サンスポット【完結】

中畑 道

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第二章 ブラザー・オン・ザ・ヒル

第十話 錠剤

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 その日、校内で兄の姿を探していた。家で母や自分に見せる油断した姿ではなく、職場で働く兄を見てみたいと思ったからだ。入学すれば何時でも見られることは分かっているが、もうすぐ兄が勤める学校に通えるという喜びと、校内を自由に散策できる状況が気分を高揚させ、普段は消極的な自分を行動に駆り立てた。

 職員室を訪れたが兄の姿はない。近くにいた教員に身分を明かし兄の居場所を尋ねると、多分図書室の隣に在る元文芸部の部室ではないかと教えてもらえた。なんでも兄は、最後の部員が卒業し廃部となる予定の文芸部を存続させようと企てているらしい。新入生に一人でも文芸部に入部を希望する生徒が現れれば理事長に直訴すると鼻息を荒くして職員室を出て行ったとのこと。家では碌に家事も手伝わず、休みの日には昼前まで惰眠を貪る兄からは想像出来ない姿に益々興味が沸き、自然と元文芸部へ向かう足取りも速くなった。

 グラウンドに鳴り響く運動部の掛け声、吹奏楽部が楽器を調整する音、青春を象徴するような喧騒の全てが煩わしい。自分が関わることのないただの雑音にしか聞こえない。だが、自分には兄が居る。友人などという不確かなものではなく、血の繋がった家族だ。世界中の全てが敵になったとしても、きっと兄は自分の傍に居てくれる。

 それにしても、何故、自分に頼まないのだろう。兄が文芸部の存続を希望するのであれば幾らでも協力する。そもそも部活動が強制である以上、自分が入部するのは兄が顧問を勤める部、一択だ。
 自分が文芸部への入部を希望すれば兄の喜ぶ顔が見られる、そう考えるだけで自然と顔が綻ぶ。図書館の前へ差し掛かると、隣の部屋から兄の声が聞こえた。


「助かるよ、早坂」

「貸し一つですよ、先生。まぁ、私も文芸部がなくなっちゃうのは寂しいですから」

 女生徒と話す兄の声がする、卒業生だろうか。

「わざわざ制服まで着てこなくてもよかったのに」

「なんか、着る機会がなくなると逆に着たくなっちゃって」

「おいおい、変な趣味に目覚めたんじゃないだろうな」

「先生、それセクハラ」

 会話の内容からも親密な関係なのが分かる。普段口数の少ない兄からは想像できない。
 頭の中に経験の無い嫌な違和感を覚えた。

「妹さんには頼まないのですか」

「ああ、妹はやめておくよ」

 どうして・・

「いつまでもお兄ちゃんと一緒じゃ嫌だろう」

 嫌じゃない・・

「同年代の友人や先輩後輩と共に青春を謳歌して欲しいんだ」

 そんなものいらない・・

「へぇ、シスコンの先生にしては賢明な判断ですね」

「おい、早坂、それセクハラ」

 二人の笑い声が廊下に響き渡る。
 頭の中の違和感がどんどん膨れ上がった。

「入部希望の新入生が現れなかったらどうなるんですか」

「残念ながら廃部だ。僕も他の部の顧問にされると思う」

「そうですか。でも、それも悪くないかも」

「どうしてだよ。さっき、寂しいって言っていたじゃないか」

「だって、先生の大好きな文芸部最後の部員が私ってことじゃないですか。それって先生にとって私が特別ってことになるでしょ」

 頭の中で膨れ上がった何かが、破裂した。




「それからの事は断片的にしか覚えていないの。兎に角、部屋を滅茶苦茶にした。何か叫びながら目に付く物すべて破壊した。お兄ちゃんに取り押さえられるまで暴れまわっていたと思う。お兄ちゃんは私にしがみ付きながら、その早坂さんって女の人に必死で何か言っていた。多分、口止めしようとしたんじゃないかな」

 自分にとって兄が唯一無二で在るように、兄にとっても自分がそう在ることに疑問を持たなかったのだろう。兄が妹の将来を憂い取った行動に、たまたま居合わせた卒業生の一言が結城の頭の中の片隅にあった爆弾のスイッチを押してしまった。仮に、その日回避できていたとしても、遅かれ早かれ誰かが押していただろう。それ程、当時の結城律子は追い込まれていた。それを兄の存在で必死に偽装していたに過ぎない。

「その後、お兄ちゃんに連れられて病院へ行った。詳しい事はよく解らない。聞いたことも無い病名と何かあったらこの薬を飲めって言われて」

 結城はポケットから数種類の錠剤を出し机に置く。

「今も服用しているの」

 片桐の問いに結城は小さく首を横に振る。

「境界性パーソナリティー障害・・・」

「そう、それ。どうして入間川君が知っているの」

 その問いに答えず、俺は結城の席まで行き錠剤の束を鷲掴みにしてゴミ箱へ投げつけた。この病において薬物療法は補助的な効果しか持たない。今の結城にとっては無用だ。

「聞かせて。それはどんな病なの」

「端的に言えば、常時不安を抱えている状態、それに伴うコミュニケーション障害だ。激しい怒りや空虚感、自己否定などが混在し感情の調整が困難になり衝動的な行動をとるようになる」

「衝動的な行動・・」

「アルコール依存や薬物の乱用、他者への暴力や破壊行動、摂食障害や性的放縦、最も多いのが自傷行為だ」

 片桐の表情が強張り、結城は驚きの表情で固まった。兄から詳細を教えられていないのだろう。

 結城巧は妹の錯乱にいち早く対応した。妹が持つ葛藤や不安を理解し、即座に排除したのだ。自分が他者とふれ合うことが妹のストレスとなっている、ならば自分が引き篭もればいい。最も大切な存在は妹であり、他者には何の興味も無いと示す為に、自分自身を軟禁した。

 愛情はある。だが、愚策だ。

 この病の原因の一つは過保護であり、依存的な性質を持つと言われている。衝動的な行動の抑制にはなるが、問題を先送りにするだけで解決には一歩も近づかないばかりか、更なる依存を招きかねない。

 しかし、結果的には兄の行動が功を奏した。木下真紀との出会いが特効薬となる。結城が感情のコントロールを失いかければ木下が調整し、時間をかけ、結城が抱えていた不安感や疎外感を徐々に解消していった。兄への依存を、木下が友人となることで分散させたのだ。

「安心しろ。結城さんは既に病を克服している」

「どうして、そう言い切れるの。お医者さんでもない入間川君に何がわかるの」

「始めて話した時、答えは出ていた。結城さんは木下さんのことを親友と言ったんだ。もう、お兄さんに依存していないと言っているのと同じさ」

 間違いなく、結城はこの病を克服出来ている。それ以前に、彼女は初めから境界性パーソナリティー障害などではない。後は本人が明確に自覚するだけだ。

「それに」

「それに・・」

 結城から片桐に目を移す。

「俺には片桐と結城さんが友人にしか見えない」

 結城が嬉しそうに片桐に視線を送る。片桐は恥ずかしそうに頬を染め視線を逸らした。

 二人が友人になることは片桐にとっても大きな意味がある。彼女の周りに居るのは身内である春京さんと其れに近い宮下社長、そして俺だけだ。あの男の呪縛から逃れて間もない片桐の世界はあまりに狭い。結城律子と片桐は、互いの世界を広げる扉となり得る。

「それにしても医学にまで精通しているなんて、息吹君の知識量には感服するわ」

「たまたま知っていただけだ」

 依存には独占と神仏化の二種類がある。結城律子が前者であり、片桐志摩子が後者にあたる。片桐は、自分に手を差し伸べた俺を特別な人間だと錯覚している。今の彼女には俺の長所しか映っていない。
 対象者が真に人徳者で生涯の師と仰げるような人物であればまだしも、俺のような一介の高校生にそれを求めるのは間違っている。夢はいずれ覚め、新たな絶望や孤独へ変貌する。だからこそリハビリ中の今、教えておくべきなのだ。片桐が思うほど優秀でも有能でも無く、優しくも強くも無いということを。必ず来る俺に幻滅し見限るその時、受ける傷を最小限に抑える為に。

「入間川君、私は何をすればいいの」

 結城が力強い目を向ける。

「もう充分だ。後は俺に任せろ」

「でも・・」

「後はお兄さんに、結城さんは大丈夫だと証明するだけだ。その辺は俺の得意分野だからな。口だけは達者なんだよ」

 結城巧に妹の結城律子が何を言っても無駄だろう。第三者の介入無くして結城巧が元の生活に戻ることはない。妹がどれだけ大丈夫だと力説しようと、過保護な兄は僅かな不安要素を拡大解釈する。初めに取った行動からも、結城巧は石橋を叩いても渡らないタイプの極めて保守的な人間だ。

「それじゃあ、行こうか」

「その前に一ついいかなぁ・・」

「どうした、結城さん」

「そのってやめてくれない。付けだと何だか距離を感じるんだけど」

 他人との距離感を掴めなかった結城律子から、まさかの駄目出しだ。

「じゃあ、何と呼べばいい」

「律ちゃんでいいよ」

 返事をせず席を立つと、片桐も続く。

「馬鹿言ってないで行くぞ、結城」

「早くしなさい、律子」

「うん」

 三人が一列に並んで廊下を歩く。

 母と兄そして妹、互いが互いを想う余り現状を抜け出せなくなってしまったが、元の形に戻るのに致命傷であった惰弱な妹は強く在ろうと自分から立ち上がり、障害は無くなった。
 初めから間違っていた片桐家や、既に崩壊してしまった俺とは違い、後は絡まった糸を解いてやればいい。

 そうと分かれば、一分一秒が惜しい。少しでも早く当り前の幸せを取り戻して欲しい。

 珈琲カップを片付けるのは、明日で構わないのだから。

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