恋の仇花

小貝川リン子

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第十一章 危機

危機④-♡

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 気が付いた時、昼過ぎだった。空腹で目が覚めた。曜介の腕枕で眠っていた。腕が痺れたと必ず文句を言うくせに、曜介はこうして眠るのが好きだった。
 あの燃え立つような朝焼けはどこへやら。空は青く澄み渡っている。あちこち鈍く痛む体を起こして、真尋はキャップが開いたままになっているペットボトルを手に取った。水は思ったより冷たくて、渇いた喉を潤した。
 曜介はまだぐっすり寝ている。間の抜けた面を晒して、気持ちよさそうにいびきを掻いている。鼻を摘まんでやると、むずかる子供みたいに眉間に皺を寄せ、もぐもぐと口を動かした。真尋は目を細める。
 
 ほんの少し、いたずら心が働いた。勃起不全の治療という名目で、昨夜は散々恥ずかしいことをさせられたのだ。一晩で一生分の恥辱を味わった。ほんの少しやり返してやっても、罰は当たるまい。
 真尋は布団に潜った。互いに素っ裸のまま眠ったので、目的の場所へ辿り着くのは容易い。曜介の腰の剣は、今のところ何の反応も示していない。朝まで酷使していたのだから、当然といえば当然である。
 興味本位で、真尋はそれに手を触れた。曜介の足の間に体を収め、布団を頭に被るようにして空間を作り、ピクリともしていないそれをせっせと育て始める。
 だが、さすがに疲れ過ぎているらしい。敏感なところばかりを狙って刺激してみても、僅かに芯を持ち、僅かに上を向くだけである。それ以上は硬くならない。天を衝くには程遠い。
 昨晩までは、このしょんぼりとうな垂れた姿を目にする度に、やるせない、陰鬱な気分になっていたものだが、今はもう事情が違う。一晩中頑張り過ぎたのだから、へとへとにくたびれていたって仕方がない。今はゆっくり休ませてあげなくては。
 
 柔らかいままのそれを、真尋は口内へ招き入れた。たとえ柔らかいままだとしても、愛しい男の大切な一部だ。加えて、昨夜は一晩中働き詰めで、真尋を愛し続けてくれたのだから、ますます愛しい気持ちが強くなる。感謝の念すら湧いてくる。
 唾液を含ませながら甘噛みし、舌の上で転がした。口に頬張るにしても、手で愛撫するにしても、硬い状態ばかりを相手にしてきたので、ふにゃふにゃのものに触れるのは新鮮味がある。根元まで迎え入れても苦しくないし、頬張るにはちょうどいいサイズで、素の味を味わうのにも都合がよく、案外悪くない。
 真尋は、曜介が熟睡しているのをいいことに、好き勝手にそれをしゃぶった。柔らかな触感を楽しみ、舌を這わせて形を確かめ、中心を走る芯の固さを敏感にも感じ取る。
 赤ん坊が乳を吸うのと同じ要領だ。あるいは、ロリポップキャンディを舐める作業とも似ている。もちろん決して甘くはなく、むしろほろ苦いような味がするのだが、唾液を纏わせしゃぶっていると、不思議と舌に馴染んでくる。
 
「っ、ちょ、なにしてんの朝っぱらから……」
 
 曜介が起きたらしかった。僅かに身を捩ったかと思えば、布団を捲って覗き込む。潜っていた真尋と目が合う。
 
「えっ、なに。野うさぎ……?」
 
 柔らかいものを口に含んだまま、真尋がもごもご答えると、「なに言ってんのか分かんねぇよ」と笑った。
 
「そんなにしてくれて悪ぃんだけど、さすがにもう勃たねぇって。どんだけ搾り取られたと思ってんの。全部お前の腹ン中だぜ」
「っ……」
「ちょちょっ、急にそんな吸わないでって! ふやけちゃうから!」
 
 曜介の一言にむっとした。いや、曜介の一言に反応した自分にむっとした。あんな台詞で、底が疼くなんて。
 曜介の手が布団の中へ伸びてくる。零れる光が眩しく、目を細める。優しい手が、輪郭を確かめるように、肌の上を滑っていく。顎に触れ、頬を撫で、耳たぶから耳の裏、穴の中までくすぐられ、少し汗ばんだ額から、乱れた前髪を掻き上げられる。髪の一房一房に指を絡めて撫でられる。はらりと舞い落つ毛先が、頬を撫でてくすぐったい。
 
「な、腹減ったろ。なんか作るから、食おうぜ」
 
 真尋は瞬きだけで答える。
 
「いやさ、どうせ勃たねぇのにムラムラするだけ辛いっつーか? 夜ンなったら復活すっから、またそん時な」
「……んなすぐ復活すんのかよ」
「たぶんな。お前次第」
 
 真尋はようやく唇を離した。ちゅぽっ、とたっぷりの唾液が糸を引いた。
 それぞれ適当に服を着る。何か作るから、と言っていた通り、曜介はすぐさま台所に立った。真尋がリビングで寛いで──というかほとんど動けずにいると、甘く香ばしい匂いが漂ってくる。
 
「できたぞ~」
 
 ナイフとフォークをテーブルに並べる。皿の上には、焼き立てのホットケーキが何枚も重なっていた。こんがりとしたきつね色。綺麗な焼き目が食欲を誘う。
 
「ハチミツ、ジャム、メープルシロップ、マーガリン。何でも好きなもんかけて食えよ」
「……コーヒー」
「あ~、はいはい。ちょっと待ってな」
 
 曜介にコーヒーを淹れさせながら、真尋はホットケーキにナイフを入れた。曜介は真尋よりもよっぽど家庭的で、手先なんかも腹が立つほど器用で、市販のホットケーキミックスを使い、店で食べるようなホットケーキをぱぱっと作ってしまう。
 
「おいこら、なに先に食ってんの」
「ああ。うまいぜ」
「そりゃどーも」
 
 マグカップを置き、曜介も席についた。
 起きたばかりではあるが、朝ではない。昼ですらない。時間帯から考えれば、ほとんど三時のおやつに近い。優雅な午後のひと時を、二人で過ごす。
 ホットケーキを一口大に切る。こんがりとした焼き目にマーガリンを溶かす。ふんわりとした生地にシロップを浸す。洒落たトッピングもいいが、ホットケーキの素の味も、真尋は気に入っていた。どこか懐かしい、素朴な味が嬉しいのだ。苦いコーヒーと甘いホットケーキは永遠のベストカップルで、いくら食べても飽きが来ない。
 
「なぁ」
 
 ナイフとフォークをカチャカチャ鳴らしながら、曜介が言う。
 
「どうする。この後」
「どうするって」
 
 ホットケーキを口に運びながら、真尋は答える。
 
「どっか出かける?」
「……ああ。いいな」
「夕飯、外で食おうぜ。最近、あんま行ってなかったろ」
「ついでに買い物もしてぇ」
「じゃ、モールとか行くか。買い物して、飯食って、映画でも見る? 良さげなのやってっかな」
「話題のあれ、ネットで話題になってるやつ、見てぇ」
「どれだよ」
「なんか血飛沫のやつ」
「ますますどれ!?」
 
 和やかな日常が戻ってきた。
 曜介の勃起不全が治らなくても、そばに置いてくれるならそれでいいと思っていた。セックスなんて、一生できなくたって構わない、と。しかし、肌を重ねる幸福を、一度知ってしまったからには、そう簡単に逃げられはしないだろう。と、事が済んだ今なら思う。
 やっぱりセックスはしたいし、デートもしたいし、ソファで寛ぎながら曜介の手料理を食べもしたい。朝目覚めたら隣にいてほしいし、夜も隣で眠ってほしい。欲望は果てしなく、まるで泉の水が湧くように、無限に生じるものなのだ。そのことに気付き、受け入れた。そんな自分に驚いている。
 今日この後、家事を済ませたら、昼下がりの街へ二人で出かけよう。約束通り書店と雑貨屋を巡って、時間があれば洋服なんかも見てみよう。レストラン街で食事をして、映画館でレイトショーを見て、その後家に帰ったら、きっと今朝の続きをしよう。愛すべき日常とは、まさにこういった一日のことを指すのだろう。
 
 *
 
 冬休みが明けた。密かに友人の恋路を気にかけていた河北だったが、数日ぶりに顔を合わせてみれば、何ということはない。二人の間に横たわっていた不穏な影は、綺麗さっぱりなくなっていた。
 休暇前の、あの何とも言えないよそよそしさは消え失せ、それどころかむしろ、以前にも増して仲睦まじい。朝、同じ時刻に出勤してきたり、退勤時も共に帰路についたり、昼休憩を共にしたり、そんな姿を度々目にした。小指と小指を結ぶ赤い糸さえ見えるほどだ。
 結局、二人の間で何があったのか。はたまた、何もなかったのか。尋ねてみても、全てを明かしてはもらえないだろう。
 
「喧嘩? あ~、最近はあれだな。ポケットにゴミ入れたまま洗濯出して、怒られたわ」
 
 そんなことを言って、曜介はあっけらかんと笑うだけ。それは真尋も同じことだ。
 
「だって、これで何回目だと思う。あいつ、何回言っても直らねぇんだ」
 
 やれやれと呆れた様子で、河北相手に愚痴を零す。しかし、その眼差しは柔らかく、春の気配を宿している。
 結論、夫婦喧嘩は犬も食わない。他人がとやかく口を挟む必要なんてなく、勝手に仲直りしているものだ。そしてまた小さなことで諍いになり、仲直りして、その繰り返し。雨降って地固まるとはこのことだ。
 大切な同僚であり、友人でもある彼ら二人の行く末は、河北にとっても気になるところである。これからも、適度な距離感で見守っていこう。誰に告げるわけでもないが、河北はそう心に決めた。
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