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第二章 ブラザー・オン・ザ・ヒル
第十二話 癇癪
しおりを挟む階段を上った先で俺を待つ二人は手を繋いでいた。
策は前もって伝えてあるが、俺自身が結城巧と話したことも無ければ顔も知らない為流動的なものだ。想像した人物像が的外れだとは思わないが想像を上回る、もしくは規格外の可能性も加味しておかなければならない。そうすることで不測の事態も想定内となる。
俺の頷きを合図に結城がドアをノックする。
「お兄ちゃん、ちょっといいかな」
「ああ」
竹ヶ鼻商店街歴史文化研究部の特待生として入学した俺が本来は最初に会うべき学校関係者である結城巧は、眼鏡を掛けた色白で線の細い青年だった。
結城律子との出会いが偶然か必然か俺には分からないが、結城から見れば偶然だ。親友が興味を持つ同級生が、たまたま兄が顧問をする部の部員だった、それだけだ。だが、その偶然を起こす為にジジイは結城巧を竹ヶ鼻商店街歴史文化研究部の顧問に据えた。裏で糸を引かれていたようで腹を立てもいいところだが、不思議とその感情は芽生えない。この部に所属していなければ隣席で昼食を摂る結城の苦しみを知ることは出来ず、彼女も一歩踏み出す切欠を掴めなかったのだから。
結城律子は自ら強くなる決意をし、母親はそれを受け入れた。後は兄だけだ、この兄が学校に戻れば結城家は変わる。深い愛情が故に必要以上に依存しあった三人が、本来あるべき家族の形になる。
「はじめまして、結城先生。竹ヶ鼻商店街歴史文化研究部の部長を務める・・」
「入間川息吹君だね」
「「えっ」」
声を上げたのは俺以外の二人だった。俺は表情を変えない、これ位は想定内だ。
「其方は北条志摩子さんだね」
「あっ、はじめまして。今は祖母に引き取られて片桐志摩子です」
片桐は慌てて姿勢を正し深々と頭を下げる。顧問に念願の挨拶が出来てなによりだ。
「片桐・・・あの片桐グループの」
「はい。祖母が会長をしています」
「そういえば片桐グループの会長さんに似ているね」
そこで一度話を打ち切り、卓上のパソコンに何かを打ち込むと再びこちらへ向き直った。
「それで、何の用だい」
突然現れた俺達に怪訝な表情を見せることも無く、柔らかな物腰で受け答えする結城巧には余裕すら感じる。だが、余裕など無い。繕っているに過ぎない。
「これなんですけど」
竹ヶ鼻商店街の歴史と文化を結城巧に差し出す。
「これで良いか承認をもらいに来ました」
結城巧はB4サイズの用紙を受け取るどころか見向きもしない。
「全権は部長である君に託してあるのだから、わざわざ僕に承認をもらう必要はないよ」
現実は予想通りには行かないことが殆どだが、ここまでは想像通りだ。そろそろ揺さぶりを掛けるとしよう。冷静に対応されては何も始まらない。
「分かりました。それでは失礼します」
「外は暗いから気をつけて帰るんだよ」
一礼して踵を返すと驚きの表情で結城と片桐が俺を凝視している。次の一言で、更に驚くことも知らず。
「折角だから『律ちゃん』の部屋に寄っていくよ」
結城巧は極めて慎重に物事を運ぶ。だからこそ妹の病が発症しないよう最も安全な方法を取った。妹以外の人間と接触しない、自分自身を軟禁した。
たった一度の癇癪でここまでするなんて馬鹿げている。だが、わからなくは無い。
「片桐はどうする」
敢えて苗字で問い、あたかも結城との距離感が近いよう演出する。見え見えの演出だが今の結城巧には効果的だ。
友人の居ない妹が同級生を二人も同時に家へ招く、冷静で居られるものか。間違いなく結城巧は冷静さを演出している。自らが演出中に他者の演出を見破るには俺がしているように前もっての想定が不可欠だが結城巧にその準備はない。
「野暮なこと聞かないでよ。お邪魔虫は退散するわ」
すぐさま俺の考えに気付き返答する辺りは流石だ。片桐は言葉の意図を汲み取るのが実に早い。
「それじゃあ行こうか」
「待ちたまえ」
当然食い付く。「待て」と言わない辺りは完全に冷静さを失ってはいないが、ボロが出始めている。言葉に含まれた怒気が明確に感じ取れた。
結城巧は俺達の関係を必死に考える。だが、わからない。当の本人達がわからないものをわかる筈はずがない。
「何でしょうか」
俺達の邪魔をするな、あなたは部外者だ、と言わんばかりに面倒くさそうな顔を向けると結城巧の表情が一変した。
「もう夜だ。今日は帰りなさい」
「まだ七時前ですよ」
「七時前だろうと夜だ。こんな時間に異性の部屋に上がるなんて健全じゃない」
「別に部屋で『律ちゃん』に何かしようって訳じゃないですし、大袈裟過ぎますよ先生。それじゃあ行こうか」
そこで視線を切り、背を向ける。
ここで妹か片桐に会話を振れば俺達を引き止めることは可能だ。母親ならば簡単に正解を導き出すだろう。俺が『律ちゃん』の部屋に寄って行く大義名分は、まだ七時だからなのだ。時間稼ぎをされ夜が深まれば流石に部屋に寄って行くことは出来ない。だが、冷静さを欠いた結城巧は正解に辿り着かない。そんな人間が次に取る手段は決まっている。
力技だ。
「待てと言っているだろうが」
勢い良く椅子から立ち上がり、怒気の孕んだ視線を俺に向ける。もう議論は成立しない。ただ怒りをぶつけているだけだ。
「煩いな。何もしてないくせに、こんな時だけ教師面するなよ」
怒りを煽る。
「教師としてじゃない。律子の兄として言っている」
「妹はもう高二だぞ、このシスコン野郎が」
更に煽る。
「貴様・・」
簡単な挑発だが効果は絶大だった。
結城巧の拳が俺の頬を打つ。人を殴りつけたのが初めてだとわかる、なんとも腰の入っていない情けない拳だが、大袈裟に倒れ込むと慌てて結城と片桐が駆け寄る。
「お兄ちゃん。何てことするのよ」
「こ、こいつが・・」
「いきなり殴ることないじゃない」
そうだ。人は怒りが制御できなくなることもある。あまりの出来事に脳がパニックを起こすこともある。想像だにしない衝動的な行動に出ることもある。先日、俺自身が経験したばかりだ。
「大丈夫だ『律ちゃん』。先生は俺に『律ちゃん』を取られるのが怖いんだよ」
これでもかと煽る。
「そんなんじゃ・・」
「だって、あんたシスコンだろ」
未知の領域まで煽る。
「貴様・・」
今までに感じたことの無い怒りが立て続けに結城巧を襲う。そして限界に達する。
理性が崩壊し獣のように俺に襲い掛かるが、軽く身を躱すと自分の勢いを支えきれず倒れ込む。無様な自分への怒りが矛先を俺に変える。
片桐に目配せをすると彼女は不安を掻き消すように敢えて強い眼差しで頷き、兄を止めようとする結城を部屋の外へ連れ出した。
「もう終わりか。来いよ、本当に妹を貰っちまうぞ」
「ふざけるなー」
結城巧は狂ったように拳を振り続けるが俺には当たらない。
冷静で計算高く石橋を叩いても渡らない男が、妹を守る為最後に取った手段がこれだ。
「それで、妹を守れるのか。家族を守れるのかよ」
「煩い、黙れ」
あの日、結城律子は兄が居る部室で我を失い暴れた。今の結城巧と何が違う。
「本当は気付いているんだろうが。あんたは妹を守ってなどいない」
「黙れ、これ以上喋るな」
確かに結城律子はあの時期、精神的に不安を抱えていた。周りとの距離感を掴めず、自分だけが異常者であるかのような錯覚に取り付かれていた。兄が京都の大学に通っていた四年間、寄り添うものを失った彼女は孤独に苦しんだに違いない。だから、地元に戻った兄へ過度に依存した。
「部屋に引き篭もっているやつに、誰かを守るなんて出来るかよ」
「煩い、煩い、煩い、煩い」
結城巧は拳を振り続ける。弱々しい拳は空を切るのみで俺には掠りもしない。それでも振り続ける。目の前の何かにむかって我武者羅に振り続ける。
妹が精神に不安を抱えていると兄は知っていた。誰よりも、母親よりも先に気付いていた。だからこそ文芸部には誘わず、高校で見ていられる間に少しずつ自分から離れ、周りに溶け込めるよう願った。
あの日、部室で暴れる妹を目の当たりにして、自分は間違えたのだと悟り方針を変えた。それが間違いなのだと気付きもせず。
「あんたは何もしていない。守ってもいない。守られているだけだ」
「黙れ、黙れ、黙れ、黙れ」
結城律子の頭の中で何かが破裂した時、結城巧の中でも何かが破裂した。妹は風船が割れるような激しい破裂、兄は真空管に罅が入るような静かな亀裂。彼自身が気付かない静かな変化。割れた風船は萎む、亀裂は延びる。
落ち込んだ人間を精神科に連れて行けば軽度のうつ病だと診断されるのと同じだ。あの日、癇癪を起こした結城律子を病院に連れて行けば何らかの診断は下される。
断言できる。結城律子は境界性パーソナリティー障害ではない。
「あんたの妹は病気なんかじゃない。病んでいるのは、あんただ」
「違う」
「いいや違わない。妹と同じ医者に診てもらえよ、今のあんたなら診断結果は境界性パーソナリティー障害って言われるぞ」
「知った風な口を利くな。黙れ、黙れ、黙れよ」
必死の形相で涙と鼻水を垂れ流し、奇声を撒き散らしながら一心不乱に向かって来るが全て躱す。
結城巧のやり方で大切な物は守れない。机の前で、椅子に腰掛け守れるものなどありはしない。
「ほら来いよ。もう終わりか」
「うぉぉぉぉぉ」
渾身の一撃を右手で払いのける。体勢を崩した結城巧を後ろ手に取り動きを止めようとするが尚も逃れようと暴れるので軽く締め上げ動きを止めた。
力が抜けるのを数秒待つ。
「落ち着いて聞いて下さい」
「・・・・・・」
肩で息をしながら額に大量の汗を滲ませ睨みつける姿には余裕の欠片も無い。
「すみませんでした、先ずは失礼をお詫びします」
掴んでいた手を離すと、結城巧はその場にへたり込む。
「先生、どうして俺に殴り掛かったのですか」
「お・・お前が、俺のことを・・」
言いかけて、口が止まる。
俺の発言は目上の人間に対して失礼極まりないが、間髪入れずに殴り掛かるほどのことではない。況して、結城巧は冷静で簡単に怒りを露にする人物でもなければ、口より先に手が出るような人物でもない。
今、結城巧は自分自身の行動に驚いている。単純な挑発に激昂した自分に愕然としている。
「先生はずっと危うい状態に在りました。結城が暴れたあの日、妹を守ろうと誓ったあの日から、ずっと・・」
「ぼ、僕が・・・」
「妹の為に引き篭もった先生の導火線には、何時火が点いてもおかしくない状態でした。一年以上そんな状態でも大丈夫だったのは、火を消し続けた人が居たからです」
握られていた両の拳を開き、その手を見つめながら大粒の涙が頬を伝う。本来、優秀である結城巧が言葉の意味を理解するのは容易なことだ。
「母さん・・・」
妹を守るという一念が結城巧を狂わせた。優秀な彼が、自分の母親の優秀さを知らないはずがない。母親は初めから全てを知っていた。ジジイと内通し妹の様子を窺いながら、兄の行動を監視した。妹が少しずつ良い方向に向かっている、その上で最も危うい兄の火消しに徹した。自分を罵倒させガス抜きをし好機が来るのを待ったのだ。
俺の情報はジジイから母親に伝えられていたのだろう。昨日母親は俺が来るのを知っていた。隠れて聞き耳を立てていたことにも気付いていた。母親を観察する心算が、俺が観察されていたのだ。
そして母親も今日決断した。
「どうして、どうして忘れていたのかな・・・」
落ち着きを取り戻した結城巧が呟く。全てを察したのだろう、母親が守っていてくれたと。
「昔から・・母さんに嘘が通用したことなんて一度もなかったのに・・・」
結城巧は優秀だ。その手本が誰だったかは本人が一番知っている。
「先生が妹を大切に思う何倍も、先生は母親に愛されていますよ」
「全くだ。年季が違うよ」
この家族は愛に溢れている。
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