恋の仇花

小貝川リン子

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第二章 罪業

罪業③

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 沖縄で過ごす最後の夜。いくつかのホテルを転々としてきたが、最終日は特別に高級感のあるビーチリゾートホテルでの宿泊となっている。
 
「なぁ、いいだろ? 一回だけでいいからさ」
 
 ホテルの廊下で面倒な奴に捕まった。自販機で飲み物を買うだけのつもりだったのに、鼻の利く男である。
 
「こんな機会、二度とねぇしさ。なぁ、頼むよ」
 
 男は必死に頭を下げる。真尋はうんざりと溜め息を吐いた。
 
「さっきから何度も言ってるが、お前とはしねぇ」
「なんで」
「おれにだって相手を選ぶ権利くらいある。お前、いかにも下手そうだし、童貞だろ」
「そ、そりゃそうだけど……」
 
 名前は忘れたが、今年同じクラスになった何とかという男だ。修学旅行の浮かれた空気に乗せられたのか、告白をすっ飛ばして抱かせてくれと迫ってきた。真尋にとっては日常茶飯事であり、今更驚くことでもないが、女に同じことをしたらその瞬間に嫌われるだろう。
 
「で、でも、だからお前がいいんだよ。高校のうちに一回くらいヤッときてぇんだ。お前、童貞だろうが何だろうが食っちまうんだろ? そう聞いたぜ。童貞に色々教えてくれよ」
 
 真尋が何度も断っているのに、男はしつこく食い下がる。首を縦に振らなければ、一生付き纏われそうだ。だが、ここで折れることはできない。
 
「無理なもんは無理だ。他当たってくれ」
「なんでだよ。オレの何が悪い? 顔か? そりゃイケメンとは言えねぇけどよ。チンポはそんなに悪くないと思うぜ? サイズには自信あんだ。見てみるか?」
「いい加減にしろ。言葉が分からねぇのか」
「分からねぇのはお前の方だろ、高峰。何がそんなに嫌だ? 選り好みできる立場かよ。誰とでも寝るくせに、オレの何が気に食わねぇんだ」
「お前がどうとかより、とにかく今は気分じゃねぇんだ。もういいだろ。諦めてくれ」
 
 男の脇をすり抜けようとして、腕を掴まれた。力任せに腕をねじ上げられ、壁に叩き付けられる。壁際へと追い詰めるように、大きいばかりの男の図体が迫ってくる。
 
「てめぇ、何のつもり──」
「……杉野のせいか?」
「っ……」
 
 思わぬ名前に息を呑む。男はにんまりとほくそ笑んだ。
 
「やっぱそうか。杉野に知られたくないから、同じクラスの奴とは寝ないんだ」
「っ、適当なことほざいてんじゃ……」
「じゃあオレにもヤらせろよ。できるだろ? どうせヤリマンなんだからよ」
 
 膝蹴りの一つでも食らわせられればよかったが、男の体に押し潰されて身動きできない。
 
「なぁ、ほら。舌出せよ。キスくらい屁でもねぇだろうが」
「っ……」
 
 強引に顎を掴まれる。黒ずんだ唇が迫ってくる。
 
「おい、明日の予定確認するからって、京太郎が」
 
 曜介だった。ちょうど通りかかったのか、それとも真尋を探しに来たのか。そんなことを考えている場合ではない。僅かに生じた隙を突き、真尋は男を蹴り飛ばした。そのまま曜介に背を向けて、逃げるようにその場を後にする。
 
 男の言ったことは、おおよそ正しい。中学、高校と、クラスメイトとは頼まれても寝なかった。しかしそれは、曜介に知られたくないからではない。曜介を穢さないためだ。
 この体は、取り返しが付かないほどに汚れてしまった。だが、曜介は違う。曜介にはまだ、清らかな部分が残っている。だから、真尋が触れることでそれを穢すことはできない。あの日、曜介が真尋に触れられなかったのと同じように、真尋もまた、この汚れた手で曜介に触れることができなくなった。
 セックスなんて、大したことはない。幾人もの男と寝て辿り着いた答えだ。感情が伴っていなくたって、地べたに転がる蝉の抜け殻を踏み潰すのと同じくらい簡単に、体を重ねることはできる。回数を重ねるごとに、真尋はますます、セックスに対して白けた感情を抱くようになった。
 この程度のつまらない行為に、小学生だった自分は地獄の底へと叩き付けられたような感覚を覚えたのか。なんてくだらないのだろう。こんなことでいちいち一喜一憂して、馬鹿みたいだ。もう二度と、こんなくだらない行いに心を乱されるのはやめにしよう。
 しかし同時に、厳然たる事実が真尋の胸を抉る。この体が汚れていること。汚いものに、曜介は決して触れてはくれない。汚い手で、綺麗なものに触れてはならない。残された聖域を穢すなんて、そんなことがあってはならない。決して許されるはずがない。
 もっともっと醜悪な姿を晒せば、どぶ川に溺れてその水を飲み干し、臓腑の裏まで汚泥で満たして、それほどまでに汚れ切ってしまえれば、諦められると思った。汚れたこの身も、崩れ散った恋心も。
 
 今年の夏休み、一度だけ曜介と会った。おそらくは京太郎の計らいだったのだろう。京太郎の妹を含めた四人で、虫取りに出かけた。
 年の離れた妹の自由研究のためという名目だったが、おそらくは三人で遊びたかっただけだ。真尋が、そして曜介が、京太郎の誘いに乗ったのは、少なくとも似たような気持ちがあったからだろう。高校二年の夏休みに、得も言われぬ感傷を抱いたのかもしれない。
 夏休みに入ってからというもの快晴続きで、炎天下での虫取りはかなり応えたが、そこは幼少期から慣れ親しんだ雑木林だ。三人とも、ここでの過ごし方については玄人である。カブトムシの集まる樹、蝶の飛び交う高台、百合の花の群生地、何でも知っている。
 妹がアゲハ蝶を捕まえたいと言うので、曜介は樹々の間を走り回って虫取り網を振り回した。京太郎は図鑑を片手に蘊蓄を垂れ流し、妹は虫取りそっちのけで木登りを始める始末だ。真尋もまた、花の蜜を吸いに止まった黒いアゲハ蝶を捕まえる。虫かごの中は、さながら少年の楽園だ。
 
「すっごーい! いっぱい取れてる!」
「こら、そんな持ち方をするな。翅が破れるぞ」
「なぁ、カナブン取れたんだけど、どうする」
「別にいらないだろう。逃がしてやれ」
「でもなんかすげぇ青いけど」
「なに!? それはレアカラーだぞ、丁重に扱え!」
 
 木漏れ日に照らされ、蝶や花と戯れる少女の姿。泥だらけになりながら虫を追いかける、曜介と京太郎の姿。在りし日の少年の面影を、真尋は確かにそこに見た。
 樹々の隙間から燦々と降り注ぐ青い日差しが肌を焦がす。それを物ともせずに、少年少女は野を駆ける。流れる汗が青く光って弾けている。
 かつては、真尋も確かにそこにいた。そこが真尋の居場所であり、そのことにほんの僅かの疑いもなく、今日と地続きの明日が永遠に続いていくのだと、そんな保証はどこにもないのに、信じていた。
 真尋だけが、あの頃からあまりにも遠くかけ離れてしまった。木漏れ日の下で笑う、あの少女と変わらない少年時代が、真尋にも確かにあったのだ。だが、もう決して戻れはしない。あまりにも遠いところまで来てしまった。
 思い出してみろ。この汚れ切った肉体を。穢れてしまった魂を。今この場に、真尋の存在だけがふさわしくない。まるで、洗い立てのテーブルクロスに零したコーヒーの染みだ。
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