅっと胸が絞られる心地がして。
今、早瀬の言葉から音楽と似た旋律を感じている。
音楽は嘘をつかない。
その音楽が、早瀬の言葉に溢れている――。
「……音楽では誰にも負けたくなかった。誰よりもずっと、健気に頑張るお前が……好きだったから。音楽室でのあの思い出に縋りながら」
涙が止まらないあたしは、繋いだ手で早瀬の胸にドンと叩いた。
「あたし……辛かった」
あたしは自分の気持ちを吐き出す。
「……ん」
「最初は似た音楽のセンスを持つ早瀬と、音楽のことを話すのが好きで。とても好きで……早瀬だから、あたしはハジメテをあげたの。早瀬以外には、あたしは身体をあげない。早瀬だから……」
「ん」
早瀬は、辛そうな顔をしながら、短くそれだけ返事をして。
彼は、受け止めようとしている。
あたしが早瀬の九年を受け止めようとしたように、彼もまた、今まであたしが忌避してきた九年前の話題を。
「ずっと吐いてた。早瀬と繋がったことを忘れたいように、ずっとずっと。生きた心地がしなかった。あたしは騙されていたんだって。馬鹿なあたしが自惚れて、早瀬に愛されているような錯覚をして、ひとりで幸せな気分になっていただけだって」
「ん……」
「ずっとあなたの言葉が忘れられなかった。有名人の娘だから、処女だから。そんな理由であなたが近づいていただけだと、あたし自身を見てくれていたわけではなかったと、そう思ったら、憎しみすら覚えた」
「……ん」
早瀬は、声を荒げるあたしを見ていた。
「男性恐怖症になって、触られるのも嫌で。それを亜貴が一生懸命和らげてくれた。献身してくれた。だけどあたし、前に進もうと恋をしようとして、家族のことを言わなくても、あたしを見てくれる優しいひとと、このひとなら大丈夫かもしれないと、大学時代ホテルに行った。だけど、駄目だった。あなたに言われたことがトラウマになって。あなたがあたしの隅々にまで刻みついて」
「ん……」
「二年前再会した時、最悪だと思った。あなたはあたしが出来なくなった音楽の地位と名声を持っている。ひとを傷つけておいて、なにが音楽、なにが天才だと思った」
早瀬は、戦慄く唇を噛みしめていた。
――ひとは彼を天才音楽家と言うけれど、私から見れば、努力の賜よ。あれだけ頑張ったのだから、どんなに若かろうと今の地位があるのは頷ける。当然よ。
「だけどあなたの音楽に否応なしに惹かれる自分がいて、だったらあなたが作った音楽とあなたを切り離そうと思った。それなのにあなたは、困っているあたしに借金の代償に、あたしの身体を求めた。性処理だと」
涙が止まらない。
「トラウマの相手に性処理だと言われる屈辱、あなたにわかるかな!? 七年かかって塞いだはずの傷口を抉られて、離れたくて仕方がないのに、身体だけ求められて、身体だけが密着して、心が離れているこの空しさ。あたしは早瀬にとってなに? あたしをあたしと認めない早瀬なんて嫌い、大嫌いだって思った」
「ん……」
早瀬は苦しげに眉間に皺を寄せた。
「なんで性処理なんて言ったの!?」
早瀬は言った。
「お前にとって最低男だと思ったから、神聖な音楽以外は、最低なことを言うしかなかった。俺が、本当のことを言う資格はねぇと、そう思ってた」
「勝手に傷つけて、さらに追い打ちをかけて酷いよ!! 金のため亜貴のためだとそのためだけに抱かれるのが、どれだけあたしを傷つけていたのか、わからなかったの?」
早瀬は苦しげな浅い息をしていた。
「最低なことでも……やっと会えたお前を離したくなかった。なんとしても、繋ぎ止めていたかった。お前を見守れる場所にいたかった。お前に好かれることはねぇと、もう音楽室でのように笑ってくれねぇと思っていた俺には、身体で繋ぎ止める方法しか思いつかなくて。せめて憎悪でも、俺のことで頭をいっぱいにして貰いたかった。好きという感情と同じくらいの強い感情を、俺に持って貰いたかったんだ。俺に、お前の感情が欲しかった」
「あたしの心を切り捨てたくせに、自分勝手過ぎるよ!」
「……だな。わかっている。わかってはいるんだ」
悲しみに翳った顔で、切なそうに早瀬は横を向く。
……予定では、あたしは早瀬をここまで詰るつもりはなくて。
だけど止まらない。早瀬が素を見せようとしているから、あたしも抱え込んだ本当の自分が叫ぶ姿を見せている。
あたしにとって、それだけの九年だった。
「あたしは高嶺の花でもない。あたしは日の当たるところが相応しい女じゃない。ただの……あなたと同じ世界に生きている女なの。酷いことをされたり、酷いことを言われたら、傷つくし泣くの! あなたと同じ人間で、刺されたら血を流して痛くてたまらなくなるの! あたし、なにも言われないで、あなたひとりの都合に、九年も振り回されていたことが本当に口惜しい!」
あたしは早瀬の胸ぐらを掴んだ。
「地下組織がなに!? 監視がなに!? なんのためにあなたは地下で力を養ったのよ。それなのになんであたしを守り続けてくれなかったのよ。どうして組織の力に屈してしまったのよ!」
「え……」
「九年前も今も、あたしが危険ならあたしを守ればいいじゃない。誰よりもあたしの近くで! 線を引いて勝手に高みにあげないで、遠巻きからじゃなくて、あたしの横で。なんで突き放したのよ。あたし、危険でもよかった! あなたが離れることが、死ぬより辛かったのに! どうしてあたしの命ではなくて、あたしの心を……あなたが好きな心を、守ってくれなかったのよ!」
驚く早瀬の目を見ながら、あたしは引き攣った息をしながら言い捨てた。
「今さらでしょう!? 九年前にもう気づいていたでしょう!? いいえ、こんないい方は卑怯よね。あたしは! 九年前も今も、あなたが好きなの!」
早瀬が、理解出来ないというように瞬きをするのが、無性に腹立つ。
「好き……友達として?」
「そんなわけないでしょう! 異性として、男としてあなたが好き。愛しているの! 冷たくされても傷つけられても、あなたが好きなの!! 好きだからキスしたいの!!」
あたしは乱暴に彼の唇を奪い、キッと呆ける早瀬を睨んだ。
「あなたは何でもお見通しの王様なんでしょう!? なにその反応、腹立つなあ! だけど、なにより一番腹が立つのは……」
あたしはソファから立ち上がって、早瀬の足元に蹲り、両手を床について深々と頭を下げた。
「ごめんなさい」
「は……?」
「あなたがあたしを守ろうとしてくれている、その愛情に気づかず……愚かにもあなたを恨むことしかしてこなかった九年を持つあたしを、許して下さい」
そう、早瀬がなにに苦しんでいるのかあたしは気づこうともしなかった。
早瀬の傷口を見ずに、自分だけの傷を大切にしてきたようなものだ。
「好きだったのに、早瀬は裏切る奴なのだと、信じてしまってごめんなさい。あなたのこと、理解しようとしないで、あなたの言葉から真情を推し量れなくて、ごめ……」
「なにしてるんだよ、謝るのは俺の方だろ。お前はなにも悪くねぇ!」
早瀬があたしの手を掴んで顔を上げさせるが、あたしは頭を横にふり、泣きながら言った。
「あたしがもっとあなたを信じていれば。好きなのに、信じなかった。あなたではなく、あなたの言葉だけを信じたの。だから――」
「違うよ、アホ!」
早瀬もソファから滑り落ち、嗚咽を漏らすあたしを抱きしめるようにして言う。
「悪いのはすべて俺に決まってるだろ!」
「違う! 自分の傷を大事にしたあたしの方!」
「違うって! 俺が!」
「あたしなの!」
「俺だ!」
怒鳴り合いをして、そしてふたり同時に吹き出してしまった。
「お前をいつも傷つけて泣かす、俺から出る言葉に怯えて、遠回りをしすぎてしまったな……。お前が好きで大切だから守りたい、ただそれだけだったのに……。好きだと、言うのに十二年もかかった」
早瀬はあたしの後頭部を手のひらで撫でながら言う。
「恋愛経験値があれば、もっと方法を見つけれたかもしれねぇのに、俺にはお前を突き放す方法しかとれなくて。……俺は、自分の気持ちは言う予定はなかった。前に言った通り、お前を傷つけた分、俺も報いを受けようとしていた。思ってもねぇ悪意ある言葉でお前を傷つけた、その苦しみを俺も抱えようと」
九年分のしがらみが少しずつ解けている気がした。
「……すまなかった。心にもねぇ言葉でお前を傷つけて。お前の指を駄目にしてしまって」
早瀬の頭が綺麗に下げられた。
あたしは別に早瀬に謝って欲しかったのではない。
「じゃあ……責任とってあたしの傍に居て。あたしが苦しんだ分、あたしを幸せにして。あなたが苦しんだ分、あたしが幸せにしてあげるから」
「……お前、時々大胆になるよな」
「え?」
「無自覚か。だったらそれでもいい、今は」
早瀬はあたしの片手を取る。
そして――。
「光栄の至り」
王様は、あたしの騎士のように、手の甲に唇を当てた。
あたしが欲しかったのは、早瀬の心。
あたしは、ただ単に早瀬を忘れられないほど、大嫌いだと思うほど、早瀬を好きだっただけ。
「ごめんなさい、守ってくれているのを知らずに、あなたを嫌がって」
止まっていた、シンデレラの時間が進み出している。
その先に待ち受けるのはみすぼらしい姿なのか、お姫様の姿なのかわからないけれど、あたしの凍てついていた心は溶かされた。
「そしてありがとう。昔も今も、守ってくれて」
誰よりも傷ついた早瀬の言葉で時間を止められ、同じ早瀬の言葉で時間が動き出す。
あたしの時間は、亜貴では動き出していなかった。
早瀬ではないと、あたしは前に進めない。
「……柚。俺……お前が好きだ」
あたしが昔から好きな、早瀬ではないと。
「九年間、そしてこれからも……、俺はお前だけが好きだ。昔だけではなく、今も……苦しいくらいに好きなんだ」
あたしの反応を見るかのような、王様にはありえない、怯えた……震える声が愛おしくて。
「言葉でどう言っていいのかわからねぇ。どう伝えていいのかわからねぇ。出来るもんなら俺の胸の内を見せてやりてぇ。どれだけお前のことを想っているか」
「……っ」
早瀬の愛情に胸が押し潰されそうになる。
こんなに想われていたのに、あたしは過去に囚われて、目を向けることが出来なかった。
「……家族や処女なんてまるで関係なく、俺は十二年前から。上原柚、その名を持つお前だけに恋い焦がれて生きている」
必死に言葉で伝えようとしてくれる早瀬。
その言葉に、その想いに胸がぎゅっとなる。
あたしも――。
「……あたしも、高校からあなたが好き。傷つけられても苦しませられても、今も……あなたが好きよ、須王」
泣きながら笑って言うあたしに、早瀬は……須王は、静かに一筋の涙を零しながら笑った。
とても美しいその笑みを、なにかから解放されたような笑みを、きっとあたしは生涯忘れられることは出来ないだろう。
それはあたしが好きになった高校時代の須王であり、そこから孤高の貫禄をつけた王様の須王であり。別人のようで同一の人物像が、あたしの心の中で重なった。
あたしの恋が、今……完全に繋がった。
あたしは音楽室の須王に恋して、今に至っている。
きっとあたしは、この先も須王ひとりを愛するのだろう。
この先どんなに傷つけられても、あたしは孤独なこのひとを守りたい。
必死に音楽に助けを求めたこのひとを――。
自然と唇が重なった。
それは、人生上初めて唇を合わせるかのように、とてもぎこちないキスで。唇を離しても、須王の優しい瞳に吸い込まれるようにして、また唇が重なって。
「俺の柚……。俺だけの――」
譫言のように呟いた須王は、あたしの両頬を両手で固定し、覆い被さるようにして、角度を変えながら深いキスを始めた。
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