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最後の言葉
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約束の週末、私たちは最近リニューアルされたばかりの水族館へ向かった。
新しい服を着て、髪を巻いて、お気に入りのリップを塗る。隣を歩く彼に「似合ってる」と褒められても、私の心は静かな湖の底に沈んでいるみたいに、重く、冷たかった。
薄暗い館内、巨大な水槽の青い光が私たちの顔を照らす。幻想的な空間とは裏腹に、私の心は少しも晴れない。すぐ近くにいた女子大生のグループが「ねえ、あの人めっちゃかっこよくない?」と囁き合っているのが聞こえた。視線が、私の隣にいる彼に何度も注がれる。
「わ、クラゲすごい…」
ドーム状になった天井一面が水槽になっているエリアで、私たちは足を止めた。無数のミズクラゲが、青い光の中で傘を開いたり閉じたりしている。その非現実的な光景に、二人で心を奪われていた、その時だった。
「あの、すみません…」
緊張した声で、彼に話しかけてきたのは、先ほどの女子大生グループの一人だった。他の子たちは、少し離れた場所から固唾を呑んで見守っている。
角度的に、彼女たちの視界に私は入っていないようだった。まるで、私がそこに存在しないかのように、会話は進んでいく。
「よかったら、連絡先とか…」
彼が困ったように、どう断ろうかと言葉を探しているのがわかった。彼が私の方に体を向け、「彼女がいるので…」と言いかけた瞬間、女の子たちはようやく私の存在に気づいた。
「「「え…」」」
彼女たちの顔が、さっと青ざめるのが見えた。声をかけてきた子が、小さな声で尋ねる。
「か、彼女さん…ですか…?」
「はい」と彼が答える前に、私は無理やり笑顔を作ってみせた。女の子たちは「すみませんでした!」と一目散に逃げていった。
一瞬の静寂が、気まずく流れる。
彼が「ごめん、なんか…」と気まずそうに謝ってくる。
「ううん。……モテるね」
自分でも驚くほど、ぎこちない声が出た。以前の私なら、糸が見えていれば、笑って「大変だね」とからかう余裕があったはずだ。でも、今の私には、彼の心を確かめる術がない。
その一言を最後に、水族館を出るまで、私たちの間の空気は、深海の水みたいに重く、冷たかった。
「…どこか、カフェでも入らない? 少し、話したい」
外に出て、私の方からそう切り出した。私の異変に、彼ももう気づいているのだろう。私たちは近くのカフェに入り、窓際の席に向かい合って座った。運ばれてきたコーヒーに、二人ともなかなか口をつけられない。
テーブルの上で、カップを握りしめる。
「ねえ、大事な話があるんだ」
彼の顔から、表情が抜け落ちていくのを、私はただ見ていることしかできなかった。
「ごめん。…別れたい」
自分の声が、店内のBGMにかき消されそうなくらい、か細く震えていた。
「……え? 待って、どうして? 僕、何かしたかな」
「ううん、理人は何も悪くないの。全部、私の問題だから」
「問題って、何…? さっきの水族館でのこと? あれは本当に…」
彼は必死に、私が不安に思う原因を探ろうとしてくれていた。その優しさが、今は何よりも辛かった。
私は、力なく首を振った。
「違うの。本当に、私の問題なの。ごめん」
それ以上、何も説明できない私を、彼はしばらく黙って見つめていた。やがて、諦めたように、小さく息を吐いた。
「……わかった」
その声は、ひどく、掠れていた。
私たちは無言で席を立ち、店の外へ出た。冷たい空気が肌を刺す。
「家まで送るよ」
「…大丈夫」
「じゃあ…また学校で」
「……うん」
それが、私たちの最後の言葉になった。
背を向けて、駅の方向へと歩き出す彼の背中が、雑踏の中に消えていくのを、私はずっと見ていた。
一人、帰り道を歩く。
涙は出なかった。ただ、胸にぽっかりと、大きな穴が開いてしまったようだった。
どうして、こうなってしまったんだろう。
大好きだった。今だって、きっとまだ好きなのに。
その時、ふと、気づいてしまった。
私は、彼の何が好きだったんだろう。彼がくれた優しさ? それとも、彼がくれる安心感?
違う。私が一番安心していたのは、彼と繋がる、あの強くて鮮やかな「糸」が見えていた時だ。
彼が私を好きだという、絶対的な証拠。
結局、私は彼自身を見ていなかった。
見ていたのは、ただの「糸」だったんだ。
その事実に気づいた時、ようやく私の頬を、冷たい涙がひとすじ、伝った。
新しい服を着て、髪を巻いて、お気に入りのリップを塗る。隣を歩く彼に「似合ってる」と褒められても、私の心は静かな湖の底に沈んでいるみたいに、重く、冷たかった。
薄暗い館内、巨大な水槽の青い光が私たちの顔を照らす。幻想的な空間とは裏腹に、私の心は少しも晴れない。すぐ近くにいた女子大生のグループが「ねえ、あの人めっちゃかっこよくない?」と囁き合っているのが聞こえた。視線が、私の隣にいる彼に何度も注がれる。
「わ、クラゲすごい…」
ドーム状になった天井一面が水槽になっているエリアで、私たちは足を止めた。無数のミズクラゲが、青い光の中で傘を開いたり閉じたりしている。その非現実的な光景に、二人で心を奪われていた、その時だった。
「あの、すみません…」
緊張した声で、彼に話しかけてきたのは、先ほどの女子大生グループの一人だった。他の子たちは、少し離れた場所から固唾を呑んで見守っている。
角度的に、彼女たちの視界に私は入っていないようだった。まるで、私がそこに存在しないかのように、会話は進んでいく。
「よかったら、連絡先とか…」
彼が困ったように、どう断ろうかと言葉を探しているのがわかった。彼が私の方に体を向け、「彼女がいるので…」と言いかけた瞬間、女の子たちはようやく私の存在に気づいた。
「「「え…」」」
彼女たちの顔が、さっと青ざめるのが見えた。声をかけてきた子が、小さな声で尋ねる。
「か、彼女さん…ですか…?」
「はい」と彼が答える前に、私は無理やり笑顔を作ってみせた。女の子たちは「すみませんでした!」と一目散に逃げていった。
一瞬の静寂が、気まずく流れる。
彼が「ごめん、なんか…」と気まずそうに謝ってくる。
「ううん。……モテるね」
自分でも驚くほど、ぎこちない声が出た。以前の私なら、糸が見えていれば、笑って「大変だね」とからかう余裕があったはずだ。でも、今の私には、彼の心を確かめる術がない。
その一言を最後に、水族館を出るまで、私たちの間の空気は、深海の水みたいに重く、冷たかった。
「…どこか、カフェでも入らない? 少し、話したい」
外に出て、私の方からそう切り出した。私の異変に、彼ももう気づいているのだろう。私たちは近くのカフェに入り、窓際の席に向かい合って座った。運ばれてきたコーヒーに、二人ともなかなか口をつけられない。
テーブルの上で、カップを握りしめる。
「ねえ、大事な話があるんだ」
彼の顔から、表情が抜け落ちていくのを、私はただ見ていることしかできなかった。
「ごめん。…別れたい」
自分の声が、店内のBGMにかき消されそうなくらい、か細く震えていた。
「……え? 待って、どうして? 僕、何かしたかな」
「ううん、理人は何も悪くないの。全部、私の問題だから」
「問題って、何…? さっきの水族館でのこと? あれは本当に…」
彼は必死に、私が不安に思う原因を探ろうとしてくれていた。その優しさが、今は何よりも辛かった。
私は、力なく首を振った。
「違うの。本当に、私の問題なの。ごめん」
それ以上、何も説明できない私を、彼はしばらく黙って見つめていた。やがて、諦めたように、小さく息を吐いた。
「……わかった」
その声は、ひどく、掠れていた。
私たちは無言で席を立ち、店の外へ出た。冷たい空気が肌を刺す。
「家まで送るよ」
「…大丈夫」
「じゃあ…また学校で」
「……うん」
それが、私たちの最後の言葉になった。
背を向けて、駅の方向へと歩き出す彼の背中が、雑踏の中に消えていくのを、私はずっと見ていた。
一人、帰り道を歩く。
涙は出なかった。ただ、胸にぽっかりと、大きな穴が開いてしまったようだった。
どうして、こうなってしまったんだろう。
大好きだった。今だって、きっとまだ好きなのに。
その時、ふと、気づいてしまった。
私は、彼の何が好きだったんだろう。彼がくれた優しさ? それとも、彼がくれる安心感?
違う。私が一番安心していたのは、彼と繋がる、あの強くて鮮やかな「糸」が見えていた時だ。
彼が私を好きだという、絶対的な証拠。
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見ていたのは、ただの「糸」だったんだ。
その事実に気づいた時、ようやく私の頬を、冷たい涙がひとすじ、伝った。
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