軍艦乗りの献立表─海軍主計科こぼれ噺─

春蘭

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第十一週「ポーク・カツレツ」

(49)舷門とは艦の玄関

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 昭和六年三月十八日。重巡「古鷹」を含む第五戦隊は、短期の習熟訓練を終えて無事、呉に入港した。





「来週の魚の照り焼きはポーク・カツレツになったで、鶴さん」

 などとのたまったのは、重巡「古鷹」で主計長を務める主計少佐、鷹山睦郎だ。そしてそれを聞いて愕然としたのは、向かいの席に座っている機関長の鶴田翔一中佐だった。

「え……な、なんでまた?」
「いやん。一寸ちょっと最近魚が続いたし、たまには豪勢に肉でもと思たんやけどなぁ……牛肉がちょぉ高かったさかいに、百歩くらい譲って豚肉になってん」

 ここは士官食堂。そして今は昼食後で、次の課業開始まで少しだけ空いた貴重な時間である。
 そんな貴重な昼休み。なぜこんな話になったのかと言うと、今日の昼食が伊勢海老のコロッケだったからだ。
 さすがは、士官は貴族である英国海軍を手本にして作られた帝国海軍の士官だけのことはある。コロッケに限らず、士官食には大抵伊勢海老が出てくるもの。

 日本海軍では士官と兵との間には絶対的な隔たりがあり、その壁は栄光の海軍終焉の時まで決して無くなることは無かった。
 生活居住区はもちろん、食事の内容から厠の場所まで。全てが士官用と兵用で別れており、潜水艦でもない限りは両者が行き来することなど無い。
 兵から叩き上げで士官となった特務士官は、本チャン卒の俊英からは士官として見られなかった。など、有名な話も散見されている。

 後世での評価はともかく、海軍は徹底した学歴主義であるのだ。士官と兵の間には絶対的な壁があり、両者が対等な立場であることはまず無い。その辺りはモデルとなった英国海軍の悪い所も受け継いでしまったのだろう。

 そして問題は士官と兵の間だけでなく、士官同士の間にも当然存在していた。
 基本的に海軍の中では、全てにおいて海軍兵学校を卒業した兵科将校が優先される。例え話なのだが、もしも戦闘中に兵科の少尉と軍医科の大佐を除いて、艦内にいる士官が全員戦死したとして。この場合は誰に艦の指揮権が移るのかと言われたら、軍医科の大佐ではなく兵科の少尉になるのが正解。
 階級で言えば軍医科の大佐の方が当然高いが、軍医科には戦闘指揮権は無い。なので、この場合は経験が少なかろうが任官したての青二才だろうが、兵科少尉に艦の命運が託されることとなるのだ。

 海軍内での軋轢については海軍機関科問題で調べたらいくらでも出てくるが、どこの国も似たようなものである。兵科に機関科、主計科、軍医科、造船科……同じ士官でも、将校と将校相当官との間には深い溝があるもの。むしろ、それらの垣根を越えて深い関係を築いている今の「古鷹」が珍しいだけなのだ。

 この辺りは陸軍も似たようなものであるが、それでも海軍は陸軍よりも厳しい面があった。それが、兵学校の卒業時席順。いわゆるハンモックナンバーのことである。
 陸軍では、同期の中で常に優先されるのは「陸軍大学を卒業した奴」なのだ。たとえ士官学校での成績が首席でなくとも、陸軍大学さえ卒業すれば一気に右翼に躍り出ることになる。次に優先されるのが陸大内部での成績で、陸軍の将校はそれに準じて優先度が変動した。

 対する海軍はと言えば、陸軍のように海軍大学を卒業しても席順が変動することは無い。海軍では兵学校卒業時の成績こそが全てであった。
 つまりそれは、最初で躓いたら二度と挽回できないことを意味している。良く言えば合理的なのだろうが、それでも厳しいことに違いはない。

 そんな熾烈を極める学歴至上主義を勝ち残り、今彼らはここにいる。

「はあ……そりゃまあ、判ったんだがな。なんでまた豚肉なんだ。鶏でも良かったんじゃないかい?」
「鶏肉より豚肉の方が満足度が高いからやで、鶴さん。最近は季節の境目で体調も崩しやすいしなぁ。士気もどーしても下がるやろ。せやからせめて飯くらいは満足度を上げとかなアカンと思てな……」
「あー、なるほどね」

 牛肉は高くて仕入れにくい、そして鶏肉では満足度はそんなに高くは無い。魚ならなおさら。ただでさえ最近「古鷹」ではやたらと魚が出ていたような気がするので、余計に出しにくかったのだろう。
 なので、妥協に妥協を重ねて豚肉。ポーク・カツレツの出番である。

「ところでよぉ、睦さんや」
「はいはい、なんですやろ」
「ポーク・カツレツって、あれだよな。豚肉にパン粉の衣を付けてサクッと揚げるやつだよなぁ」

 豚肉は筋を切り、包丁で叩いておくと肉が柔らかく揚がってくれる。カツレツを揚げる時は、時間が許せば二度揚げするのが吉だろう。
 一回目は低温で中までじっくり火を通し、二回目は高温でサクッと揚げる。そうすれば中から肉の旨味がふわっと溢れ、そして皮はサクサク。味、食感、どちらもしっかりしたカツレツの出来上がりである。

「うん、せやで」
「ずーっと前から思ってたんだけどな。それ、ただのトンカツなんじゃ」
「ポーク・カツレツどす」

 瞬間、睦郎からの思わぬ切り返しが届いて鶴田はピシッと固まった。

「…………」
「…………」

 沈黙。両者、一歩も譲る気配はない。
 豚肉にパン粉の衣を付けて揚げた料理、それはトンカツに他ならないのではないだろうか。なぜビーフ・カツレツに倣ってポーク・カツレツとわざわざ言い直す必要がある。普通にトンカツと言ってしまえば良いのでは。

「いや、絶対にトンカツ」
「ポーク・カツレツどす」

 めげずに進言してみた鶴田だったが、睦郎の方も負けてはいない。鶴田の主張をバッサリ切り捨てた。
 だが、鶴田の方も負けてはいない。やはり豚肉を使用するカツレツなど、トンカツ以外の何物でも無い気がするのだ。
 だいいち、なぜポーク・カツレツなどと文字数の多い名称を使う。トンカツの方が短くて良いではないか。

「トンカ」
「ポーク・カツレツ」

 また被った。睦郎としては、なんとしてでもあれをトンカツではなくポーク・カツレツと呼びたいようだ。
 理由は定かでは無いが、どうせ「陸軍があれをトンカツと呼んでいるから」だとかそういうものだろう。なぜかここ最近になって急に陸軍を敵視し始めた睦郎のことだ。そのくらいはありそうである。まあ、陸軍というより陸軍にいる某工兵将校のことが、と言った方が正確だろうが。

「はあ……強情だなぁ、あんたも」
「ポーク・カツレツどす」
「それ以外になんか言えんのかね。もう良いよ……まっったく。ポーク・カツレツな。判った判った」

 あまりにもしつこい睦郎に、とうとう鶴田は根負けした。あれはトンカツではなくポーク・カツレツ。そう自分に言い聞かせてやる。

「ポーク・カツレツ」
「ポーク・カツレツ」
「あのぅ……主計長。少々よろしいでしょうか」

 確認するように二人で復唱を始めた瞬間、突然横から第三者の声がかけられた。
 睦郎が訝しげにそちらに視線を向けると、そこには主計科の長島中尉の姿が。

「あ。この間、おれと事務室を放ってポーカーやっとった長島くんやん」
「その件についてはもう謝ったでしょう。掘り返すのは止めてください」

 その件とはあれのことだ。この長島がつい先日、残業中にこっそり事務室を抜け出して、瀧本を初めとしたコレス連中と一緒にポーカーをやっていた件のことだ。
 彼らが賭けていたのは金銭ではなくキャラメルではあったため、それ自体に問題は無かった。だが、その後がいけなかった。
 あの後、赤岡と瀧本の制止を振り切った睦郎が例の妖怪のような表情で長島を追いかけ回したのだ。そのせいで二人は雁首揃えて副長からの大目玉を喰らう羽目になった。ほぼ自業自得なのだが。

「オレも反省しましたし、主計長共々副長から大雷を落とされて決着は着いたでしょうに」

 はあ、とため息。反省しているのは本当らしい。言葉はともかく、態度からは悪戯がバレて叱られた後のガキのような感情が読み取れる。
 副長からの雷を正座しながら半べそで受けている主計少佐と主計中尉の姿は、さぞかし情けない光景だっただろう。なお、余談だがこの一件を後に聞いた艦長はしばらく腹が捩れるほど笑っていたそうだ。
 それで許されたのかは知らないが、その副長からの大雷以外には特に二人へ何か沙汰が下ることはなかった。

「あぁ、はいはい。あれはおれも大人気ない反応やったわ。すまんなぁ」
「はあ……別にもう気にしていませんよ」
「そんで、何の用事や」

 長島はなぜわざわざ上官の会話を遮ってまで声をかけたのだろうか。本題を聞こうと姿勢を正す。
 すると、長島はどうしたのだろうか。困ったように眉を下げながら、睦郎にすがるような声を絞り出す。

「実は少々ばかりか困ったことが起きまして……」
「困ったこと?」
「そうです。あれはもう、口で説明するよりも直接見て貰った方が早いと思いますので舷門まで来て頂けないでしょうか」
「なに?」

 舷門まで来いとはどういうことだ、と睦郎は首を傾げて考え込む。
 何を考えているのかイマイチ読めない長島が、ここまで困ったような表情で請願しているのだ。きっとただ事ではないだろう。

 ほんの少しだけ考えて、睦郎は「判った」と椅子から立ち上がった。

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