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第二章 ブラザー・オン・ザ・ヒル
第七話 距離
しおりを挟む彼の居ない部室へ向かうのは初めてだ。
竹林の影に覆われ日光を遮断された旧校舎は、そこだけが別世界のように静かで暗く寒い。それでも、私にとってはこの世で最も尊い場所。
昇降口でスリッパに履き替え薄暗い廊下を進み、校内で一番静かで暗く寒い、大切な場所の扉を開く。ここで彼に出会い想いを伝えた。本来なら彼と私以外誰にも入って来ないで欲しい。彼には私以外誰も受け入れないで欲しい。
自分自身に吐き気がする。なんて強欲で卑しい女なのだ。弱く、捻じ曲がった性根を浄化出来ない限り、彼の隣に居る資格など無い。
然程明るくもならない明かりを灯し、珈琲メーカーをセットして結城律子の到着を待つ。
もし、私より先に彼女がここを訪れていたならば、私より先に彼女が部員となっていたならば、私はどうなっていたのだろう。
こんなことを考えているから駄目なのだ。ありもしないことに思考を割くのは、無意味で非生産的で彼ならば絶対にしない。
彼と共に学べる時間は永遠ではなく、一分一秒無駄には出来ないのだ。今日、彼に与えられた任務「結城律子を足止めしろ」を遂行することに集中しよう。彼の役に立つ情報を入手出来れば尚のこと良い。
心地よい珈琲の香りが部室全体を包み始めたころ、結城律子が現れた。
「あー、いい香りがするー」
自分の教室では見せない快活さだ。
「珈琲を入れたの。結城さんの分もあるから」
「やったね。ありがとう志摩ちゃん」
不思議と彼女から「志摩ちゃん」と呼ばれるのに違和感は無い。
「砂糖とミルクは要るかしら」
「有り有りで宜しく」
彼と同じ甘党であることにチクリと心が刺激される。まったく、私はなんて成長しない人間なのだろう。
「どうぞ、結城さん」
「ありがとう。私のことは律ちゃんって呼んでくれていいよ」
悩みなど微塵も感じさせない笑み。だが、彼女がこの表情を見せる人間は極めて少ない。木下真紀と入間川息吹、彼と同時にしか結城律子と会ったことのない私は若干の不安があったが、大丈夫なようだ。それにしても、彼女はいつまで同じ台詞を続けるのだろう。
「美味しいね、この珈琲」
「それは良かった。でも、息吹君の入れる珈琲はもっと美味しいわ」
「へー、そういえば入間川君は」
「今日は用事があるとかで部活は休むそうよ」
「なんだー、折角フーギー君のイラスト持ってきたのに」
机に広げられた画用紙には、色々なポーズをとったフーギー君がところ狭しと躍動している。私のイラストとは雲泥の差だ。それにしても数が多すぎやしないかしら、彼は3カット程と言ったのに20カットはある。
「本当に上手ね。それは私が預かっておくわ」
イラストを受け取ると、危惧していた状態に陥った。会話が続かない。距離感が掴めない。結城律子以上に友人の居ない私にはこの状況を打開する手段が少ない。
今迄の私ならここでゲームオーバーだが、今回は彼女と私、共通の話題を準備してある。何事も事前の対策が重要なのは彼から学んだ。初めに珈琲を準備しておいたのも彼の戦法を真似たものだ。
「珈琲まだあるのだけれど、もう一杯どうかしら」
「要らない」
声音が変わった。
もう一杯飲むと決めつけて珈琲メーカーに向かった足がピタリと止まる。先程までの笑顔はなく、目が据わっている。
「片桐さん、質問があるの。座って」
「急にどうしたの」
「いいから、座って」
彼女に気圧されるがまま席に座った。やはり私では彼のように上手く事が運ばない。
頭の中で彼女がしそうな質問を廻らす。竹ヶ鼻商店街歴史文化研究部のことか、顧問である結城先生のことか、どちらにしろ「志摩ちゃん」が「片桐さん」に変わった時点で良い話ではない。
「何か相談かしら」
思考を整理する為の時間稼ぎに吐いた言葉だ。彼女に限って私に相談などあり得ない。木下さんという友人が居るのに私に相談などするものか。
「入間川君のこと・・・好きなの」
「ええ。愛しているわ」
予想外の質問だが瞬時に答えることが出来た。だが、何故そんな分かりきった質問をするのだ。
「どうして好きになったの」
「そんなの分からないわ。気付いたら私の心は息吹君に支配されていたのだから。そうね、強いて言うなら出会ってしまったからかしら」
質問と言うより詰問だ。彼女は明らかに敵意を持って私を問い詰めている。
「嘘。そんな訳ない」
普段の能天気な彼女からは想像出来ない表情で睨みを利かせ嘘を見抜く。そう、彼とは一年以上前に出会っている。この部屋で話すまで、彼に何の感情も持ってはいなかった。特別な感情を抱いたのは彼と出会ったからではなく、彼を知ったからだ。
「何故、そんなことを聞くの」
質問に質問で返すのは禁じ手だが意図が分からない以上聞かずにはいられない。結城律子が彼への想いを阻む存在ならば、私にとっては明確な敵だ。
「真紀の邪魔をしないで」
「木下さんに頼まれたの、だとしたなら最低ね」
「真紀がそんなこと言う訳ないじゃない。でも私は知っている。真紀がずっと入間川君を見ていることを。だから邪魔しないで」
「木下さんは息吹君のことが好きなの」
「ずっと見ているんだよ、好きに決まっているじゃん」
「それは結城さんの思い過ごしではなくて」
「思い過ごしなんかじゃない」
本人が不在の状況では埒が明かない。木下真紀が彼に特別な感情を持っているのは間違いないが、それがどんな感情かは本人にしか分かりようがない。
「ねえ結城さん、木下さんは一度でも息吹君のことが好きだと貴女に言ったことがあるの」
「そ・・それは聞いてないけど分かるもん。親友だから」
「冷静に考えて。もし、木下さんが息吹君に抱いている感情が「好き」というものでなかったなら、貴女、とんでもないことをしているのよ。確証は在るの」
形勢逆転だ。敵意に満ちた表情が不安で崩れ始めた。木下真紀が彼に想いを寄せている可能性は極めて高いが、今回は完全に勇み足だ。友人を想うあまりの暴走だ。
「で・・でも、あの真紀が、明るく活発で、いつも先頭に立って皆を引っ張ってくれる真紀が、一人ぼっちで誰にも相手にされなかった私なんかに声を掛けてくれて、友達になってくれた優しくて行動力のある真紀が、入間川君の前だけはモジモジしているじゃない」
「え・・木下さんって・・茶道部で・・息吹君の隣の席の・・おとなしい・・あの木下真紀さんのことよねぇ?」
「何を言っているの、真紀がおとなしいのは入間川君の前限定だよ。普段の真紀は凄いんだから」
あまりのことに思考が追いつかない。何から考えれば良いのか、何が真実なのか理解出来ない。言葉を発しようとしても、錯乱した脳からは何も伝達されず、口だけをパクパク開いて声が出せない私を見て、逆に結城さんが驚いた表情をしている。
深く息を吸い、大きく吐き出す。胸に手を当て、心臓と脳を正常な状態に近付ける。目を閉じて、今迄に得た彼女等の情報をもう一人の自分に叙述させる。
結城律子が明るく振舞うのは限られた人物の前のみである。
結城律子は木下真紀のおかげで、孤独を脱却出来た。
木下真紀は活発でリーダーシップを持っている。
木下真紀は彼の前でのみ、おとなしくなる。
冷静さを取り戻し思索して出た結論、クラスで見た結城律子と木下真紀は、本来持つ彼女等の性格が真逆になったものだった。
結城律子は木下真紀に依存している、彼に依存する私のように。だが、彼女はその状況から抜け出そうとしている。彼や私に近づいたのはその為で、そうすることで兄の問題を解決しよう考えたのではないだろうか。
授業間の休み時間に寝たふりをして過ごす結城律子と、昼食時にはしゃぐ結城律子。どちらが本当の彼女なのか。私が出した結論は、後者だ。
初めて彼女と話したとき、苦手なタイプだと感じた。「結城さん」と呼ぶ度に、「律ちゃん」と呼ばせたがるのが疎ましいと感じた。それらは私に原因がある、彼や私が普通ではないからそう感じるのだと思い込んでいたが、それが間違いなのだ。
結城律子は人との距離感が分からない。受け入れられていないと感じれば必要以上に離れ、受け入れられたと感じれば必要以上に近づく。明るい性格の彼女を初めは受け入れられたとしても、四六時中べったり引っ付かれては堪ったものではない。人間は感情の生き物なのだ、他人に介入されたくない時は誰にでもある。だが、結城律子はそれが理解できず、拒絶されたと感じてしまい距離を取る、必要以上に。気が付けば、いつも独りだ。
そんな彼女に木下真紀が手を差し伸べた。結城律子をよく理解し、距離感を調整しながら孤立させなかった。近づき過ぎれば引き、離れれば詰める。木下真紀と行動を共にする中で、結城律子は人との距離感を学び、彼と私に近づいた。兄の問題を解決する為、今迄の自分から一歩踏み出す為に。
その勇気が持てるならば結城律子は大丈夫だ。兄の為になるなら、きっと彼に協力してくれる。結城律子は既に弱者ではない。
「とても素敵な人ね、木下さん。今度ゆっくり話してみるわ」
木下真紀は、彼の闇に気付いている。同じクラスになって数日で、彼の特殊な部分を看破したというのか。あり得ない・・だが、彼女が只者でないのは間違いない。結城律子の暗部に気付き、時間を掛けて少しずつ更正させている。
今のところ結城律子のことで彼女からの接触はない。それが意味するのは、この先を彼に託したと考えるのが妥当だろう。だとするならば、木下真紀は知っているのだ。彼が優しく、有能であることを、結城律子を放っておかないことを。
「ごめんなさい、冷静に考えれば志摩ちゃんの言うとおりだね。私のこと・・・嫌いになった」
距離が離れた。ここで詰めなければ彼女は更に離れて行く。
「これぐらいで嫌いになんてならないわ。友人を想ってのことでしょ、結城さんから悪意は感じなかったもの」
「本当。本当に本当」
「ええ、本当よ。たった三人の部活じゃない、仲良くいきましょう」
「うん」
安堵の笑みを見せる彼女に、彼の言葉を思い出す。「心配だからさ。たった二人の部活じゃないか」あの言葉で私は人間の感情を取り戻した。
嘘をつくのは簡単だ。本心とは別の思いを言葉にするだけのことで、誰にでも容易く出来る。だが、人間は言葉以外、確実に意思を伝える方法を持っていない。
言葉は、時に軽く、時に重い。
「珈琲、まだあるわよ」
「頂きます、マスター」
おどけて笑う彼女を見て思う。近い将来、結城律子の笑顔は人を選ばなくなる。木下真紀だけではなく、誰にでも向けられるようになるはずだ。既に、彼や私には見せてくれる。
これは一つの才能なのだ。人を和ます向日葵のような笑顔は、きっと結城律子の人生をより良いものとするに違いない。
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