私の赤い糸はもう見えない

沙夜

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失われた確証

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「―――え?」

思わず、声が漏れた。
何度も瞬きをする。けれど、現実は変わらない。

彼の小指から伸びていたはずの、あの恐ろしいほどに鮮やかだった赤い糸が。
忽然と、消えていた。
跡形もなく。まるで、初めから何もなかったかのように。

「どうした? 急に立ち止まって」
隣を歩いていた彼が、不思議そうに私の顔を覗き込む。私の世界から音が消え、彼の声だけが遠くで響いていた。急激に血の気が引いていくのが自分でもわかった。
「ごめん、ちょっと…体調悪いかも。先に、帰るね」
「え、大丈夫? 顔、真っ白だよ。家まで送るよ」
「ううん…平気。一人で帰れるから。また、学校で」
心配そうな彼を振り切るようにして、私はその場を走り去った。

帰り道、私はすれ違う人々を狂ったように目で追った。
腕を組んで歩くカップルを。楽しそうにおしゃべりする女子高生のグループを。ベビーカーを押す若いお母さんを。
誰も、何も、繋がっていない。以前ならそこにあったはずの、無数の感情の引力が見えない。世界から、色が消えてしまった。

家に帰った途端、私は震える手でテレビのスイッチを入れた。アイドルグループが歌っている。いつもなら、その指先からはファンやメンバーへの無数の糸が見えるはずなのに。何も見えない。
私の人生の一部だったはずの力が、本当に、完全に消えてしまった。

それからの日々は、まるで薄氷の上を歩いているようだった。
彼のくれる優しさは、何も変わらない。けれど、それを受け取る私の心は、もう以前とは違っていた。信じたい。でも、一度生まれた疑念は、確証を失った心をいとも簡単に蝕んでいく。

そして、決定的な出来事が起きた。

その日、少し離れた場所から、彼が歩いてくるのが見えた。声をかけようとした、その時だった。彼のすぐそばを通り過ぎようとした女の子が、派手に体勢を崩した。彼はとっさにその子の体を支えた。
遠目には、それがまるで、親密な恋人同士が抱き合っているかのように見えた。

その女の子を、私は知っていた。美しい容姿と内面の優しさで有名な人だ。学部も学年も違う私でも、噂で聞いたことがある。「綾辻くんとお似合いだよね」と、誰もが認めるような、太陽みたいな人。

すぐに二人は離れた。彼女が「ごめん、ありがとう!」と笑いかけ、彼も「全然、大丈夫?」と優しく笑い返している。それは、誰が見ても親切で、爽やかな光景だったはずだ。
でも、今の私には、そうは見えなかった。
以前の私なら、糸が見えていれば、そこに何の感情もないことは一目瞭然だった。
でも、今の私には、何もわからない。
あの時、二人の間に新しい糸が生まれたのかもしれない。いや、もしかしたら、私と別れたがっている彼の指先には、もうとっくに、彼女へと繋がる糸が生まれていたのかもしれない。

糸が見えていた時でさえ、私は彼の心を信じきれず、糸ばかりを見ていた。
見えなくなった今、信じられるはずがない。

私は、その場から逃げ出した。
もう、疲れた。期待して、不安になって、安心材料を探して、また疑って。そんな恋は、もう終わりにしたい。

その夜、スマートフォンが震えた。彼からのメッセージだった。
『今週末、会うの楽しみだね』
その、何の悪気もない明るい言葉が、今の私にはひどく残酷に思えた。
私は、深呼吸を一つして、返信を打つ。

『そうだね』

その日が、私たちの最後の日になる。
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