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第二章 ブラザー・オン・ザ・ヒル
第十四話 賢母
しおりを挟む「なあ、入間川君」
へたり込んではいるが、晴れやかな表情で結城先生が語り掛ける。
「僕って、喧嘩弱いのかなあ」
「弱いですね。片桐が相手じゃなくて良かったですよ。あいつは容赦ないですから」
「酷いなあ、いくら僕でも女の子には勝てるだろ」
「あいつは空手の有段者ですよ。しかも、口より先に足が出るタイプだけに性質が悪い。この前も部室のロッカーを破壊されました。あいつは怒らせないほうがいい、これは忠告です」
「マジで」
「ええ、マジです」
会話が途切れ数秒後、結城先生は両手で自らの頬を力一杯張った。
「目が覚めたよ」
「いいことです」
「先ずは自分の弱さと向き合う。心も体もね」
「応援します」
「ああ、だから君に聞いて欲しい。僕がいかに弱い人間かを」
俺は神でも仏でもない。それどころか一番かけ離れた場所に居る。懺悔をするには最も適さない人間だ。
それでも頷いた。聞く相手は誰でもいい、結城先生はそこから始めたいのだ。だったら聞いてやればいい。自分の弱さを知らなければ、強くなる方法には辿り着けないのだから。
子供の頃から勉強は得意だった。同級生たちは何故こんな問題も解らないのかと不思議だった。運動はまるで駄目、友達も居ない、だけど辛くはなかった。僕は知っていたんだ。大人になれば勉強が最強の武器となり、鉄壁の防具になることを。
いじめに遭うこともなかった。人間は何か一つでも秀でた者には一目を置く。足の速い奴、絵の上手な奴、容姿がいい奴、面白い奴、家が金持ちの奴、喧嘩が強い奴。その頂点が勉強の出来る奴、そう僕のことだ。だから友達が居なくてもいじめには遭わない。
休み時間には図書館で本を読む。僕より勉強の出来ない奴らが遊んでいる間に本を読むのだから差はどんどん広がる。特別な人間がより高みに登っていく。学校では僕だけが特別な矛と盾を持っている。残念なのは、この矛と盾は大人にならないと使えない。無知な同級生には本当の効力を見せられないことだ。
然程寂しいとは感じなかった。家に帰れば優しい母が居る。首を長くして僕の帰りを待つ可愛い妹が居る。僕が得た矛と盾は二人の為に使おう。母さんと妹を守る為に使おう。最も大切で守りたい世界の守護者になると、僕は幼いときから決めていた。
変化が起こり始めたのは高校生になってからだ。中学までと違い高校は将来の目的、もしくは学力によって行き先を選べる。勿論、僕が選んだのは県下一の進学校だ。そこでも僕は一番だった。しかし、中学までのように圧倒的ではない。小さな不安が芽生え始めた。
大学受験の時、担任の教師に言われた。何故、京都の大学を受験するのだ、何故、東京の大学を受験しないのだ、何故、この国で一番ではなく、二番の大学なのだと。僕は、その時点で既に知ってしまったのだ。全国には僕より強い武器や硬い防具を持つ人間が居ることを。勉強で一番になることが、運動はまるで駄目、友達も居ない僕にとって、唯一の矜持だった。学校という狭い世界の中で、それを失くしては生きる術が無くなってしまう。だから京都の大学を選んだ。
京都の大学に講義を受けたい教授がいる。母さんにはそう言った。母さんは優しい表情で、僕の好きにすればいいと言ってくれた。
大学は高校までより少し広い世界だった。少し世界が広がっただけなのに、とんでもないことに気付かされた。狙いどおりに僕は全国第二位の大学で一番になれたけれど、キャンパス内で誰よりも強い矛と硬い盾を手に出来たけれども、武器も防具も一つだけだった。容姿が優れ、話が面白く、運動が得意で勉強も出来る奴。幾つもの武器や防具を持つ人間。そんな奴が居たんだ、何人も。勉強だけは必死の思いで一番を死守したが、それも僅差。怖かった。だからより勉強に没頭した。僕にはそれしか残されていなかったから。
疲れた。本当に疲れた。初めの三ヶ月で限界を感じた。夏休みの初日、朝一番の新幹線で帰省した。とにかく家に帰りたかった。
母さんは少し痩せていた。それもその筈、今迄に見たことのない量の衣類が店を占拠したいたのだから。母さんに聞くと、僕が大学生になって以前より時間が増えたから仕事に目覚めたと言った。その時の僕に母さんの行動を深く考える余裕はなかった。部屋に入り着替えもせずベッドに飛び込んでそのまま眠った。目を覚ました時は、この数ヶ月感じたことのない爽快さで疲れが吹っ飛んだ。時計を見ると一時間も経っていなかったのに。
小学五年生になった妹は帰省した初日から僕にべったりだった。どこに行くにも付いてきたがり、家では朝起きてから夜寝るまで僕の部屋に入り浸り。悪い気はしなかった。僕の傍に居る妹はいつも上機嫌で笑っている。妹の笑顔を見ていると嫌なことを全て忘れられた。妹が喜ぶと僕も嬉しい。僕にとってこの世で最も尊い存在は、僕と共に在ることを望んでくれる。心地よい妹との世界に陶酔し、夏休みが終わる直前まで妹の危うさには気付かなかった。気付いた時には愕然とした。
夏休みなのに妹は友達と遊ばない。友達の話をしない。学校の話もしない。妹の話に出てくるのは妹と僕と母さん、常に登場人物はこの三人のみ。僕と同じだ。だが、妹は持っていないんだ。特別な矛と盾を、一本たりとも。
焦った。勉強という矛と盾を持った僕ですら生き辛く逃げ出したい気持ちが日に日に増しているのに、何の武器も防具も持たない妹はどうやって生きていくのだ。守らなければ、導かなければ、妹を丸腰で社会に出すのは余りに危険だ。
夏休みを終え京都へ戻る前日、妹に携帯電話を買い与えた。嫌なこと、辛いことがあればいつでもメール出来るように。メールは毎日来た、大学を卒業するまで一日も欠かさず毎日だ。内容は概ね同じ、『お兄ちゃんが居ないと詰まらない』
妹のメールを受け取る度に危機感は増したが、それと反比例するように大学を逃げ出したい気持ちは減退していった。僕にはやらなければならないことがあり、守り導かなければならない妹が居る。だから大学を卒業し、地元に戻らなければならない。複数の武器や防具を持つ者達とは戦えない。官僚にもならないし大企業にも就職しない。やるべきことがあるのだから仕方がない。
実家から通えて過度の残業も転勤もない、私立高校の教員は僕にうってつけの就職先だった。竹ヶ鼻高校の教員となった翌年、予定通り妹が僕の後を追って来た。これで、三年間は近くで見守れる。兄が教員なのだからいじめに遭うリスクも低い。三年の間に妹が社会に出る準備が整えば最高だが、それが叶わなければ実家のクリーニング店を手伝えばいい。一生、僕が守り続ければよいだけの話だ。
本当は文芸部なんてどうでも良かった。僕にとって都合が良かっただけだ。妹に僕と母さん以外の人間とふれ合う場を作りたかった。僕が顧問をする部に妹が来るのは分かっていたから。理想は僕と妹、他一名。妹以外に複数の部員が所属すればきっと妹は孤立する。だから、他一名を見つけたかった。
あんな事になるなんて想像していなかった。僕が不安を感じ始めたのが高校生の頃だったから、妹が既にあれ程心に不安を抱えているとは思わなかった。
「なあ入間川君、教えてくれ。どうして君は律子が病んでいないと言い切れるんだ」
「結城はいつも俺の隣の席で友人と楽しそうに昼食を食べていましたから」
「律子が・・・友達と・・」
「ええ、殆ど話しているのは結城ですよ」
「そうか・・あの律子が・・友達と楽しそうに・・・」
穏やかな表情で微笑む結城先生に、『竹ヶ鼻商店街の歴史と文化』を差し出す。
「そのイラスト、結城が描いた物です」
結城先生は手に取ったB4サイズの用紙を見ながら、ポツリと呟いた。
「みんな笑っている・・・」
「三つでいいって言ったのに、結城のやつ画用紙一杯に20カットも描いてきて・・・全部笑っていました」
B4サイズの用紙を見つめたまま、結城先生の頬を涙が伝う。
妹を思うばかりに心配が先に立ち、過保護になる余り見逃してしまう。結城律子は存在自体が周りを幸せにする、生まれ持って武器を持っている。その武器は戦う物ではなく争いを止めさせる物。
「どうして気付かなかったのかなぁ、律子が笑ってくれるだけで僕は嬉しかったのに。律子の笑顔で一番恩恵を受けていたのは僕だったのに」
「結城先生がシスコンだからですよ」
「ああ、僕はシスコンでマザコンだ」
母親は知っていた、息子の優しさと弱さを。東京の大学から逃げた息子が、京都の大学でも打ちのめされる可能性があることを。その時は実家のクリーニング店を継がせるつもりで身を粉にして働いた。
母親は知っていた、娘の明るさと強さを。思春期には苦労をしても、そこから学び多くの人に幸福を感じさせる人間となれると信じていた。
強く賢い母親は、娘が一人立ちするのを待ち、息子は守った。何を待ち、何を守るべきか。手を差し伸べるものと、一人で立ち上がるまで見守るべきものをわかっていたのだ。
兄妹は今日知った、いや思い出した。自分たちの母親は、強く優しく賢いことを。生まれた日から今日まで自分たちを守り続けていることを。
思ったとおりだ。この家族は誰も悪くない。三人とも優しすぎるだけで、固い絆で結ばれている。
「ところで入間川君、君と律子は交際をしているのかい」
「まさか、冗談は止めてください。あれは結城先生を動揺させる為に一芝居打っただけです」
「そ・・そうか」
まったく、この兄は当分妹離れ出来そうにない。
あきれた俺の感情を汲み取ってか、結城先生は恥ずかしそうに立ち上がりシャツを脱ぎ捨て上半身裸で力瘤を作る。
「少し体も鍛えないといけないな、この家には僕しか男手が居ないからね。律子が変な男に言い寄られでもしたら体を張ってでも守らないと」
「その心配は当分必要無いと思いますよ」
「失礼だな、身内の贔屓目を差し引いても律子は間違いなく可愛い。反論は許さない」
兄妹愛が間違った方向に移行してしまったのか、結城先生は物静かなキャラクターに似合わない暑苦しさを纏い始めてしまった。これは結城が苦労しそうだが俺には関係ない。
「あいつはどう見ても花より団子でしょう」
「いいや、律子は可愛いから周りが放ってはおかない」
勝手に言っていろ。付き合いきれん。
うんうんと頷き、何かを決意した結城先生を放っておいて立ち上がると、ドアがノックされた。
「お・・お兄ちゃん、そんな恰好で・・な・・何しているの」
脱ぎ捨てたシャツを慌てて着る結城先生が滑稽で、結城は腹を抱えて笑った。
襟を正し、神妙な面持ちで結城先生は妹に話し始める。
「明日、理事長にお願いしてくるよ。もう一度働かして欲しいって」
「うん」
「もし許してもらえたら、共に学ぼう。僕も律子もまだまだ未熟だ」
「うん」
結城が笑顔で頷く。その笑顔で結城先生も笑顔になる。もう、俺達の助けは要らない。
「二人共お腹減ったでしょ。カレー出来たから入間川君も食べて行ってよ」
向日葵のような笑顔で言われては断る術が無い。ご相伴に預かるとしよう。
「律子、僕と入間川君の分は大盛りで頼むよ」
「わかった。お母さんに伝えてくる」
結城は元気よく部屋を飛び出すと階段を駆け下りながら大声で叫ぶ。
「お母さーん。大盛り三つ」
俺と結城先生は思わず目を合わせた。
「まったく、君は何でもお見通しだね。体を鍛えるのはもう少し後でも良さそうだ」
結城先生が声を上げて高らかに笑った
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