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溺れるほどの赤
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彼との初デートは、どこかぎこちなく、それでいて夢みたいに楽しかった。
隣を歩く彼の小指から伸びる、鮮やかな赤い糸。それが確かに私の小指に繋がっているのを横目で見るたびに、私は「これは現実なんだ」と自分の頬をつねるのを堪えた。糸は、私の唯一の安心材料だった。
私たちは、ごく普通の恋人と同じように、時間を重ねていった。
映画館の暗闇で、そっと肩を抱かれた時。バイトで疲れている私を、何も言わずに家まで送ってくれた時。私がレポートに行き詰まっていると、夜遅くまで一緒に資料を探してくれた時。
そのたびに、彼から伸びる糸は輝きを増し、少しずつ、でも着実に、その太さを増していった。
夏休みに入る頃には、彼の糸はまるで頑丈なロープのようだった。
私が今まで見てきた、誰のどの糸よりも強く、深く、鮮やかな赤。それは私の理解の範疇をとうに超えていた。ただの「好き」という感情にしては、あまりに密度が濃く、色が深すぎる。彼のすべてが私に注がれているのだと、理屈抜きで理解させられるほどの力があり、その強すぎる繋がりは、私に恐ろしささえ覚えさせた。
けれど、私にはその「重さ」が、まだ理解できていなかった。
彼のくれる優しさも、糸が示す愛情の深さも、どこか他人事のように感じていた。それはきっと、私が彼の心ではなく、彼と繋がる『糸』という“確証”ばかりを見て、安心していたせいだ。彼の純粋な好意に対して、私はまるでズルをしているような罪悪感を覚えていた。
そんなある日、高校時代からの親友とカフェでお茶をしていた時のことだ。
「彼氏さん、本当に優しいよね。…ていうか、優しすぎない?」
親友が呆れたように言った。
「え、そうかな?」
「そうだよ! この前、あんたがポロッと『あの作家の新刊、気になるな』って言った次の日には、もう彼が買ってきてくれたんでしょ? 私がサークル終わりにあんたを誘おうとしたら、彼から『今日は彼女、課題で疲れてるから』って先に連絡が来たこともあるし…。なんか、あんたの行動、全部把握されてない?」
「考えすぎだよ。彼はただ、マメなだけだって」
「うーん…」親友は納得いかない顔をしていたが、私は気にも留めなかった。
彼が初めての彼氏だったから、恋人の「普通」がどんなものかなんて知らなかったし、なにより彼の愛情は、目の前にある“糸”が絶対的に証明してくれている。私にとっては、それだけで十分だった。
そんな歪んだ均衡は、些細なことで揺らぎ始める。
学食で、彼がサークルの女の先輩と親しげに話しているのを見かけた。胸がざわつく。すぐに彼の指先を見ると、私との糸が相変わらず力強く繋がっているのを確認して、ほっと胸を撫でおろした。先輩との間には、何の糸もない。
安心した、と思った直後、背筋が凍るような事実に気づいた。
(私、この糸がないと、安心できないんだ)
もし、この「確証」がなかったら? 私は、今みたいに笑っていられただろうか。彼のことを、信じていられただろうか。
今まで私を支えてくれていたはずの力が、いつの間にか、私の心を縛る鎖になっている。その事実に気づいてしまったら、もう前と同じ気持ちではいられなかった。
それからだった。彼と一緒にいる時、ふとした瞬間に、言いようのない不安に襲われるようになったのは。
彼への気持ちが冷めたわけじゃない。むしろ、日が経つほどに、彼を大切に思う気持ちは育っていた。
でも、その気持ちと同じ速さで、「糸に依存する自分」への嫌悪感も膨れ上がっていく。
ある日の夕方、大学からの帰り道。二人で並んで歩きながら、私はその日も、ほとんど病気のように彼の指先を盗み見ていた。大丈夫。今日も、糸はちゃんと繋がっている。そう、安堵しようとした、その時だった。
「―――え?」
思わず、声が漏れた。
何度も瞬きをする。けれど、現実は変わらない。
彼の小指から伸びていたはずの、あの恐ろしいほどに鮮やかだった赤い糸が。
忽然と、消えていた。
跡形もなく。まるで、初めから何もなかったかのように。
嘘でしょ…?
私の世界から、糸が消えた。
隣を歩く彼の小指から伸びる、鮮やかな赤い糸。それが確かに私の小指に繋がっているのを横目で見るたびに、私は「これは現実なんだ」と自分の頬をつねるのを堪えた。糸は、私の唯一の安心材料だった。
私たちは、ごく普通の恋人と同じように、時間を重ねていった。
映画館の暗闇で、そっと肩を抱かれた時。バイトで疲れている私を、何も言わずに家まで送ってくれた時。私がレポートに行き詰まっていると、夜遅くまで一緒に資料を探してくれた時。
そのたびに、彼から伸びる糸は輝きを増し、少しずつ、でも着実に、その太さを増していった。
夏休みに入る頃には、彼の糸はまるで頑丈なロープのようだった。
私が今まで見てきた、誰のどの糸よりも強く、深く、鮮やかな赤。それは私の理解の範疇をとうに超えていた。ただの「好き」という感情にしては、あまりに密度が濃く、色が深すぎる。彼のすべてが私に注がれているのだと、理屈抜きで理解させられるほどの力があり、その強すぎる繋がりは、私に恐ろしささえ覚えさせた。
けれど、私にはその「重さ」が、まだ理解できていなかった。
彼のくれる優しさも、糸が示す愛情の深さも、どこか他人事のように感じていた。それはきっと、私が彼の心ではなく、彼と繋がる『糸』という“確証”ばかりを見て、安心していたせいだ。彼の純粋な好意に対して、私はまるでズルをしているような罪悪感を覚えていた。
そんなある日、高校時代からの親友とカフェでお茶をしていた時のことだ。
「彼氏さん、本当に優しいよね。…ていうか、優しすぎない?」
親友が呆れたように言った。
「え、そうかな?」
「そうだよ! この前、あんたがポロッと『あの作家の新刊、気になるな』って言った次の日には、もう彼が買ってきてくれたんでしょ? 私がサークル終わりにあんたを誘おうとしたら、彼から『今日は彼女、課題で疲れてるから』って先に連絡が来たこともあるし…。なんか、あんたの行動、全部把握されてない?」
「考えすぎだよ。彼はただ、マメなだけだって」
「うーん…」親友は納得いかない顔をしていたが、私は気にも留めなかった。
彼が初めての彼氏だったから、恋人の「普通」がどんなものかなんて知らなかったし、なにより彼の愛情は、目の前にある“糸”が絶対的に証明してくれている。私にとっては、それだけで十分だった。
そんな歪んだ均衡は、些細なことで揺らぎ始める。
学食で、彼がサークルの女の先輩と親しげに話しているのを見かけた。胸がざわつく。すぐに彼の指先を見ると、私との糸が相変わらず力強く繋がっているのを確認して、ほっと胸を撫でおろした。先輩との間には、何の糸もない。
安心した、と思った直後、背筋が凍るような事実に気づいた。
(私、この糸がないと、安心できないんだ)
もし、この「確証」がなかったら? 私は、今みたいに笑っていられただろうか。彼のことを、信じていられただろうか。
今まで私を支えてくれていたはずの力が、いつの間にか、私の心を縛る鎖になっている。その事実に気づいてしまったら、もう前と同じ気持ちではいられなかった。
それからだった。彼と一緒にいる時、ふとした瞬間に、言いようのない不安に襲われるようになったのは。
彼への気持ちが冷めたわけじゃない。むしろ、日が経つほどに、彼を大切に思う気持ちは育っていた。
でも、その気持ちと同じ速さで、「糸に依存する自分」への嫌悪感も膨れ上がっていく。
ある日の夕方、大学からの帰り道。二人で並んで歩きながら、私はその日も、ほとんど病気のように彼の指先を盗み見ていた。大丈夫。今日も、糸はちゃんと繋がっている。そう、安堵しようとした、その時だった。
「―――え?」
思わず、声が漏れた。
何度も瞬きをする。けれど、現実は変わらない。
彼の小指から伸びていたはずの、あの恐ろしいほどに鮮やかだった赤い糸が。
忽然と、消えていた。
跡形もなく。まるで、初めから何もなかったかのように。
嘘でしょ…?
私の世界から、糸が消えた。
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