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第一章 サイレント・マドンナ
第十二話 別離
しおりを挟む三時限目が始まった頃だろうか、千八百人以上の生徒が居るとは思えないほど授業中の学校は静かだ。
教室には戻らず体育館の横を抜けると、そこだけが学校中の雑音を集めたかのように騒がしい。一瞬の喧騒が過ぎると旧校舎がひっそり佇む。
昇降口でスリッパに履き替え部室までの廊下を歩くと、昼間だというのに薄暗く足音だけが響き渡る。昼夜を分かたず寂しい場所だが不思議と居心地は悪くなかった。
一年と二週間通った竹ヶ鼻商店街歴史文化研究部の部室に入り蛍光灯のスイッチを入れると、カラカラと音を立て明かりが灯る。部屋の明るさはスイッチを入れる前と殆ど変わりない。
愛用していた席に着き、引き出しから封筒と便箋を取り出す。B5サイズの便箋に、たったの一行文字をしたためた。
『一身上の都合により退学願います』
正しい退学届の書き方など知らないが、こんな感じでよかろう。四つ折にして封入し、表にマジックで大きく『退学届』と書く。我ながらなかなかの達筆だ。
封筒をブレザーの内ポケットに入れ、部室を出た。
理事長室に行く途中で、駐車場に止められたシルバーのセダンを確認する。俺が物心付いた頃からジジイはあの車に乗っていた。余程気に入っているのか、それとも車に然程興味が無いのか、多分後者だろう。
大仰なドアの前で深呼吸をする。ジジイが簡単に俺の自主退学を許す筈が無い。だが、俺にも譲れないことはある。
もう一度大きく息を吸い込みゆっくりと吐き出す。ノックをしてドアを開くと、窓からグラウンドを眺めていたジジイが首から上だけをこちらに向けた。
「授業はどうした」
「授業よりも大切な話がある」
「高校生に授業より大切なものなんて無い」
そう言って顎でソファーを指すと、ノシノシと歩きドスンと腰を下ろす。俺も向かいのソファーに座った。
「今、北条のところに行ってきたよ」
「・・・そうか」
「あいつは壊れかけている。救ってやりたい」
ジジイの顔を見たまま懐から封筒を取り出し、テーブルの上に差し出した。
「何だ、これは」
退学届けを一瞥して俺を睨みつける。
「北条は奪われ続けたんだ。母親を奪われ、愛情を奪われ、貞操を奪われた。そして今、居場所まで奪われようとしている。あいつに言われたよ。俺の居る学校は地獄だって。自分の過去を知る生徒が居る学校になんて行けない、俺の顔なんて見たくないって」
ジジイは俺を睨みつけたまま微動だにしない。
俺はテーブルに両手を付け、頭を下げて懇願した。
「頼む、この通りだ。俺の自主退学を認めてくれ。高校は中退しても、大検を取ってちゃんと大学には進学する」
ジジイは腕を組んだまま言葉を発しない。
「あいつばかりが何故奪われ続けなきゃならないんだ。何故大人は奪う。せめて・・せめて俺くらいは奪わずにいてやりたい。頼む。頼むよ」
譲れない。これだけは譲れない。北条を救う。その為なら俺に出来ることは全てやると決めたのだ。
「大人は奪う・・・か」
そう呟くと、ジジイは退学届けをジャケットの内ポケットに入れ、深く嘆息した。
「頭を上げろ」
「いいのか」
「条件が二つある」
俺はテーブルに手を付いたまま首肯する。
「大学には必ず進学しろ。その為の勉強を決して怠るな」
「わかった、約束する。もう一つは」
「北条志摩子が学校に戻ること。彼女がこの学校にもう一度通えるようにならなければ、この話は無効だ」
許された。これで北条に居場所を作ってやれる。
優しく、それでいて悲しそうな表情で俺を見つめるジジイが、不意に右手首を掴んだ。
「脈が荒いな。顔色も悪い。お前相当走ったな」
「少しだけだ。すぐに戻る」
掴んでいた手を離すと、バシンと頭を叩かれた。
「自分の体くらい分かっているだろ。もう一つ条件追加だ。わしより先に逝くのは許さん」
大声で叱責すると、ニコりと笑った。ジジイの優しさが伝わる下手な作り笑いだ。
理事長室を出ると三時限目を終えるチャイムが鳴った。特別棟から新校舎に移り昇降口を出ると、体操着姿でグラウンドへ向かう女子生徒の一団と遭遇するが、皆グラウンドに目が行っているのか誰も俺に気付いていない。見知った顔が有ることで今日の四時限目が体育だったと思い出した。
「入間川君・・・」
各々のグループで話しながらグラウンドへ向かう一団の中、俺を呼ぶ声に振り返ると一人の女子生徒が立ち止まってこちらを見ていた。二年生になって二週間しか経っていない為、まだ殆どクラスメイトの顔と名前が一致していないが彼女のことは認識している。
俺に心配そうな視線を送るのは、隣の席の木下真紀だった。
ショートホームルーム終了と同時に突然隣の席のクラスメイトが居なくなれば気にはなるだろう。だが、俺と木下を繋ぐ唯一のクラスメイトという関係も今日で終わりだ。数ヶ月もすれば存在ごと忘れてしまう。きっと俺も忘れる。
人間の脳は要らない記憶は削除されるように出来ている。実に便利な機能だが、どうせならば削除出来る記憶の選択機能も付けておいてほしいものだ。人類の進化がもう少し早ければ、北条も苦しまずに済んだのだろか。
何かを言いたそうに俺を見る木下の横を素通りすると、グラウンドから生徒達の楽しそうな声が聞こえた。北条もあの中に戻れるはずだ。その思いが片桐邸へ向かう俺の歩みを急がせる。
『上がらせていただきます』
インターホン越しに春京さんに告げ、壮麗な庭を抜ける。玄関を開けると春京さんが出迎えてくれた。
「息吹さん。学生が授業をサボるのは感心できません」
「理事長にも同じことを言われました」
「でしたら・・・」
靴を脱ぎ、春京さんが準備してくれたスリッパに履き替え、長い廊下の向こうに目をやる。
「それはあいつに言ってやってください。俺はもう学生じゃありません」
「なっ、息吹さん。今、何と仰いました」
春京さんの顔から血の気が引く。彼女が憂う必要など無い。俺は自分より頭一つ低い位置にある彼女の肩にそっと手を乗せ言った。
「天岩戸を開けてきます。大人には居てもらいたくありません。たとえ春京さんでも」
「入間川様・・・」
「戻ってますよ、呼び方」
小さく弱々しい春京さんの肩から手を離し、俺は一人で廊下を進んだ。
ドアの前、決意と共にノックする。
「入間川だ。入るぞ」
返事は無い。ドアノブを回すが鍵が掛けられていた。
ドンドンとドアを叩く。
「おい。開けろ」
何度ドアを叩いても返事が無い。北条と対面するのは諦め、ドア越しに話す。
「今、学校を自主退学してきた。もうお前の過去を知る生徒は一人も居ないのだから、明日からはちゃんと学校に行け。これ以上春京さんに心配を・・」
ドタドタと音がしてガチャりとドアが開き、眼前に顔面蒼白の北条が現れた。春京さんとよく似ている。
「あ、貴方、今、何て・・・」
「学校を辞めた」
「貴方・・・ば、馬鹿なの・・・」
失礼な奴だ。こいつは知らないだろうが、俺は入学以来テストでは常に学年一位だ。大検だって今すぐにでも合格する自信がある。
「それじゃあ。俺は学校へ戻って私物の整理をしてくる。明日からは何の心配もいらない」
そのまま玄関に向かい歩き出した。
「ちょ、ちょっと。待ちなさいよ」
「何だ。俺は忙しいんだ」
先程見せた蒼白な顔ではなく、北条の顔は真っ赤に上気している。
「実の父親に処女を奪われた女への哀れみのつもり」
「はぁー、お前こそ馬鹿じゃないのか」
上気した顔をプルプルと震わせ、全身で怒りを表している。本当に気の短い女だ。
「ば、馬鹿ですって。私は一度たりとも学業で学年十位以内を逃したことはないのよ」
誰に言っているんだ。俺は一度たりとも学年一位を逃したことがないんだぞ。
「勉学の得手不得手と、馬鹿は関係ない。何が処女を奪われただ。そういったことは身内をカウントしない。そんなことも知れねぇのか。お前は処女だ。処女ど真ん中の、ド処女だよ」
北条は怒気と羞恥で耳まで真っ赤になった。
丁度いい。変に恩義を持たれても困る。このまま怒りを頂点に持っていけば、後腐れも無くなるだろう。こいつを怒らせるのは簡単だ。
「馬鹿でガキのお前に教えてやる。恋愛関連のイベントに関して全て、身内はノーカンだ。こんなことは今時小学生でも知っている。家族までカウントしちまったら、俺のファーストキスも、セカンドキスも、サードもフォースも全部酔っ払って帰って来た姉さんになっちまう。無知なお前は知らないだろうがファーストキスはレモンの味がするんだ。勿論、人間の唇はレモン風味なんかじゃない。そこに至るまでのプロセス、その場の緊張が脳に伝わり、そう錯覚させる。だが、今迄に俺が経験した全ては酒と嘔吐物の味しかしなかった。あんなものがファーストキスであってたまるか」
一気に捲くし立てる俺の顔を、口を開けたまま見入っている。今、自分がどれだけ間抜けな顔をしているのか、写真に撮って見せてやりたい。
さてと、仕上げだ。
「何だ、そのパジャマは。ガキ丸出しで処女臭がプンプンする。どうせまともに男の手も握ったことがないんだろう」
「な、なんですって。私は、も、もてるのよ」
「お前、自分で言っていて恥ずかしくないのか」
奇声と共に俺の顔面めがけてハイキックが飛んでくる。が、当然あたらない。攻撃を誘発しているのは俺であり、躱すのは造作も無い。
そうだ、それでいい。お前は終わってなんかいない。その元気があれば、失ったものはこれから幾らでも取り返せる。近くには誰よりもお前を愛し、力を貸してくれる身内もいる。ここからは自分で掴み取れ。
お前と出会って踏ん切りがついた。俺も一番大切な物を掴みに行くよ。
これで・・・母さんの許へ行ける。
蹴りを躱した勢いそのままに、俺は玄関に向かって走った。
「じゃあな。もう会うこともないだろう。明日からちゃんと学校行けよ」
「待ちなさい」
北条の静止を振り切り、俺は玄関を飛び出した。
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