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第二章 ブラザー・オン・ザ・ヒル
第十五話 友達
しおりを挟むカレーを食べ終え、早々に席を立った。
結城クリーニング店を出ると、外灯が眩いばかりに煌々とアーケードを照している。来た時よりも闇が深まった分、灯りはより一層輝きを増していた。
居辛かったのではない。嬉しそうに「美味い」を連発してカレーを頬張る妹、「行儀が悪い」「女性らしく」と口喧しい兄、そんな二人を微笑ましく優しい眼差しで見る母親。この空間に俺が存在するのは景観を損なう。美しく穏やかにせせらぐ小川に腐食した動物の死骸が浮かんでいるようなものだ。
それが許せなかった。
無意識の内に大きく息を吐くと、人の気配に気付く。来たときと同じ姿勢で椅子に腰掛ける元石川模型店の『店長』が俺に視線を送る。
「おい、小僧」
「俺ですか」
「他に誰がおる」
子供の頃の記憶が蘇る。商売人とは思えないぶっきらぼうな物言いは当時と変わらない。
「図体だけは成長したようだな」
「あの・・・」
「入間川の倅じゃろ、よう覚えておるよ。ちょっと待っておれ」
まるで俺を待っていたかのように椅子を抱え裏口から家に入っていく。石川模型店に通っていたのは七・八年前で、目立つ客でもなかった俺を覚えているとは流石元商売人だ。だが、待っていろと言われた理由に皆目見当がつかない。
数分待つと店舗の入り口だった正面の扉から大きな箱を抱え『店長』が現れた。
「それは・・・・信濃」
未完のまま回船中にアメリカの魚雷で沈没した日本海軍最大の航空母艦。
当時の俺が最も引き付けられた戦艦、ショーケースに入れられたこいつを見ているだけで興奮し、石川模型店に来る度、自分で稼げるようになったら必ず手に入れようと誓った幼少期の憧れ。
「持っていけ」
「えっ・・」
「金は要らん。やる」
「でも・・」
「いいから、持っていけ」
強引に押し付けられた信濃のパッケージには傷一つ無く、閉店した店の在庫品とは思えないほど保存状態が良い。
「お前だけ、待てなかったからのう」
何を言いたいのか理解できない俺は、信濃を抱えたまま呆然と立ち尽くす。
「夕涼みの習慣なんぞ無いのじゃが、虫の知らせかのう」
『店長』はまるで何かをやり遂げ満足感に浸るように遠くに目をやる。この老人の人生に俺が深く関わった記憶はなく、在庫とはいえ高額な商品を無償で譲り受ける理由が思いあたらない。旧店名から性が石川であるのは予想出来るが、それは飽くまで予想であり実のところ『店長』の名前すら知らないのだから。
「年寄りの道楽じゃ、気にするな」
「でも・・俺にはこいつを作り上げる自信がありません」
「わかっておる、小僧にはまだ早い。慌てる必要なんぞないじゃろ。心落ち着き、没頭できる時間を作ることができるようになってから始めればよい。それまでは箪笥の上にでも置いておけ。忘れてもかまわん。何年先になってもそういった時間を持てるようになれば、きっとお前は思い出す。その時始めればええ」
『店長』が言っている意味が解らない。だが、従おう。俺には早いと言った『店長』は、俺が『店長』の言葉の意味を理解できていないとわかっている。解る日がいずれ来ると言っている。
右腕に抱えた信濃が重荷にしか思えない今の俺には、そんな日が来るとは想像もつかない。
「ゆっくりでええ。気が乗らぬ日は無理をするな。上手くいかなければもう一度やり直せ。慌てるな、慌てる必要などないのじゃからな」
何かを示唆するように語り、俺の目を見る。皺だらけの皮膚に包まれた両目は肉体の衰えと引き換えに得た力強さを携え、俺の脳に直接その言葉を刻み込む。
経験に勝る学習は無い。俺の何倍も生きた老人を前に、如何に言葉を弄したとしても無意味だ。
「外も暗くなったから、迎えを呼ぶわ」
そう彼に嘘をついた。
また一つ罪を重ねる。どのような理由があろうと彼への背信行為は重罪だ。
玄関で彼を見送りキッチンへ向かうが足取りは重い。
青く澄み切った海にコールタールを垂れ流す。あの家族の中へ私が入って行く行為を例えるならば、そんな感じだろうか。景観を損なうだけでは無く、甚大な被害を齎す。
それでも私は歩を進める。彼の一助となれるのであれば幾らでも罪を重ねる。いずれ訪れる罰は甘んじて受けよう。
扉を開くと皆でカレーを食べていた時とはまるで別物の重苦しい空気が支配する場に逡巡する。漸く本来の姿を取り戻した美しい家族を巻き込んでもよいのかと。
「結城先生、律子、おばさまと話があるのから二人にしてもらえないかしら」
明るい未来が待つ兄妹に暗い話を聞かせる必要はない。彼を知りたいのは私であり、彼を救いたいのも私なのだ。もし、彼を救えない場合は共に堕ちても何ら後悔のない私とは立場が違う。
「入間川君のことだろう、だったら僕達も聞くべきだ」
「大した話ではありません」
「そうかい」
彼と部屋を出てから終始穏やかだった結城先生の表情が一瞬にして変わった。私や律子の年齢では出せない大人独特の迫力がある。
「僕も母さんに聞きたい事がある、大した話でないのなら先に聞いてもいいかい」
「構いません」
優しげな物言いではあるが鋭い表情のまま結城先生は律子に視線を移す。それを受け律子は力強く頷いた。
「母さんは以前から入間川君のことを知っていたのかい」
「ええ」
「だったら聞かせて欲しい。彼は尋常じゃない」
見透かされていた。
何故焦る。何故日を改めない。何故外で待ち合わせない。何故学習しない。彼があれ程注意した結城先生の存在を考慮せず先走る、なんと愚か者だ。
どうして巻き込む。どうして人の幸せに影を被せる。結城先生と律子は、彼無しでは生きて行けない私とは違うのに。どうして彼のように上手くやれない。
何でもいい、何か言わなければ始まってしまう。
「これは結城先生には関係が・・・」
「あるよ」
駄目だ。このままでは言い包められる。一年以上続いた苦しみから逃れたばかりの兄妹を巻き込んでしまう。どう言えばいい。どう切り返せばいい。彼ならばどうする。
言葉が出ず、動くことも出来ず、あわあわと半開きの口を小刻みに震わし脂汗が額に滲む。息苦しいがそれは錯覚だ。手に負えない現状から逃げ出そうとする心が身体を凌駕しようとする卑怯者の常套手段だ。
愚鈍。不佞。無能。初めて出来た友人の幸せすら脅かす害悪。不幸の病巣。穢れ、汚れた黒い塊。
体が振るえその場にしゃがみ込む。彼が傍に居てくれなければ心のバランスを取ることも、まともな日常生活を送ることも、彼が・・彼が・・彼が・・彼が・・彼が・・彼が・・彼が・・・・・
「ああ・・ああ・・ああああ」
「志摩ちゃん」
慌てて律子が駆け寄り私の手を握るが、その手を乱暴に振りほどく。
「駄目、私に近づいては。私は汚いの。穢れているの。お願い、これ以上他人に迷惑を掛けたくない」
「他人じゃないよ。友達だよ」
「・・・・・・・・・」
思考が停止する。律子の顔をじっと見る。振りほどいた筈の手が、より強く握られている。
暖かい・・・・・。ただ、ただ、律子の手が暖かい。
気付かぬ間に背後に立っていた結城先生が私の肩にそっと手を置く。
「僕は竹ヶ鼻商店街歴史文化研究部の顧問だよ。今迄何もしてこなかったから偉そうなことは言えないけれど、放ってはおけない」
彼を知って以来、優しい人ばかりが近づいてくれる。皆が生きる勇気をくれる。先の見えない吊橋に向かわないよう誘導してくれる。
私は恵まれている。
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