私の赤い糸はもう見えない

沙夜

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空っぽの心

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彼と別れてから、世界から色が消えた。
いや、元々、私にしか見えていなかった色だ。世界は何も変わっていない。ただ、私の心が空っぽになってしまっただけ。
大学の講義も、サークルの集まりも、ただ時間が過ぎるのを待つだけの、味気ない作業に変わった。

別れてから一度だけ、キャンパスで彼の姿を遠くから見かけた。
彼は一人ではなかった。いつもみたいに、男女数人の友人に囲まれて、楽しそうに笑っていた。その輪の中には、以前彼がキャンパスで助けていた、あの綺麗で有名な彼女の姿もあった。やっぱり、隣に並ぶとすごくお似合いだった。
彼の笑顔は、以前と何も変わらないように見えた。
それを見た瞬間、胸が息苦しくなった。私がいなくても、彼の世界は何も変わらずに回っていく。当たり前のことなのに、その事実がナイフのように突き刺さった。彼を傷つけたのは私のはずなのに、みじめなのは、私だけみたいだった。
私はとっさに踵を返し、その光景から逃げ出した。

そんな無気力な日々の中、唯一、何も考えずにいられるのが塾講師のアルバイトだった。生徒に勉強を教えることだけに集中していれば、余計な感傷に浸る時間はなかったから。

「先輩、最近元気ないですね。なんかありました?」
休憩中、缶コーヒーを差し出してきたのは、バイトの後輩の村田 雄大むらた ゆうだいくんだった。いつも明るくて、少しだけ騒がしい、人懐っこい男の子。
「ううん、別に。ありがとう」
「そうですか? ならいいんですけど…。あ、これ、新発売のヤツなんで!」
彼はそれ以上何も聞いてこなかった。ただ、それからも会うたびに「疲れてます?」と声をかけてきたり、他愛もない話で笑わせようとしてきたりした。その裏表のない優しさは、正直少しだけ、乾いた心に染みた。

別れてから、3ヶ月が経った頃だった。
バイトの帰り道、彼が「少しだけ、話いいですか」と私を呼び止めた。
駅までの道すがら、彼は珍しく少し緊張した様子で、何度も言葉を選んでいるようだった。そして、公園の前で意を決したように、私に向き直った。
「俺、先輩のことが好きです。もしよかったら、付き合ってください」

まっすぐな瞳だった。
私の頭は、驚きで真っ白になった。恋愛なんて、もうこりごりだった。というより、あの別れを経験してから、誰かを「好き」になるという感覚が、よくわからなくなっていたのだ。
かつて私にとって「好き」とは、目に見える赤い糸のことだった。その絶対的な基準がなくなった今、恋愛感情というものが、自分の心の中から見つけられなくなっていた。

この空虚を、誰かが埋めてくれるのなら。
寂しいとすら感じなくなったこの心を、誰かが揺さぶってくれるのなら。
そうすれば、私はまた、前に進めるのかもしれない。

それは、あまりにも不誠実で、身勝手な考えだった。
「……うん。お願いします」
私の口からこぼれたのは、そんな、力のない返事だった。

目の前で、後輩が「ほんとですか!」と太陽みたいに笑う。
その笑顔を見ても、私の心はまだ凪いだままだった。
けれど、と思った。

今はまだ、何もわからないけれど。
このまっすぐな好意を受け止めているうちに、私もいつか、彼のことを好きになれるのかもしれない。
“糸”になんて頼らなくても、ちゃんと、自分の心で。
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