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第三章 パーフェクト・マザー
第一話 懇願
しおりを挟む「子分が親分を心配するのは当然でしょ」
朝六時半、人気の無い校舎、二年十二組の教室。木下真紀は抑揚の無い口調で言った。
六年前、彼の身に起きた事件を新聞記事で読んでからの記憶が曖昧だ。汚れた身体を熱いシャワーで流しながら頭の中を整理しようと試みるが思うようにいかず、お湯の温度を更に上げる。
何故、あれ程のことをされながらも母親を愛せる・・何故、生死を彷徨う程の傷を受けながらも暴力に抗える・・何故、誰も恨まない・・
日常の彼が発する言葉は刺々しく、他者への関心など殆ど無いにも関わらず、私や律子に対しては身の危険を顧みず救おうとする。彼は誰にも救ってもらえなかったというのに。
救いたい・・・どんな手段を使おうと、どんな犠牲を払おうと、彼を救いたい。新聞記事を読んだだけで我を失い身体の制御すら出来なかった私が、これ以上彼の過去を知ることになれば平静を保ち続けられる保障はないが、それが何だと言うのだ。彼を救うことが出来るのであれば、ちっぽけな犠牲だ。
彼を知る人間、入間川皐月と鍋島成正、そして木下真紀。唯一肉親ではない彼女が何故彼を見続けているのか、二人の間に何があったのか、早急に知る必要がある。
浴室を出ると乱雑に身体を拭き髪は半乾きのまま部屋着を身に付け自室へ向かう。今、急いだところで何かが変わるわけでは無いが、一刻も早く彼を救いたいとの思いで気ばかりを焦らせる。クリアファイルに挟まれたクラス名簿を手に取り電話機まで走ると躊躇無く木下真紀宅の番号を押す。
数度のコールで受話器を取ったのは木下真紀本人だった。
『分かったわ。六時半でいいかしら』
明日の朝クラスメイトが登校する前に話を聞きたい旨を伝えると、理由も聞かず了承する彼女の口調は、教室で見せる木下真紀とまるで別人だった。
「律子の言っていたことは本当だったのね」
熱を帯びているでもなく無関心でもない涼やかな瞳。凛然とした立ち姿から彼の席に座る私の元へゆっくりと歩き始める美しい所作。それが彼女の自然体であることを疑う余地は何処にもない。
「片桐さん、律っちゃんのこと本当にありがとう」
深々と頭を下げる木下真紀を見て、やはり彼女は、彼に律子を託したのだと確信する。
だが、どうして律子の問題が片付いたことを知っている。彼女には何も話しておらず、昨日の状況からして律子から連絡が入ったとも考えづらい。
「どうして知っているの」
「律子。片桐さん今、律っちゃんをそう呼んだじゃない」
洞察力の鋭さに驚くと同時に自分の鈍感さに落胆する。こんな体たらくでは到底彼を救うことなど出来ない。この木下真紀ですら彼を見続けることしか出来ず、理事長や皐月さんですら現状を打破できないまま、彼をあの部屋に留めて置くことで精一杯だというのに。
「大丈夫、顔色が悪いわよ」
「ええ。問題ないわ」
弱いところを見せないよう精一杯平静を装う。それが、女としての安いプライドなのか彼に対してのライバル意識なのかは分からないが、彼女にだけは弱く無能な自分の正体を見せたくはなかった。
「息吹君のことを教えて欲しいの」
「・・・・・・・・・」
問いに対し、彼女は無言で答える。瞬き一つせず、私の本心を見定めるように。
軽率だったかもしれないと不安が過ぎる。私にも人に言えない過去があるように、彼女にも思い出したくない過去がある可能性は極めて高い。何不自由ない生活を送っていたのであれば、彼と出会い彼を知るのは不自然なのだから。
それでも聞かねばならない。彼女が知っている家族では知り得ない情報は貴重だ。
意を決し、跪いて、両手を地につき、額を床に擦り付ける。彼を救う為ならば如何なる犠牲も払う、そう決めたのだ。
「お願いします。どうしても彼を救いたいの。木下さんにとっては話し辛いことだとは重々承知しているけれど、彼の過去を知らずして彼を救うことは出来ない。私に出来ることであれば何でもしますので、どうか、どうか、教えて下さい」
恥も外聞も無い。彼女にとって私の土下座など何の価値も無いことは分かっているが、差し出せる物が私には何も無い。
どんな条件を出されても構わない。教室で裸になれと言われれば躊躇無く全裸になる位の覚悟はある。
「とりあえず、土下座は止めて」
小泉某君の椅子を彼の席と向き合うように反転させ腰掛けると、私にも座るよう促す。膝の埃を軽く払い、言われるがまま着席した。
「入間川君のことでも貴女には感謝しているの。ずっと一人だった彼の傍に居てくれて」
以外だった。彼を見続けてきた彼女にとって、私は後から出てきた邪魔者だと思っていたが、そうではないらしい。
「貴女は凄い人だわ。誰にも関心を示さなかった彼に、強引にでも入り込み受け入れられている。勇気の無い私は思い出してすらもらえないのに」
寂しそうに笑う彼女の言葉を、首を振って否定した。
「凄くなんてない。救ってもらった上に、迷惑も顧みず縋り付いているだけよ。木下さんには隠せそうに無いから先に言っておくけれど、臆病で、歪んでいて、無能、それが私の正体。律子の件に関しても彼と本人達が解決したもので私は何の役にも立っていないわ」
「そんな訳無いじゃない、自分を過小評価し過ぎよ。貴女は強いから彼の傍にいられる、正しから彼の力になろうとする、優しいから彼を救おうとする。違う?」
違う・・・
彼に縋っているから傍にいる。彼に選ばれたいから力になろうとする。彼が今にも消えて無くなりそうだから、そんな世界にいたくないから救おうとする。木下真紀が言うような崇高さなど微塵も無く、ただ強欲なだけだ。
「ずっと彼が救われることを願っていた。片桐さんが現れて、どうして私が見続けることしか出来なかったがわかったわ」
そう言って彼女が私の手を取る。
「彼と私に何があったか全て話す。私に出来ることだったら何だってする。だから・・お願い、彼を救ってあげて。貴女なら・・片桐さんならば彼を救えるかもしれない」
「どうして・・私なの・・」
「彼を救うよりも最悪の事態を防ごうとして一歩踏み込めない臆病な私とは違う。いいえ、私だけでなく今迄彼を救おうとした誰とも違う。片桐さんには他の誰もが持てなかった覚悟がある」
木下真紀が私に何を感じようが、彼を救う手がかりになる話が聞けるのであればこの際どうでもいい。
彼女の手を握り返し大きく頷くことで話を促すと、木下真紀は漸く彼との関係を語り始めた。
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