5 / 15
失われた確証
しおりを挟む
「―――え?」
思わず、声が漏れた。
何度も瞬きをする。けれど、現実は変わらない。
彼の小指から伸びていたはずの、あの恐ろしいほどに鮮やかだった赤い糸が。
忽然と、消えていた。
跡形もなく。まるで、初めから何もなかったかのように。
「どうした? 急に立ち止まって」
隣を歩いていた彼が、不思議そうに私の顔を覗き込む。私の世界から音が消え、彼の声だけが遠くで響いていた。急激に血の気が引いていくのが自分でもわかった。
「ごめん、ちょっと…体調悪いかも。先に、帰るね」
「え、大丈夫? 顔、真っ白だよ。家まで送るよ」
「ううん…平気。一人で帰れるから。また、学校で」
心配そうな彼を振り切るようにして、私はその場を走り去った。
帰り道、私はすれ違う人々を狂ったように目で追った。
腕を組んで歩くカップルを。楽しそうにおしゃべりする女子高生のグループを。ベビーカーを押す若いお母さんを。
誰も、何も、繋がっていない。以前ならそこにあったはずの、無数の感情の引力が見えない。世界から、色が消えてしまった。
家に帰った途端、私は震える手でテレビのスイッチを入れた。アイドルグループが歌っている。いつもなら、その指先からはファンやメンバーへの無数の糸が見えるはずなのに。何も見えない。
私の人生の一部だったはずの力が、本当に、完全に消えてしまった。
それからの日々は、まるで薄氷の上を歩いているようだった。
彼のくれる優しさは、何も変わらない。けれど、それを受け取る私の心は、もう以前とは違っていた。信じたい。でも、一度生まれた疑念は、確証を失った心をいとも簡単に蝕んでいく。
そして、決定的な出来事が起きた。
その日、少し離れた場所から、彼が歩いてくるのが見えた。声をかけようとした、その時だった。彼のすぐそばを通り過ぎようとした女の子が、派手に体勢を崩した。彼はとっさにその子の体を支えた。
遠目には、それがまるで、親密な恋人同士が抱き合っているかのように見えた。
その女の子を、私は知っていた。美しい容姿と内面の優しさで有名な人だ。学部も学年も違う私でも、噂で聞いたことがある。「綾辻くんとお似合いだよね」と、誰もが認めるような、太陽みたいな人。
すぐに二人は離れた。彼女が「ごめん、ありがとう!」と笑いかけ、彼も「全然、大丈夫?」と優しく笑い返している。それは、誰が見ても親切で、爽やかな光景だったはずだ。
でも、今の私には、そうは見えなかった。
以前の私なら、糸が見えていれば、そこに何の感情もないことは一目瞭然だった。
でも、今の私には、何もわからない。
あの時、二人の間に新しい糸が生まれたのかもしれない。いや、もしかしたら、私と別れたがっている彼の指先には、もうとっくに、彼女へと繋がる糸が生まれていたのかもしれない。
糸が見えていた時でさえ、私は彼の心を信じきれず、糸ばかりを見ていた。
見えなくなった今、信じられるはずがない。
私は、その場から逃げ出した。
もう、疲れた。期待して、不安になって、安心材料を探して、また疑って。そんな恋は、もう終わりにしたい。
その夜、スマートフォンが震えた。彼からのメッセージだった。
『今週末、会うの楽しみだね』
その、何の悪気もない明るい言葉が、今の私にはひどく残酷に思えた。
私は、深呼吸を一つして、返信を打つ。
『そうだね』
その日が、私たちの最後の日になる。
思わず、声が漏れた。
何度も瞬きをする。けれど、現実は変わらない。
彼の小指から伸びていたはずの、あの恐ろしいほどに鮮やかだった赤い糸が。
忽然と、消えていた。
跡形もなく。まるで、初めから何もなかったかのように。
「どうした? 急に立ち止まって」
隣を歩いていた彼が、不思議そうに私の顔を覗き込む。私の世界から音が消え、彼の声だけが遠くで響いていた。急激に血の気が引いていくのが自分でもわかった。
「ごめん、ちょっと…体調悪いかも。先に、帰るね」
「え、大丈夫? 顔、真っ白だよ。家まで送るよ」
「ううん…平気。一人で帰れるから。また、学校で」
心配そうな彼を振り切るようにして、私はその場を走り去った。
帰り道、私はすれ違う人々を狂ったように目で追った。
腕を組んで歩くカップルを。楽しそうにおしゃべりする女子高生のグループを。ベビーカーを押す若いお母さんを。
誰も、何も、繋がっていない。以前ならそこにあったはずの、無数の感情の引力が見えない。世界から、色が消えてしまった。
家に帰った途端、私は震える手でテレビのスイッチを入れた。アイドルグループが歌っている。いつもなら、その指先からはファンやメンバーへの無数の糸が見えるはずなのに。何も見えない。
私の人生の一部だったはずの力が、本当に、完全に消えてしまった。
それからの日々は、まるで薄氷の上を歩いているようだった。
彼のくれる優しさは、何も変わらない。けれど、それを受け取る私の心は、もう以前とは違っていた。信じたい。でも、一度生まれた疑念は、確証を失った心をいとも簡単に蝕んでいく。
そして、決定的な出来事が起きた。
その日、少し離れた場所から、彼が歩いてくるのが見えた。声をかけようとした、その時だった。彼のすぐそばを通り過ぎようとした女の子が、派手に体勢を崩した。彼はとっさにその子の体を支えた。
遠目には、それがまるで、親密な恋人同士が抱き合っているかのように見えた。
その女の子を、私は知っていた。美しい容姿と内面の優しさで有名な人だ。学部も学年も違う私でも、噂で聞いたことがある。「綾辻くんとお似合いだよね」と、誰もが認めるような、太陽みたいな人。
すぐに二人は離れた。彼女が「ごめん、ありがとう!」と笑いかけ、彼も「全然、大丈夫?」と優しく笑い返している。それは、誰が見ても親切で、爽やかな光景だったはずだ。
でも、今の私には、そうは見えなかった。
以前の私なら、糸が見えていれば、そこに何の感情もないことは一目瞭然だった。
でも、今の私には、何もわからない。
あの時、二人の間に新しい糸が生まれたのかもしれない。いや、もしかしたら、私と別れたがっている彼の指先には、もうとっくに、彼女へと繋がる糸が生まれていたのかもしれない。
糸が見えていた時でさえ、私は彼の心を信じきれず、糸ばかりを見ていた。
見えなくなった今、信じられるはずがない。
私は、その場から逃げ出した。
もう、疲れた。期待して、不安になって、安心材料を探して、また疑って。そんな恋は、もう終わりにしたい。
その夜、スマートフォンが震えた。彼からのメッセージだった。
『今週末、会うの楽しみだね』
その、何の悪気もない明るい言葉が、今の私にはひどく残酷に思えた。
私は、深呼吸を一つして、返信を打つ。
『そうだね』
その日が、私たちの最後の日になる。
2
あなたにおすすめの小説
貴方の幸せの為ならば
缶詰め精霊王
恋愛
主人公たちは幸せだった……あんなことが起きるまでは。
いつも通りに待ち合わせ場所にしていた所に行かなければ……彼を迎えに行ってれば。
後悔しても遅い。だって、もう過ぎたこと……
王女を好きだと思ったら
夏笆(なつは)
恋愛
「王子より王子らしい」と言われる公爵家嫡男、エヴァリスト・デュルフェを婚約者にもつバルゲリー伯爵家長女のピエレット。
デビュタントの折に突撃するようにダンスを申し込まれ、望まれて婚約をしたピエレットだが、ある日ふと気づく。
「エヴァリスト様って、ルシール王女殿下のお話ししかなさらないのでは?」
エヴァリストとルシールはいとこ同士であり、幼い頃より親交があることはピエレットも知っている。
だがしかし度を越している、と、大事にしているぬいぐるみのぴぃちゃんに語りかけるピエレット。
「でもね、ぴぃちゃん。私、エヴァリスト様に恋をしてしまったの。だから、頑張るわね」
ピエレットは、そう言って、胸の前で小さく拳を握り、決意を込めた。
ルシール王女殿下の好きな場所、好きな物、好みの装い。
と多くの場所へピエレットを連れて行き、食べさせ、贈ってくれるエヴァリスト。
「あのね、ぴぃちゃん!エヴァリスト様がね・・・・・!」
そして、ピエレットは今日も、エヴァリストが贈ってくれた特注のぬいぐるみ、孔雀のぴぃちゃんを相手にエヴァリストへの想いを語る。
小説家になろうにも、掲載しています。
もう何も信じられない
ミカン♬
恋愛
ウェンディは同じ学年の恋人がいる。彼は伯爵令息のエドアルト。1年生の時に学園の図書室で出会って二人は友達になり、仲を育んで恋人に発展し今は卒業後の婚約を待っていた。
ウェンディは平民なのでエドアルトの家からは反対されていたが、卒業して互いに気持ちが変わらなければ婚約を認めると約束されたのだ。
その彼が他の令嬢に恋をしてしまったようだ。彼女はソーニア様。ウェンディよりも遥かに可憐で天使のような男爵令嬢。
「すまないけど、今だけ自由にさせてくれないか」
あんなに愛を囁いてくれたのに、もう彼の全てが信じられなくなった。
蛇の噛み痕
ラティ
恋愛
ホストへ行かないかと、誘われた佳代は、しぶしぶながらもついていくことに。そこであった黒金ショウは、美形な男性だった。
会ううちに、どんどん仲良くなっていく。けれど、なんだか、黒金ショウの様子がおかしい……?
ホスト×女子大学生の、お話。
他サイトにも掲載中。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる