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第一章 サイレント・マドンナ
第十三話 決意
しおりを挟む「入間川君・・待って・・・待ってよ・・・・」
走り去る入間川を必死で止めようと絶叫するが、彼には届かない。跪き入間川の立ち去った玄関を呆然と眺める。
自分が泣いているのにすら志摩子は気付いていない。
父親との暮らしを強いられた時、志摩子は心に硬く決意した。大人になるまで自分を律し続けなければならないと。孤立無援の自分が少しでも弱みを見せれば、忽ち父親に飲み込まれてしまう。正しく在らねばならない、強く在らねばならない、常にそう自分に言い聞かせてきた。高校一年の春休み、最後の日までは。
あの日、父親の凶行に何かが崩壊した。視界が狭まり、世界から色が無くなった。
モノトーンの世界で、いつ切れるとも知れない細い吊橋を渡っていた。進む理由も、目的地もわからない。
向こう岸には、きっと辿り着くことはない。吊橋は途中で切れ、自分は奈落の底に突き落とされる。薄々そう感じていた。
吊橋が強風に煽られ、遂にその時が来る。「ああ、私は死ぬのだ。私は負けたのだ」そう思って覚悟を決めた時、誰かが手を差し伸べた。志摩子は反射的にその手を掴む。
力いっぱい掴んだ。暖かくて大きな右手だ。その手は必死で志摩子救い上げようとする。が、上がらない。
大きな鳥がやって来た。凶悪な顔をしたその鳥は、鋭い嘴で志摩子を突き刺そうとする。もう駄目だと思った時、一本の腕が志摩子を守った。凶悪な顔をした大きな鳥の鋭い嘴が腕に突き刺さる。腕は力ずくで嘴を圧し折った。
腕からは血が滴り落ちる。凛々しく力強い左腕だ。傷を負った左腕はブラりと垂れ下がり、志摩子は悲鳴を上げた。
右手と左腕の持ち主は同一人物だ。これ以上迷惑は掛けられない。志摩子は右手を離そうとしたが、強く握られた右手は離れない。
遂に右手が志摩子を引き上げた。世界に色彩が戻る。命の恩人の姿は無い。
志摩子は跪き泣いていた。
言葉にならない呻きを上げ、鼻水と涎を垂らし慟哭する。寒く、怖く、寂しく、それでも抗い続けた世界から解放された安堵の涙なのか。
違う。それが理由ではないと志摩子はわかっている。こんなに涙が出るのは、母を、大切な人を亡くした時以来だと気付いている。
どれだけ泣き続けたのだろう。泣いても、泣いても涙が枯渇しない。体力が尽きそうになった時、優しい温もりが志摩子を包み込む。幼い頃に感じた母親と同じ温もりが。
「御祖母様・・」
縋るように見つめる。
「私・・どうすればいいの・・・」
志摩子の髪を撫でながら、優しい声音で春京は言う。
「簡単なことじゃない。素直になればいいのよ」
「素直に・・・」
「そう。簡単でしょ」
ぎゅっと春京にしがみ付き顔を埋め志摩子は呟く。
「傍に・・居たいです」
「聞こえない」
涙で濡れた顔を上げると、志摩子は胸壊を絶叫した。
「入間川君と一緒に居たい。彼の傍に居たいです」
春京は優しく微笑むと力一杯、志摩子を抱きしめた。
「早く言えばいいのに。本当、素直じゃないわね、誰に似たのかしら」
自分が何を渇望しているのか、想いを自覚した志摩子は胸中を発露する。
「助けて御祖母様。入間川君が居なくなっちゃう。嫌、そんなの絶対に嫌」
父親との壮絶な生活にも根を上げず、一度として助けを求めなかった志摩子が、今、春京に助けを乞うている。
助力は出来る。だが、志摩子の想いを代弁することは誰にも出来ない。志摩子の幸せは、志摩子にしかわからないのだから。
両肩に手を掛け抱きつく志摩子を突き放すと、優しい笑顔は消え、決然たる語調で春京は言い放った。
「だったらすぐに立ちなさい。行くわよ、息吹さんを取り戻しに」
「はい」
立ち上がると志摩子はパジャマの袖で顔を拭く。既に涙は無く、決意と覚悟の宿った凛然たる表情に変わっていた。
熱いシャワーを浴びると体がかるくなったように感じる。長年纏い続けた目に見えぬ鎧を一枚ずつ外し、自分を曝け出す。押し殺してきたものが一気に解放され本来の姿に戻っていくのが、はっきりとわかった。
制服を着ると「よし」と己を鼓舞する声が自然と口から発せられ、気合を入れてドアを開く。
「いい表情ね。今迄見た中で一番魅力的よ」
微笑む春京に、志摩子も笑みを返した。
春京はすぐに厳しい表情になり、志摩子もそれに習って表情を引き締める。
「貴女の祖母としてではなく、一人の女として伝えておきたいことがあります。心して聞きなさい」
師が弟子に奥義を伝えるが如くの物言いに、志摩子は姿勢を正し、一言一句聞き逃さぬよう集中力を研ぎ澄ませる。
「貴女は今、途轍もない僥倖を迎えています。断言します。息吹さんのような男性は貴女の前に二度と現れません」
志摩子は口を真一文字に結び大きく頷く。
「これまでは息吹さんに出会う為の序章。ここからが人生の本番です」
心に熱いものが滾り、感じたことの無い高揚感が体温を上げる。
「息吹さんの隣に居られる女は、ただ一人。その座を射止めなさい。どんなに険しい道だろうと、諦めてしまえば後に残るのは妥協の人生です。如何なる手段を使っても構いません。既成事実おおいに結構」
「お、御祖母様・・・既成事実なんて・・・」
「黙りなさい。そんなことだから息吹さんに子供扱いされるのです。貴女が臆している間に他の女が息吹さんと手を取り合い、息吹さんに抱きしめられ、息吹さんの子を宿し、息吹さんと生涯の誓いを交わしても、貴女は後悔しないのですか」
「嫌です。そんなの絶対に嫌です」
双方、目を見開き大きく頷き合う。片桐家にとって絶対に負けられない戦いだ。
「では、参りましょう」
「御祖母様・・その前にどうしても寄りたい場所が・・・実は以前、入間川君に・・・」
二人しか居ない廊下にも関わらず、志摩子は春京の耳元で囁くと、顔を朱に染める。
「それは由々しき問題ね。わかりました。先にそちらへ寄って可及的速やかに問題を解決致しましょう。それでは、いざ、参ります」
「はい」
春京の半歩後ろに志摩子が続き廊下を進む。その姿は青コーナーからタイトルマッチに向かうセコンドとボクサーの如く闘志が漲っていた。
駐車場に黄色の軽自動車が無いのを確認して家に入ると、階段を駆け上り自室のベッドにダイブする。
流石に学校と片桐邸を二往復は堪えたのか脈が荒い。どのみち生徒が掃けるまでは身動きが取れないので、目覚ましを十六時にセットして一旦休息をとる。
夢を見た。
今にも切れそうな吊橋を少女が渡っている。大人達は心配そうに眺めるだけで、誰も助けられない。慌てて近付き少女の手を掴んだ瞬間、吊橋が切れた。
俺は右腕一本で少女を引き上げようとする。が、上がらない。華奢な少女の体は鉛のように重く、手は氷のように冷たい。
痩せて臆病そうな顔をした鳥が、身動きの取れない俺達を襲ってきた。難無く撃退したが、その時左腕に少し傷を負った。たいした傷ではない。
少女は力尽きそうになり、手を握る力が弱まっている。小さな手を力一杯握った。絶対に離さない。
祈るように両手を合わせる女性と目が合う。傍らには温かそうな食事と毛布が準備してあった。俺は最後の力を振り絞り少女を引き上げると、その女性に少女を託しその場を去った。
耳朶を劈くような言葉にならない声が聞こえる。その小さな体に抱え込んできた恐怖や孤独を泣き叫びながら放出する声か。とれとも、ようやく辿り着いた安住の地で、苛烈な運命の橋を渡りきった安堵の涙か。
二度と会うことはな無いであろう少女に、幸多からんことを心から願う。
十六時前に目が覚めた。けたたましいベルの轟音を聞かずに済んだからなのか、それとも日中に睡眠を取ったからだろうか、普段には無い爽快な目覚めだ。
ベッドから抜け出す際、左腕に痛みが走った。ブレザーをはおり階段を駆け下りてキッチンへ向うと、ポケットから痛み止めを二錠取り出しコップ一杯の水と一緒に飲む。今飲んでおけば、作業する頃には効果が現れる筈だ。
学校へ向かう道すがら、多くの竹ヶ鼻高校生とすれ違った。見知った顔もあったが、立ち止まって会話する間柄の同級生は居ない。従って別れの挨拶も必要が無い。
昇降口で内履きに履き替え、靴箱の中央にある「入間川息吹」と書かれたネームプレートを裏返す。
俺に残された最後の仕事は、できる限り「入間川息吹」の形跡を消すことだ。
文科系の部活は特別棟に部室がある為、校舎には殆ど人影が無い。校則上、全生徒が部活に所属しているので放課後クラスに何時までも残っている訳にはいかず、幽霊部員はホームルーム終了と同時に学校を後にする。
階段を上り終え、二年十二組の教室がある方向へ目を向けると、一人の女生徒が教室から出てきた。隣の席の木下真紀だ。
教室へ向かい歩を進める。木下は扉の前で立ち止まったままだ。
「入間川君・・・」
小さく弱々しい声で俺の名を呼ぶが、聞こえない振りをして彼女の前を通り過ぎ、もう一方の扉から教室に入った。彼女に構っている暇は無い。彼女も俺を気にする必要は無い。どうせ今日までのクラスメイトだ。
初めに座席表に書かれた「入間川息吹」を修正ペンで塗り潰す。
次に最後列にある自分の席へ行き、机の上に椅子を乗せ持ち上げると、そのまま教室を後にして階段へ向かった。本当は旧校舎まで持って行きたいところだが、面倒なので階段を上り屋上前の踊り場に放置した。その内、誰かが片付けてくれるだろう。
階段を下り昇降口で靴を履き替えると、不要になった内履きをゴミ箱に放り投げ旧校舎へ向かう。
グラウンドでは部活動に勤しむ生徒の声や、指導者の怒号が響き渡る。体育館も同様で、横を通るだけで熱気が伝わってくる。俺には終ぞ理解できなかったが、あれだけの労力と情熱を傾けるには何か得られるものがあるのだろう。
理解は出来ないが、彼等を否定もしない。価値観は人それぞれだ。同じ価値観を持った人間なんて、居たら気持ち悪い。
駐車場を抜けると運動部の熱気も遠ざかり、竹薮に西日を遮られた旧校舎がノスタルジックな雰囲気を醸し出し、ひっそりと佇む。
一年間、放課後通い続けた俺の居城。
駐車場を境に、東と西では別世界だ。目に見えない壁が聳え立ち、来る者を拒む。東の喧騒とは真逆に、西は声を発してはならない雰囲気が全体を包む。学校から孤立したこの場所が受け入れるのは、孤立した人間・・俺だけだ。
そんな世界に北条志摩子は迷い込んだ。否、辿り着いた。幾年も彷徨い、こんな場所に来てしまった。
ここは安住の地などではない。況してやゴールなどでもない。来るべきではない場所に、彼女は向かわざるを得なかったのだ。
大人達は誰一人、彼女の道標の任を果たせなかった。だったら俺が立ちふさがる。「ここはお前が居るべき場所ではない」と叫ぶ。本来在るべき場所へ誘い、そっとこちらへ繋がる扉を閉める。
俺のようになってはいけない。
人の気配が全く無い昇降口で備え付けのスリッパに履き替え、ペタペタと足音を鳴らしながら薄暗い廊下を進む。
「今年の竹ヶ鼻祭りは掲示板が寂しくなるな」そんなことを考えながら部室の扉を開き蛍光灯のスイッチを入れると、カラカラと音を立て二三度点滅してからようやく明かりが灯る。
初めに田んぼの田の字に配置された四席の机を九十度動かし向きを変える。それに伴い北側の壁に設置されていたロッカーをズルズルと引き摺り、東側の壁に移動させる。西側にある然程本の入っていない本棚を、これまたズルズルと引き摺り、南側に移動させ部屋全体を九十度回転させた。
これまでとは違う部屋の完成だ。
俺が使っていた席に腰を下ろし、暫し休息を取りがてら周りを見渡すと、否でも目に入るのがトレーニング器具。さすがに、あれを一人で家まで持ち帰るのは厳しい。勿体無いが、最後に学校の粗大ゴミ置き場へ持って行こう。
細かい私物を処分しようと引き出しを開けた時、ガラりと扉が開く。
入り口に立つ人物と目が合い、背筋が粟立つ。
そこに居たのは、北条志摩子だった。
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