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しおりを挟む隣人のセックスを盗み聞きして欲情している自分を知ったら、別れた妻と息子はどんな反応をするだろうか。きっと反応に困るに違いない。
息子はまだ十二歳ぐらいだが、最近の子どもはませていると聞くので、大人顔負けの反応を見せるかもしれない。
そうやって彼等のことを想像することで、辛うじて隣人の行為のことを頭から追い出さないと、ただでさえ遅い仕事がいつも以上に滞ってしまう。
浅原信政、三十六歳。三十歳で離婚し、バツイチ。
子持ちだが子どもは別れた妻の元にいて、連絡を取っていない。現在独り身の寂しい人生を送っている。
枯れた中年のオヤジとして、このまま誰とも添い遂げることもなく、年老いて死んでいくだけだと思っていた。
それが、このところは少しばかり事情が変わっている。
もっとも、独り身だということには変わりはないのだが、気が付くと隣人の物音に耳を澄ますのが習慣化しており、少しでもそれらしい音を拾うと若い頃のように自慰行為をするようになった。
それも、一体どういう仕組みなのか、まるで自分がその行為をしている当事者のように、いや、それ以上に興奮を覚えてしまい、それに伴って体の感度が増してしまったようだ。
気を抜くと日中までそのことが脳内を支配し始め、仕事だけではなく日常生活までままならなくなりかけてしまうので、もはや中毒者の域だ。
この年になるまで、浅原は特異な性癖など持ったことがなかった。
ましてや、窃視ならぬ窃聴というのだろうか、このように人の行為を覗き見たり聞いたりして興奮を覚えた経験などなかった。
一体何が原因なのか。それを探るまでもなく、答えは既にあるように思われた。
ただひたすらに、あの低い方の男の声が聞きたい。それが我を失うほど乱れ、欲にまみれていればなおいい。それだけだった。
これが恋と呼ぶほど綺麗なものではないと知りながらも、浅原は身の内を焦がすような浅ましい欲求に逆らえず、何度も何度もその瞬間を待ちわびた。
そのためならば、どんなに周囲から罵られようとどうでもよかった。
「浅原、君は頼んだ仕事をどれだけ待たせるんだ。見ていてイライラするよ」
上司が浅原に例の如く怒りをぶつけてくる。
「浅原、また怒られてる。いい加減にしてほしいよね。こっちにまで火の粉が飛んでくるんだから」
同僚が陰口を叩いている。これももはや恒例行事だ。
しかし浅原はいつも胃痛を覚えるそれらのことを、このところは頭の中を支配する欲求を抑え込むことに精いっぱいで、何から何まで右から左だ。
入社当時から大して変わらない立場で、周囲から押し付けられるのは雑用ばかり。倉庫の整理だけで一日を終えることも多々あったが、今はそれがむしろありがたい。
なにしろ、気を抜くと口元が自然と緩んでしまうか、頻尿を堪えるように内股にもじもじと擦りつけないといけなくなるほど、思春期かそれ以上に勃ちやすくなってしまったのだ。
それが若いうちならまだしも、浅原のような見た目も冴えない中年オヤジがそうなると、ただの変質者だ。
さすがにそれを判断する程度の理性や常識は持ち合わせていたので、人前で裸になるなど、逮捕されるほどの奇行にまで及ぶことはないのだが、陰口が別の意味で冷ややかに聞こえることもある。
そして、浅原の忍耐もそろそろ限界まできていた。
「浅原さん」
「ひっ」
昼休みに入る間際のことだ。いつものように机に積み上げられた会議書類を年度順に並び替える作業を押し付けられ、専念するように自己暗示をかけていた時、耳元で囁くように呼ばれる。
大げさに飛び上がって振り向くと、唇が触れ合いそうなほど間近に秀麗な男の顔があった。
「ひどいなあ。悲鳴まで上げなくても」
「か、鹿島君。ち、近い」
「え。これぐらい、いつもの距離でしょ。俺はゼロ距離にしたいぐらいなのに」
言いながら、鹿島柊介は悪戯っぽく笑いながら浅原の脇腹をなぞった。
「やっ、やめっ」
二十代後半に差し掛かったぐらいの同僚の鹿島は、どういうつもりなのかこうしてしばしば必要以上に接近して、浅原に過剰なスキンシップを仕掛ける。
見た目も中身も浅原とは正反対で、交友関係も広い鹿島が何故浅原に絡むのか、誰もが等しく疑問に思う。
そして彼にとってはこのくらい挨拶代わりだと分かってはいるのだが、なにしろタイミングが悪かった。
脳内で勝手にリプレイしていた隣人の行為が鮮やかに妄想を伴って蘇り、鹿島のくすぐる手の感触が敏感になっている肌を刺激するだけで、あらぬ声を上げてしまった。
「んぁっ」
もっとも、それは三十を過ぎた中年が発する気味の悪い雑音だったに違いない。咄嗟に手で口を押さえたが、間に合わなかった。
「浅原さん、今」
間近で驚愕に目を丸くする鹿島と目が合った。
「な、何でもない。ちょっと疲れているんだ。きゅ、休憩に行ってくる」
ちょうど昼時を知らせる鐘が鳴り、ざわつきがフロアに満ちてきていたので、それに紛れてそそくさと流れに乗った。ところが。
「浅原さん、待って。弁当忘れてる」
言われて振り返ると、鹿島が勝手に浅原のカバンを見たのか、手に見慣れた風呂敷包みを持ってついてきていた。
「あ、ああ。ありがとう」
素直に礼を述べてもらおうとすると、鹿島はそれを背中に隠した。
「な、何で」
「俺、浅原さんの手料理食べたいなあ。お金忘れたんだよなあ」
「………」
わざわざ中年の冴えないオヤジの手料理を食べなくとも、鹿島はいくらでも若くて綺麗な女たちから恵んでもらえそうなのだが。
それが顔に出ていたのか、はたまた迷惑そうに見えたのか、鹿島はにやりと笑って言った。
「浅原さんのさっきのアレと、最近態度がおかしい理由を洗いざらい吐いてもらいましょうか」
「分かりました。弁当ぐらいいくらでもあげましょう」
弱みを握られている以上、断る理由はなかった。
鹿島が小躍りでもしそうなほどうきうきと先に立って歩き出す。
溜息を噛み殺しながら後を追いかけ、鹿島に何と説明すべきか、それとも弁当を全て捧げて黙ってもらうか計算をしていた。
鹿島が浅原を連れて向かった先は、エアコンの効いた誰もいない会議室だった。
使う予定がない日は自由に休憩場所に使っていいことになっているが、実際に休憩目的で使っている社員は少ないように思う。
浅原が後について入ると、何を思ってか、鹿島は浅原の背後に回って会議室の鍵を閉めた。
多少疑問が浮かんだが、これからする話はあまり聞かれたくない類のものなので、鹿島なりの配慮なのだろうかと思えばむしろありがたい。
「さあ、浅原さん。そこに座ってください。まずは事情聴取といきましょう」
「は、はあ」
鹿島は取調室の警官でも気取っているのか、妙にかしこまった動作と口調で浅原に椅子を勧めてくるので、どう反応すべきか戸惑う。
そして、椅子に腰かけると、空気に呑まれてしまい、さながら警察に捕まった犯人のような心境で話していた。
「なるほど……」
話している最中、特に隣人の男のうち片方の声の話をすると、鹿島の目つきが鋭くなったように思ったが、それも演出の一つかもしれなかった。
実際、話し終えてから鹿島の反応を窺うと、それは消え去って妙に生き生きとし出していた。
「か、鹿島君?」
ずいと眼前に迫った美貌に目が眩みかけた時、鹿島は子どものような無邪気な笑顔で言った。
「よし、俺もそれ聞きに行く」
「は、え?ちょっ」
「そうと決まれば、善は急げ。まずはいただきます。ほらほら、浅原さんも半分食べて」
鹿島に勧められるまま、自分の弁当のきっちり半分をもらいながら、予想外の展開についていけない。
ようやく事態の重大さに思い当たって反論やら何やらで説得しようとしても、鹿島は聞く耳を持たなかった。
こうなれば腹をくくるより他ないのだ。と、何とか自分を奮い立たせた時には、昼休みどころか仕事の終わりを迎えていた。
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