一条春都の料理帖

藤里 侑

文字の大きさ
256 / 893
日常

番外編 石上彰彦のつまみ食い①

しおりを挟む
 今日は朝から最悪だった。

「ったた……」

 寝起きの頭痛はいつものことだが今日は一段とひどい。アパートの三階の角部屋の窓から見える空には重い雲がのしかかっていた。

「はあー……道理で」

 古傷も痛むはずだ。何かとけがの多い人間だから、体のあちこちが鈍く痛む。

 とりあえず朝飯食って、痛み止めを飲んでおこう。今日も仕事、しかも月曜日と来たもんだ。

『今日の運勢! ラッキーアイテムとともに、お知らせします』

 テレビをつければいつも通りニュース番組が放送されていた。ずいぶんきらきらとしている配色だ。目に痛いが替える気力もないのでそのままだ。

『そして最下位は……』

 心のこもらないアナウンサーの謝罪の後告げられたのは俺の星座だった。どうして占いの最下位に対して謝るのだろうか。別に誰が悪いわけでもない、ただ運勢が悪いだけだというのに。

『そんなあなたのラッキーアイテムはニッケ玉! 辛さで悪い運気を追い出しちゃいましょう!』

「ニッケ玉」

 この番組で紹介されるラッキーアイテム、いつも、ありそうでないというか、妙なとこついてくるんだよな。

 まあ、いい運気は手に入りづらいってことなのかもしれない。

 なんだかなあ。



「お前、何をしている?」

 図書館の前でうずくまっていた俺に声をかけてきたのは漆原だ。ここで司書をしていて、さらにいえば、俺の腐れ縁だ。

「腹でも痛いのか?」

「……違う」

 さすっているのは額だというのに、こいつは何を言っているんだ。

 立ち上がりそちらを見れば、漆原は不敵に笑っていた。

「冗談だ。さっき見ていた。派手だったなあ、音も」

 そうだ。こいつの言うとおりである。図書館に用事があったのだが漆原は不在。施錠されたドアを開けようとして、開いてもいないのに突っ込んで見事に額をぶち当てたわけだ。若干うつむき気味だったので眼鏡に激突しなかっただけ救いか。

「うるさい。それより、何か必要な備品はないか」

「いや、今のところは。ああ、湿布や絆創膏を準備しておくべきかな?」

「こいつ……」

 いつもながら余計な言葉の多いやつだ。

「茶でも飲んでいくか?」

「仕事中だ」

「水分補給は大事だぞ? 初夏だからと甘く見ちゃいけない」

「ご心配なく。ちゃんと取ってる」

 そう言えば漆原は「そうか」と引き下がった。

「まあ、事務室も騒がしそうだったしなあ。ゆっくりしている暇はないな」

「えっ?」

 聞き返せば漆原は「なんだ知らんのか」と声を潜めて笑った。

「お局様が、君をご指名だったよ」



 それでどうして俺はこの日差しの中、リアカーのタイヤを抱えて歩いているのだ。

 簡単な話、お局様のご指名だからだ。

「リアカーのタイヤがパンクしちゃってぇ、それも二台! どこか修理してくれるところはないかしらぁ」

 香水の化身とでもいわんばかりのお局様――いや、それでは香水に失礼か――は事務室に戻ってきた俺にそう言った。いちいち嫌悪感や面倒くささを覚えていてはやっていられないので、いつも通り、事務的に返す。

「僕が調べますよ」

「あらぁ、そう? ありがとう。やっぱりこういうのは若い人が頼りになるわぁ。じゃ、お店を見つけたら持って行ってちょうだいね」

 ちょっと待て持っていくまでは聞いてないぞ。

 しかしまあ、この事務室でリアカーのタイヤを外し抱えて歩く体力があるのは俺ぐらいか、と思い直す。

「なんで晴れてんだよ。朝は日が陰ってたじゃねえか……いや、でもあの曇天もきついか……」

 誰にともなく悪態をついたら、スズメがきれいなさえずりで返事をした。

 調べてみたところ、うちの学校のほど近くに自転車屋があるらしい。西元自転車……だったか。

 電話して聞いてみたところ、快く引き受けてくれた。電話口は愛想のいい女性だった。

「あれか……」

 小さな間口の、雰囲気の明るい店だった。何でもずいぶん昔からあるらしい。

「こんにちはー」

「はい、こんにちは」

 表で仕事をしていたのは老齢の男性だった。作業着を着て、今は自転車のパンク修理をしているらしかった。

「ああー、もしかして」

「お電話しました、一夜高校の石上と言います」

「はいはい」

 すると奥からも一人、男性と同じくらいの年齢の女性が現れた。おそらくこの人が電話対応をしてくれた人なのだろう。

「こんにちはー」

「こんにちは」

「お預かりしますね。急がれるんでしょう?」

「そうですね……あ、今日すぐにいるってわけじゃないんですけど」

「明日になると思いますが、お預かりしていても大丈夫です?」

「大丈夫です、よろしくお願いします」

 それから料金のことなど話をしていると、一人の男子学生がやってきた。うちの制服だ。そういえば最近は行事が多くて早く帰る日が多いんだったか。客だろうと思い少し横にはけると、男子学生はこちらに会釈をして「こんにちは」と言った。

「こんにちは」

「あら、春都。おかえり」

「ただいま。ちょっと寄ってみたんやけど……」

「暑かったろう、中に入っておいで」

 どうやら二人の孫にあたるらしい人物だということは分かった。二人の表情が柔らかい。

 少年が室内に入ると、再び仕事の話に戻った。

「では、そんな感じで」

「よろしくお願いします。助かります」

 明日取りに来ることを言って、立ち去る。

「ああ、ちょっと待って」

 と、老婦人に呼び止められる。男性の方はもう作業に戻っているようだった。

「これ、良かったらどうぞ。皆さんにお配りしているんです」

 そう言って渡されたのは飴玉いくつかだった。老婦人は困ったように笑った。

「もっと癖のないお菓子にしようと言っていたんですけどね、うちの人が好きなもので……ニッケ玉なんですけど」

「あ、ありがとうございます」

「それじゃあ、明日、お待ちしています」

 今度こそ店の外に出て、ぽっつりぽっつりと学校へ向かう。

「いただきます」

 その道すがら、もらった飴を一つ開けて口に放り込んだ。

 鮮烈な香りと辛さ。ニッケは、しょうがを凝縮したような味だと俺は思う。鼻に抜ける清涼感――というにはためらいのある刺激。好んで買うことはない味である。

 でも今はなんとなく心地がいい。

 なんだかなあ。人って不思議なもので、ちょっとしたことで落ち込むし、気を立て直すこともある。

 ああ、でもこのまま食ってたらお局様に何と言われるか。

 名残惜しいが、かみ砕く。まだ二つも残っているんだ。あとでまた味わうとしよう。



「ごちそうさまでした」

しおりを挟む
感想 16

あなたにおすすめの小説

月弥総合病院

僕君☾☾
キャラ文芸
月弥総合病院。極度の病院嫌いや完治が難しい疾患、診察、検査などの医療行為を拒否したり中々治療が進められない子を治療していく。 また、ここは凄腕の医師達が集まる病院。特にその中の計5人が圧倒的に遥か上回る実力を持ち、「白鳥」と呼ばれている。 (小児科のストーリー)医療に全然詳しく無いのでそれっぽく書いてます...!!

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

大丈夫のその先は…

水姫
恋愛
実来はシングルマザーの母が再婚すると聞いた。母が嬉しそうにしているのを見るとこれまで苦労かけた分幸せになって欲しいと思う。 新しくできた父はよりにもよって医者だった。新しくできた兄たちも同様で…。 バレないように、バレないように。 「大丈夫だよ」 すいません。ゆっくりお待ち下さい。m(_ _)m

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

身体の繋がりしかない関係

詩織
恋愛
会社の飲み会の帰り、たまたま同じ帰りが方向だった3つ年下の後輩。 その後勢いで身体の関係になった。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

処理中です...