恋の仇花

小貝川リン子

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第三章 離別

離別②

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「曜ちゃん、薬指がずいぶん寂しくなっちゃったんじゃないの」
 
 次の授業の準備をしていた。隣席の同僚が曜介の右手を指して言う。数日前まで、この右手にはシルバーのペアリングが光っていた。
 
「あ~、まぁ、別れたからな」
「マジか。付き合って結構長かったよな?」
「ん~、まぁ、二年くらい?」
「もったいない。てっきり結婚するものとばかり」
「まぁ、そういうのは相手次第っつーか……。せっかく紹介してくれたのに、悪かったな」
「いや、それは全然いいんだけどさ」
 
 曜介の回答が今一つ要領を得ないせいか、同僚の河北は曜介を元気付けるように背中を叩いた。
 
「まぁ、あれだ。女は星の数ほどいるわけだし。今度また合コンでも連れてってやるから」
「星の数ほどねぇ……」
 
 河北は曜介が落ち込んでいると思ったのだろう。無理もない。二十代も後半に入り、二年も付き合った彼女がいるとなれば、結婚を意識するのも当然と言える。それがいきなり別れたとなれば、誰だって落ち込む。そう考えるのは当然の話だ。
 だが、曜介にとってそれはほとんど意味のない話である。二年付き合った彼女がいるからといって、それがどうしたというのだ。そんな数字に意味はない。
 いきなり告げられた別れ話だったが、曜介はあっさりと受け入れた。新鮮な驚きもなく、悲しみによる抵抗もない。実に呆気ない、そうなることが運命付けられていたかのような、あっさりとした幕切れだった。
 遅かれ早かれ、いずれこうなる予感はしていた。あと二年、三年と、順調に交際が続き、相手が結婚してもいいと考えてくれたのなら、曜介にだっておそらく相応の準備はあっただろうが、それらも全て仮定の話であり、結局のところ意味がない。
 
 高校を卒業し、大学に進学して、曜介の世界は広がった。人並みに女の子と遊んだり、付き合ってみたり、キスやそれ以上のこともしたし、清い体ではなくなった。
 女の子はかわいい。と思う。いい匂いがするし、柔らかくて、すごく優しい。だが、十代の頃に感じていたあの焦燥や、行き場のない迸る思いを、曜介は誰に対しても抱くことができなかった。
 誰と一緒にいても、そこはまるで曜介の居場所ではなく、彼女とのキスやデートも、ゲーム画面を見ているようなで味気なく、付き合ってくれた女の子には申し訳ないが、曜介は恋愛に関して全く本気になれなかった。
 今回別れた彼女も、そういった違和感を薄々感じていたのだろう。互いにもういい大人だったし、依存し合うような関係ではなかったが、それにしたって淡泊すぎた。
 二年も一緒にいたというのに、その時間をどうやって過ごしたのか思い出せない。最近では、愛の言葉を交わすことさえ稀だった。二年かかっても、曜介は彼女の心をほとんど何も理解できなかったのだ。
 
「曜ちゃんは結局、私のことなんてちっとも見ちゃいないのよ」
 
 別れ際に言われた言葉だ。
 
「曜ちゃんはいつだって優しかったけど、でも、それだけ。私、これ以上あなたに何もあげられない」
 
 そう言って彼女は去った。曜介は彼女を追いかけることなく、薬指の指輪を外した。急に心が軽くなった。
 彼女の言ったことは分からないでもない。色々なものを諦めて、妥協の末に安定と平穏を手に入れて、代わり映えのない退屈な日常を惰性で続け、そしていつしか老いていく。そんなことに意味があるとは思えない。けれど、大人になるっていうのはそういうことではなかったか。
 子供の頃、未来は無限の可能性に満ちていた。どんな未来を選び取るのか、そんなことさえ考えもせず、ただ前のみを見つめて走っていた。
 だが、必ず選択の時は来る。何を選ぶのか、そして、何を選ばないのか。選ばれなかった未来はひっそりと死に絶え、そんな可能性があったということさえ忘却の彼方だ。
 無限の可能性の中から一つを選んで、選んで、選び続け、そして捨て続けて、今の人生に辿り着いた。やがて、無限に広がっていたはずの可能性は先細り、選べるものも、捨てられるものも、ほとんど残っていないことに気付く。過去の自分が選び取り、積み上げてきた未来への道筋を、歩いていくしか他にないのだ。
 かつて捨てた選択肢。死んでいった無数の可能性。それらの中に、たった一つでも、捨ててはいけないものがあったとしたら。なんて、そんな風に考えることさえ、ひどく虚しい。
 過去を振り返れば、あっちへこっちへと危なっかしい足取りで歩んできた、拙い足跡が見えるだけだ。だが、それよりもさらに過去へと遡れば、かつて失った情熱や、胸の痛みや、苦い思い出が、いまだ色褪せることなく横たわっている。
 
 真尋と最後に会ったのは、高校の卒業式だ。入学当時ぶかぶかだった制服は、三年経っても大きめのままだった。胸に桜のコサージュをつけて、哀しそうに笑っていた。
 
「さよならだな」
「……ああ」
 
 真尋は東京の大学に行く。曜介も地元を離れて県外の大学へ行く。そして、おそらく二度と会うことはない。
 
「なぁ、」
 
 言いかけて、曜介は言い淀んだ。
 
「何だよ」
「……元気でやれよ」
「お前もな」
 
 それが最後の会話になった。膨らみ始めた桜の蕾が、冬の気配を残した風に震えている。薄ら氷のように脆く危うい春先の日差しが視界を霞ませて、大切なものを見失ってしまった。
 
 立ち止まって過去を振り返る度、いつでもお前はそこにいる。あの日の後悔と、言えなかった言葉と、そんなものを抱きしめながら。
 季節が何度巡ろうと、忘れることはないのだろう。修学旅行の最後の晩、海辺で触れた唇の温もりも、あいつの涙も、愛おしかった日々の何もかも。生々しいほどの鮮やかさで、記憶に深く刻まれている。
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