あいしてるって言ってない

あた

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さぼるとは言ってない

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 恵と出会ったのは、小学一年のときだった。恵は、「家庭の事情」で、学期半ばで転校してきた。今ではモデル並みの長身である恵だが、その頃はまだ俺と同じくらいの背丈だった。

 昔の恵は、いつも誰かの後ろに隠れているような、引っ込み思案な子だった。それに、ほとんど誰とも話そうとはしなかった。同じ通学路を通る俺とも、二言か三言くらいしか会話が続かなかった。俺はもっと恵と仲良くなりたかったけれど、恵は自分の周りに壁を作っていた。

「なあ、めぐちゃんちってどこにあるの?」 
そう尋ねたら、恵は少し躊躇したあとこう言った。
「家は、ない」

 恵はいま施設にいる──後日、他の子達が話しているのを聞いた。親がいなくて、叔父に「ぎゃくたい」されていたからだと。

 俺は母親に、ぎゃくたいって何かと尋ねた。母親は少しためらったあと、意味を教えてくれた。言葉は難しいけれど、ぎゃくたいがとてもひどいことだ、というのはよくわかった。

 ある日、恵が着替えていると、一人の生徒が彼を囃し立てた。やんちゃで身体がでかいやつだった。

「おい、背中がきたねーぞぉ。ちゃんと洗ってんのかよ」
 恵はさっと赤くなり、急いで服を着た。ムカムカした俺は、机の上によじ登り、そいつに飛び蹴りをかました。
「おまえの顔の方が汚いぞばーか!」

 そいつと俺は殴り合いの喧嘩をし、体格差によって俺はあっさり負けた。そうして、教師にたっぷり絞られた。反省文を書くよう言われた俺は、迎えにきた母親と共に学校を早退した。

 俺はむくれながら、
「俺は悪くないんだ。あいつが先にめぐちゃんの悪口言ったんだから」
「だからってやり返したらだめでしょうが」

母親は俺の膝に絆創膏をはり、ぺちりと叩いた。
「いってー!」
「早く反省文書きなさい」
 俺はぶつぶつ文句を言いながら、リビングのテーブルに原稿用紙を広げた。鉛筆をがりがり削り、雑な字でマスを埋める。

「おれはかっとなって人をけりました。とてもはんせいしています。あと、人のかおをきたないと言いました……」

 400字の原稿用紙を埋めるために唸っていたら、チャイムが鳴った。母親はどこかに電話をしていたので、俺は鉛筆を置いて玄関へ向かう。
「はーい」
 ドアを開けると、恵が立っていた。
「めぐちゃん?」
 恵は俺の膝を見て、眉を下げた。
「大丈夫?」

 喧嘩を仕掛けたのに負けたのが恥ずかしく、俺は顔を赤らめた。
「だ、大丈夫だよ、こんくらい」

 彼はランドセルから、用紙を取り出した。
「これ、授業のプリント。宿題だって」
「げっ」

反省文もあるのに、やることが増えた。俺が顔をしかめていたら、
「教えようか」
「いいの?」
「うん。橘くん……」
恵は頷いて、おずおずと尋ねてきた。
「ヒロって、呼んでいい?」
俺はぱっと顔を明るくした。
「うん!」

 思い出が泡みたいに消えていく。代わりに、恵に言われた言葉が頭の中をぐるぐる回る。すきだ。
 ヒロがすきだ──。

 気がついたら、家についていた。恵の家からフラフラ歩いてきて、無意識に自宅への道をたどっていたのだ。これが帰巣本能ってやつだろうか。

 玄関にあがり、廊下を歩いていくと、リビングから音が聞こえてきた。母親とさくらが、並んでテレビを見ている。母親は、リビングに入ってきた俺を見て驚く。
「あらあんた、恵くんのうちで追い込みするんじゃなかったの」
「うん、ちょっと」

 俺はそう言って、洗面所に向かった。顔を洗っていると、さくらがひょこりと顔を出す。心配そうな表情で俺を見て、
「お兄ちゃん、何かあったの?」
「いや……」
「めぐちゃんと喧嘩でもした?」
「まあ、そんなとこだ」

 さくらは珍しいね、と言ったあと、「でも、小学生の時、一回あったよね。三年生くらいだっけな」
「え? そうだっけ」
「うん。ほら、ちょうどこの時期、めぐちゃんをうちのクリスマスパーティに誘ったでしょ?そしたらめぐちゃん、クリスマスは嫌いだから行かないって言って。お兄ちゃんがしつこく誘うもんだから怒っちゃって」
「あ、ああ」

 久我流に言うと、「親切の押し売り」ってやつだ。俺は首筋を掻いて、
「どうやって仲直りしたんだっけ」
「ふふ、お兄ちゃん、覚えてないんだ」
さくらは含み笑いをする。
「さくらは覚えてるのか?」
「うん、覚えてるよ。でも教えてあげない」
「そんな意地悪言うなよ」

 しかし、ちょっと意地悪なさくらも可愛い。重ねて頼み込むと、仕方ないなあ、と言い、
「ヒントは、七夕だよ」
「七夕?」
 俺は考えこんだ。

「あとは自分で思い出して」
 さくらはそう言って、じゃあ、おやすみ、と洗面所を離れていく。
 なんだったろう。俺は首を傾げる。恵と喧嘩することなんか滅多にないから、覚えていそうなものだが。俺はタオルで手を拭きながら、思い出そうと頭をひねった。

 その夜、俺は夢を見た。

 小学生くらいの俺が、必死に何かを折っている。下手くそすぎてなんだかよくわからないが、多分星だろう。何をやってるんだろう──それが完全にわかる前に、目が覚めた。

 明るくなった窓の外、小鳥が呑気に鳴いている。俺はベッドから降りて、顔を洗うためにドアへと向かった。何気なく、ドアの脇にあるカレンダーに目をやり、ぴた、と立ち止まる。十二月のカレンダーに描かれているのは、クリスマスツリーだ。
 俺は「もしかして……」と呟いて、ドアを開けた。



 学校に向かうと、恵は既に登校していた。自分の席に座り、携帯に視線を落としている。俺は息を吸い込み、笑顔で恵に近づいていく。
「よっ、恵、おはよ」
「……おはよう」
 恵はそう言って、また携帯に目を落とした。いつもなら、俺の目を見て話すのに。胸がずきんと痛んだ。このまま恵と疎遠になるなんて嫌だ。ワガママだとわかってる。だけどやっぱり、恵と離れたくない。恵にとっては違っても、俺には一番の友達なのだから。久我に馬鹿だって笑われても、それは変わらない。

「今日、追試終わったら、うち来ないか? たまには母さんの料理もいいだろ」
 聞こえているはずなのに、恵は何も言わない。
「まあ、恵の飯のほうが美味いんだけど」
 俺はそう言って笑った。

「悪いけど、用事がある」
 恵は携帯を持ったまま、立ち上がった。
「久我でも誘ったら?」
「な……久我は関係ないだろ。俺はおまえと飯食いたいんだよ!」
「そう? 俺は別に、食べたくない」

 冷たく言って、恵は教室を出る。すれ違う時に、一瞬煙草のにおいがした。恵は煙草なんか、吸わないはずなのに。なんだか嫌な予感がして、恵を呼び止める。

「恵!」
 俺は教室を出ようとしたが、やってきた担任に押しとどめられる。
「おいおい、どこ行くんだオマエ」
「先生、恵がサボる気です!」
「あー? 高野? まあ、いいんじゃね、あいつ頭いいし」
 適当な返答に、俺はイラッとする。なんなんだこいつ、いい加減すぎる。本当に教師かよ。

「オマエはサボんなよ、つか、追試の勉強したか?」
 俺がバカだと言わんばかりの口調にむっとする。実際、バカなんだが。
「した!」
「敬語使えよ」
 担任はやる気のない様子で教壇に立ち、「ホームルーム始めるぞー、はい、号令」と言う。
 きりーつ、という声を背に、俺はのろのろと席に戻った。

 授業が終わり、放課後になっても、恵は戻ってこなかった。追試を受けたのはなんと俺一人で、試験監督をした担任は「オマエ、やべーな、マジで」を連発していた。俺はイライラしながら、
「先生、問題解いてんだから静かにしてください」
「お、反抗的。素直が取り柄だろ、オマエは。馬鹿だけど」
「教師が生徒を馬鹿馬鹿言っていいんすか」
「褒めてんだけど。小賢しい餓鬼より俺はオマエみたいのが好きだし。高野とか、ちょっとヤバイ感じすんだろ?」
その言葉に、動かしていたシャーペンを止める。

「恵が?」
担任がそんな風に見ていたなんて意外だった。恵は頭もいいし、素行も真面目だからだ。担任はあごひげを触りながら、
「ああ、なんつーの? 頭いいし、要領いいんだけど、年相応な感じがないっつーか」
煙草の匂いが恵からしたことを思い出し、俺は動揺する。
「そ、んなことないんじゃ」

「だってさ、アイツ一人暮らしだろ。自分で家事とかして、成績もトップクラス。そんでオマエの面倒も見る。フツーじゃねーよ」
「俺の面倒って、先生が頼んだんじゃないの」こ
「言われたからってやらねーだろ、小学生じゃねーんだぜ?」
 俺は不安になって、担任を見た。
「先生、恵がなんかするって言うのか?」
「そーは言ってねーけど。アイツ、オマエにだけは心開いてるみたいだから、見といてやれよってこと」
「……」
 俺はマジマジと担任を見た。

「なんだよ」
「今、初めて先生っぽいと思った」
「初めてえ? ふざけんなよ、俺は浜高の金八先生って呼ばれてんだぞ」
「嘘つけ」
 担任は腕時計に目を落とし、
「あ、あと十五分だ」
「えっ」
 俺は慌ててテスト用紙に向き直った。

「ちなみにコレ落ちると職員会議モノだからな。ヤバイぞー」
 担任がニヤニヤしながら言う。ヤバイも何も、あんたが話しかけて来たんじゃん! 俺は心の中で抗議し、必死にシャーペンを動かした。

 なんとか空欄を全て埋めて、時間ギリギリに提出する。担任はテスト用紙を見て、「ああ、埋まってんな。正答率はあやしいけど」
その場で丸付けをはじめる。試験の是非は気になるが、それより、俺は恵に電話したくてそわそわしていた。

「なんだ? トイレか?」
「違う! なあ、どうだった?」
「うん、ギリギリ合格」
「マジで!? やった!」
俺は勢いよく席を立った。ガッツポーズを取ると、
「いいか、これに懲りたら日頃から勉強し」
「じゃね、先生、また明日!」
「っておいコラ、まだ話終わってねーぞ!」

 俺は担任の小言を受け流し、慌てて教室の外に出た。恵の携帯に電話しようとすると、着信があった。久我からだ。俺は一瞬躊躇して、コールバックする。

「もしもし、久我?」
「あ、神領だけど」
「神領? なんで?」
「実は今久我の家にいるんだ。あいつ、今日休んでさ」
「え」
久我が風邪? あいつも人の子だったんだな。

「まあ、サボりかなとは思ったんだけど、連絡つかないし、一応来てみたら、いないんだよ。しかも、鍵開けっぱなし。携帯はあったんだけど、女の子の名前ばっかりで」
 そこで言葉を切り、神領は「で、もしかして橘のところに行ってるのかなと思って」と続けた。

「いや、昨日電話したけど、会ってない」
「あいつ、何か言ってなかった?」
「店で飲んでて、迎えに来いって言ってた。あと、風邪ひいてたみたいだけど」
「店か……たぶん、『スクエア』っていうクラブだな」

 その店は久我の行きつけらしい。クラブに通い詰める高校生ってどうだよ。あいつ、絶対店で酒飲んでるんだろうな。

「神領は一緒にいなかったのか?」
「あいつ、プライベートに俺が同伴するの拒否るからね」
 ああ、そうか、久我と神領は「友達」ではないんだった。俺はノートを取り出し、一ページ破った。

「俺、その『スクエア』ってクラブに行ってみる。場所教えてくんないか?」
「え? いいの?」
「うん、ちょうど追試終わったし」
 恵にはあとで連絡しよう。そう思いながら、俺はクラブの住所をメモした。

「スクエア」は、その名の通り四角い形をした、箱みたいな建物だった。打ちっ放しのコンクリートが、スタイリッシュな雰囲気を出している。少し味気ない感じもするが、夜になるとライトアップされるのだろう。

窓がないから、中の様子がよくわからない。ドアには「closed」という札がかけられている。そうか、クラブだから昼はやってないんだ。

 俺が店の前をうろうろしていると、ドアが開いて、帽子を被った男が出てきた。軽薄そうな三十代後半くらいのその男は、俺をじろじろ見る。
「なんか用?」
「この店の人ですか?」
「そーだけど。ココ、子供が来るような店じゃないよ?」
「でも、高校生とか来てますよね」 
男はまあね、と頷いた。

「最近のガキは大人びてるからさあ、私服だとわかんねーんだよな。いちいちチェックもしてらんないし」
 俺は勢いこんで、
「昨日、久我ってやつが来ませんでしたか?」
「久我? ああ、議員センセーの息子ね」
 男は怠そうに頷き、煙草に火をつけた。吸って吐くと、紫煙がゆらゆらただよう。

「いっつも女の子に囲まれてエラそーにしてる王子様だ。いいよなあ、俺も金持ちの息子に生まれたかったね」
「それで、久我が何時ごろに店から出たかわかりますか」
「さあ……なに? 友達?」
久我に友達はいない。が、俺は頷く。

「はい」
「ならコレ渡しといてよ。腕時計、忘れてったんだよね」

 男は、胸ポケットから黒い時計を取り出した。俺は、見るからに高価そうな腕時計を受け取る。何製なのだろうか、ずっしりと重い。ゲーセンで買った俺の腕時計とは物がちがった。
よく見ると、針が止まっている。電池切れだろうか。

「ありがとうございました」
俺が頭をさげると、
「気をつけて帰ってネ」
 男は軽薄そうに手を振り、煙をふかした。
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