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第一章 サイレント・マドンナ
第十四話 疾走
しおりを挟むデパートで買い物を済ませた春京と志摩子は、急ぎタクシーを拾った。
「竹ヶ鼻高校までお願いします」
春京がそう告げた後、二人は一言も発せず前方を見据える。
正門の前でタクシーを降りると、志摩子は決意を新たに春京の目を見て大きく頷いた。二人が向かう先は、竹ヶ鼻高等学校理事長、鍋島成正が居る理事長室だ。
春京の半歩後ろを志摩子が続く。来客用の入り口から校舎へ入ると、春京は以前にも訪れたことがあるかのように、迷う事無く理事長室へ歩を進め、コンコンと扉を叩いた。
「どうぞ―」
扉を開き、二人で深く一礼した後、春京が発した言葉に志摩子は驚く。
「お久しぶりです。成正先輩」
ここに来る迄、春京は志摩子に何の説明もしていない。ただ一言「息吹さんを取り戻しに行く」その言葉だけで志摩子が行動を起こすのには充分だった。
「堅苦しい挨拶は抜きだ。久しぶりだな、春。まあ、座ってくれ」
二人の会話に、志摩子が目をぱちくりさせていると、ようやくく春京が説明してくれた。
「理事長は高校、大学の先輩なの。私の憧れの先輩にして、私を袖にした男よ」
「お、おい。生徒の前で滅多な事を口にするんじゃない」
慌てて両手を振る理事長の姿が、以前、寝ている自分の肩を掴んだ息吹の言い訳をする姿と酷似していて可笑しく、志摩子はクスりと微笑んだ。
「もう大丈夫そうだな」
「はい」
理事長の言葉に、志摩子は覇気のある声で応える。
三人はソファーへ腰を下ろすと、出された湯飲みに手を伸ばした。だが、ゆっくりもしていられない。
「明日から学校に復帰してもらえるのだろ」
理事長の問いに答えようと身を乗り出す志摩子を春京が制す。
「その件ですが、入間川息吹さんの居ない学校になど通いたくないと孫が我侭を申しまして、困っているところです」
困っていると言う春京の顔は困っていない。その顔を見て理事長が苦笑いした。
「うむー、それは困ったのう。志摩子君、息吹の自主退学が白紙に戻れば学校に戻ってくれるのかね」
「・・・はい」
頬を朱に染め俯く志摩子を、二人はニヤ付きながら眺める。
理事長が懐から徐に一通の封筒を取り出し、テーブルに置いた。封筒には大きく「退学届け」と記してある。
「ならば、仕方がない」
そう言うと、目の前の封筒を真二つに破り、丸めてゴミ箱に放り投げた。
「あんな不良生徒は辞めてもらっても一向に構わんが、志摩子君のような優秀な生徒には是非この学校を卒業してもらいたいからのう。背に腹は変えられん」
おどける理事長に春京が噛みつく。
「成正先輩。今、何と言いました。息吹さんが不良生徒ですって」
バン、とテーブルを叩き鬼の形相で睨め付ける。
誰が聞いても冗談とわかる物言いだが、春京にとって何時如何なる時も息吹を蔑まれることは我慢ならない。息吹を崇拝する彼女にとっては、神への冒涜に等しい。
「わたくしが知らないとでもお思いですか。名前だけとは言え、片桐グループ会長ですよ。岐阜県から全国模試一位が誕生すれば名前ぐらいは耳にしますわ。志摩子の学力など息吹さんの足元にも及びません」
驚愕の事実に、志摩子は俯いたまま顔を上げられない。
数時間前、息吹にとんでもなく間抜けなことを言ってしまったと深く後悔する。
「勉強だけ得意でものう・・」
「勉強も、です」
この件に関して、これ以上の議論は意味を成さない。息吹を妄信する春京には何を言っても無駄だと悟った理事長は、やれやれといった顔で春京にそっぽを向き本題に戻る。
「退学届けを破り捨てたところで、こんな物には何の意味も無い。高校は義務教育ではないのだから来たくない者を無理やり通わせることは出来ん。どうする、志摩子君」
俯いていた志摩子が顔を上げると、決然たる語調で言い放つ。
「私が連れ戻します」
志摩子は気付いている。
あの日、旧校舎には人の気配が一切無かった。部室の扉は開けっ放しだったにも関わらず、すぐ傍に行くまで息吹の存在に気付けなかった。その存在は、向こうの風景が透けて見えそうなほど儚く、今にも消えてしまいそうなほど危うかった。
今の志摩子ならば分かる。
入間川息吹は、途轍もなく大きな闇を抱えている。
それでも、息吹は志摩子を救おうとした。何年も、心から笑うことの無かった志摩子を笑わせた。志摩子に、自分はまだ笑えると教えてくれた。
だが、息吹自身は決して笑わない。
涙も見せない。
息吹が見せる感情は、怒りだけだ。
「私は・・息吹君の笑った顔が見たいです」
理事長が目を潤ませ、歯を食いしばり志摩子を見つめる。
その表情をみて志摩子は悟った。
竹ヶ鼻商店街歴史文化研究部の存在意義を。
何故息吹が、無理やり入部させられたのかを。
あの部は、息吹を救う為にあるのだ。
あの部屋が、今にも闇に飲み込まれそうな息吹を、既の所で食い止めている。
息吹の闇は深い。途轍もなく深い。
自分一人の力で息吹を救えるなどと志摩子は思わない。一助でも構わない。息吹の力になりたい。
志摩子にとって、息吹は生きる希望だ。否、生きる理由だ。志摩子が父親の悪夢を乗り越え、再び立ち上がった理由は「息吹の傍に居たい」それだけだった。
今回の事件で、志摩子は自分の弱さを知り、それを受け入れた。
自分は弱い。今の志摩子は息吹無しでは生きられない。息吹の居ない世界は、志摩子にとっての闇の世界だ。息吹が闇に落ちれば、志摩子も闇に落ちる。たとえ闇の世界であっても息吹と共に在りたい。それほどまでに息吹に依存している。
「息吹君だけは、絶対に奪わせない」
志摩子は立ち上がり、絶叫した。
理事長も立ち上がると、志摩子に頭を下げる。
「頼む。あいつはまだ、あの部屋から巣立つには早すぎる」
理事長の言葉に志摩子は力強く頷き扉に向かった。
志摩子が扉のノブを握ろうとした時、コンコンと扉がノックされる。
現れたのは、片桐印刷代表取締役社長、宮下巌だった。
「お久しぶりです。志摩子御嬢様」
志摩子は宮下の眼差しにドキりとする。
大人の男性特有の力強くも温かく包み込むような眼差は、志摩子が今迄に経験することの出来なかった、父親が娘を見守る眼差しのように感じた。数年ぶりの再会だったが宮下を見た瞬間、影ながら自分を見守ってくれていたのだと志摩子は知る。
「宮下さん・・・」
懐かしさの余り、言葉が続かない。「宮下のおじさん」幼少の頃、志摩子は宮下をそう呼んでいた。遊んでもらったこと、正月にはお年玉を貰ったこと、誕生日にプレゼントを貰ったこと、沢山の思い出が一気に蘇る。志摩子は「宮下のおじさん」が大好きだった。
だからこそ、志摩子は宮下がこの後取った行動に愕然とする。
宮下は志摩子から一歩距離を取ると、その場に跪き床に額を擦り付けたのだ。
「申し訳ありませんでした。私を・・お恨み下さい」
片桐グループのトップ、「岐阜の帝王」と呼ばれる宮下巌が、一介の女子高生に土下座をしている。あってはならないことだ。
「止めてください。貴方のような方が、簡単に土下座などしてはなりません」
志摩子の言葉を聞いても、宮下は土下座を止めない。
「御嬢様が長年受けた苦しみは・・・すべて私の責任です。お恨み下さい。私は恨まれて当然なのです」
尚も床に額を擦り続ける宮下の振るえる肩に、志摩子はしゃがみ込みそっと手を置く。ようやく顔を上げた宮下の首に巻きつくように抱き付いた。
「恨むなんて出来ません。ずっと心配して、見守ってくれたいのでしょ。忘れてしまったのですか。私は「宮下のおじさん」が大好きなのですよ」
宮下は人目も憚らず泣いた。泣きながら何度も「申し訳ありません」と繰り返す宮下を、志摩子は泣き止むまで抱きしめ続けた。
落ち着きを取り戻した宮下が立ち上がる。
「見苦しいところをお見せしてしまい申し訳ございません」
「宮下さん。さっきから謝ってばかりですね」
「申し訳ご・・・」
顔を見合わせて笑った。
大好きだった「宮下のおじさん」が帰ってきた。
「宮下さん、お願いがあります」
「何なりと」
「私には父親が居ません。これからは、宮下さんを父親のように慕って宜しいでしょうか」
「身に余る光栄です。さあ、行って下さい。後は大人の話です。御嬢様にはやるべきことがあるのでしょ」
「はい」
眩いばかりの笑顔で快活な返事をして志摩子は理事長室を飛び出すと、旧校舎に在る、あの部屋を目指して走った。
あの部屋で初めて息吹と話したときから彼に惹かれていた。それに気付いたのは数時間前だが、彼への想いは募るばかりだ。
早く会いたい。会って想いを伝えたい。彼の傍に居たい。彼の力になりたい。何としても彼を引き止めたい。
志摩子は走った。彷徨い辿り着いた時とは違う。自分の意思のもと、学校で一番寂しいあの部屋へ、蛍光灯を灯しても薄暗いあの部屋へ、息吹が居るあの部屋へ。
全力で走った。
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