私の赤い糸はもう見えない

沙夜

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重なる軌道

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実験室の、硬い椅子に深く腰掛ける。初回の授業ということもあり、教室はざわついていたが、私の耳には何も入ってこなかった。心臓が、嫌なほど大きく脈打っている。
「よろしく」
すぐ隣の席から、静かな声がした。顔を上げると、彼がそこにいた。いつから座っていたのか、全く気付かなかった。私は慌てて「よ、よろしく…」と返事をするのが精一杯で、すぐに手元の資料に視線を落とした。

(見るな、見るな…)
そう念じても、私の目は無意識に彼の小指へと吸い寄せられる。
私から伸びる糸は、相変わらずそこに在った。以前よりも少しだけ、色が濃くなっている気がする。彼の指先からは、まだ誰にも糸は伸びていない。わかってはいても、その事実が少しだけ胸をチクリと刺した。

実験は6人1組のグループで行われた。最初のうちは、ぎこちない空気が続いた。けれど、毎週顔を合わせ、共同作業に没頭するうちに、私たちはごく自然な友人になっていった。
彼は、見た目の華やかさとは裏腹に、驚くほど真面目で、物静かな人だった。いつも冷静に手順を分析し、誰よりも的確に実験を進めていく。一度、私がデータ整理で詰まっていると、「ここ、使うデータが違うかも」とさりげなく助けてくれたこともあった。
「…すごいね、よく気付いたね」
「小鳥遊さんの考察、いつも面白いなって思ってたから」
不意打ちの言葉に、心臓が跳ねた。彼と話す時間は、私が思っていたよりもずっと、穏やかで心地よかった。

ある日、実験器具を片付けている時、ふと彼の指先を見た。
幻かと思った。
彼の小指から、まだ光も弱く、頼りないほど細い糸が―――確かに、私に向かって伸びていた。
その瞬間から、私の心は決まっていたのかもしれない。

学期末、最後のレポートを提出し終えた日、私たちのグループは自然な流れで打ち上げをすることになった。
居酒屋の賑やかな雰囲気の中、彼が笑っているのを、私は少し離れた席から見ていた。実験室で見る真剣な顔とは違う、年相応の柔らかな表情。知らなかった一面を見るたびに、彼へと伸びる私の糸は、どんどん太く、強くなっていくのがわかった。

帰り道、駅へと向かう道で、偶然にも二人きりになった。並んで歩く間、どちらからともなく、たわいもない話をする。実験が大変だったこと。次の学期に面白そうな授業があること。
沈黙が訪れた、その一瞬だった。衝動的に、私の口から言葉がこぼれ落ちていた。
「前から気になってたんだけど、もしよかったら付き合わない?」
言ってから、血の気が引いた。平静を装った声は、ちゃんと出ていただろうか。冗談めかして聞こえていたら、まだ傷は浅いかもしれない。
彼は、歩みを止めて私を見た。驚いたような、でも、どこか優しい目をしていた。

「うん、付き合おうか」

時が、止まったようだった。
彼の指先から伸びていた、あの細く脆かった糸が、一瞬で鮮やかな光を放つ。そして、彼を微かに取り巻いていた他の誰かからの細い糸が、すぅっと消えていくのが見えた。
今、彼の指から伸びる糸は、私へと繋がる、強く確かな一本だけ。

嘘みたいだ、と思った。これが、現実なのだろうか。
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