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日常
第三百九十七話 馬刺し
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「あー、疲れた」
家庭科室を離れて、大きく息をつく。なんだか、長い間息を止めていた気分だ。
「俺は楽しかったぞ!」
隣を歩く咲良は、にこにことまるで疲労を感じさせない笑みを浮かべて言った。
「からあげうまかったな~」
「まあ、うまかったけど……」
「作るときはちょっと大変だったかな?」
のんきに言いやがって。しかし、説明を一手に担ってもらった身としてはあまり文句は言えない。
例の料理教室は、思ったよりも大変だった。
部員の方々よりも一足先に家庭科室へ向かい、材料の確認とレシピのコピーの配布をしておいた。これ、やっといてよかったと、しみじみ思う。
なにせ、部員が集まる時間はまちまちで、しかも、全員そろってから始めるというものだから、結構時間が押したのだ。
「時間になったら始めればいいのにねぇ」
これは、早瀬のお姉さんの言葉である。そもそも集合時間が決まっているのだから、その時間になったら始めればいいのだ。先輩の言うとおりである。
始まってみれば、思いのほか咲良の説明が手際よく、その辺はよかった。まあ、知り合いがいたらしく、テンションが上がりまくっていたので、落ち着きはなかったな。これは想定内ということで。
家庭科室には教卓の代わりというべきか、大きめのシンクが前に一つある。そこである程度の調理工程を説明してから、実際に作る、という感じで事を進めた。
「一条先輩、やっぱりさすがの手さばきですね!」
逐一、きらきらした目を向けてくる橘にはやりづらかったが……
「橘はさ、一条に夢中だったよな」
「あ?」
咲良がいたずらっ子のように笑って言った。
「料理作ることよりも、春都が料理してるとこ見るのが楽しいってかんじ」
「そうなのか?」
「だから、手元が危なかったんだよ」
その言葉に、ああ、と思い当たる節があった。
妙に集中力がないな、と橘を見て思った。
どこか上の空というか、別に気になることがあるみたいで、物を落としそうになったり手を切りそうになったり……とにかく、危なっかしくてしょうがなかった。
こっちはこっちで料理を仕上げながら教えないといけなかったので、周りを見る余裕はほとんどなかった。そういう時は咲良が見て回っていたが……
「まさか俺を見ていたから集中力がなかったとは」
「あはは。でもさー、興味津々なの、分かるなあ。いつも学校で会ってるやつが、妙に手慣れた感じで料理してると、つい見るもん。先輩とかだと、なおさらさぁ」
確かにそれは否定できない。普段、冴えない感じの同級生が、めちゃくちゃ運動神経よかったり、特定の科目とか競技で目立ったりすると、つい見てしまうもんな。
しかし俺には、そこまで夢中にさせるほどの技量はないと思うのだが。
こちらが一段落ついたところで、あちこちからお呼びがかかった。
千切りがしづらいとか、粉の量がよく分からないとか、色々聞かれたが一番助けを求められたのはあれだな、油跳ね。
そりゃ揚げ物だし、水分もそれなりにあるから油跳ねはする。慣れないうちは確かに怖いよな。分かるよ。俺だってそうだった。突然爆発するかもしれないし、細かく飛び散る油は思いのほか痛い。
しかしそれをほとんどの班から言われ、結局、そのほとんどの班の手伝いをすれば、自分で頑張ってくれと言いたくなるのだ。それを練習するための今日だろう、と。
当然、自力で頑張っている班もあった。火加減だけはとんでもないことをしていたので教えたが、あとはなんとかできていたようである。橘の班には早瀬先輩もいたが、あのままやっていたら、からあげではなく炭が誕生していたかもしれない。うまくできてよかった。
校門を出て、咲良はスマホを取り出した。
「勝手にレシピ変えてるやつらいたよな。ゴマ油入れてたっけ?」
「ああ……」
「こっちの方がうまいよな! ……なんて言ってさあ。俺、レシピ作ったわけじゃないけど、ちょっとムッとしたもん。おいしいかもしんないけどさあ……なんか、違うじゃん、そういうの」
そして咲良はスマホをポケットにしまい、そのまま手も突っ込むと、こちらを向いて屈託なく笑った。
「俺、春都のレシピで作ったからあげが、一番うまいと思ったぜ」
「……そうかよ」
つられるように笑い、付け加える。
「醤油がいつも使ってるやつと違うから、味がちょっと違かったんだ。うちで作ったのは、もっとうまいぞ」
「お、そうなのか? じゃあ、今度食べに来よーっと」
ずうずうしいやつだ。でも、今は、その図々しさも悪くないと思えたのだった。
晩飯は生姜焼きか。それと……馬刺しだ。
「馬刺しのために、ショウガをたっぷりすったからね」
母さんは笑う。なるほど、それで生姜焼き。
「今日は疲れただろう。馬刺し、元気が出るぞ~」
父さんはうきうきと芋焼酎を準備している。
「いただきます」
まずは生姜焼きを食おう。いつもよりショウガがたっぷりで爽やかだ。醤油の香ばしさと砂糖の甘味のバランスがよく、やわらかい豚肉にたれがしっかり絡むと……ご飯が進む。うまいなあ。やっぱ誰かが作ってくれる飯はうまい。
マヨネーズをつけるとまったりして食べ応えが増す。キャベツを一緒にくるめば、みずみずしさも相まって、最高にうまい。
「馬刺し、ちょっとちょうだい」
「いいぞー。たんと食え」
濃くドロッとした馬刺しの醤油にショウガをたっぷり入れ、それに浸して食べる。甘めだが、どこがガツンとくる香りの醤油、それなりに噛み応えのある肉、生々しいひんやりとした口当たり、鼻に抜ける独特の風味。おお、馬刺しだ。おかずになるかと言われると何とも言えないが、この味は好きだ。
馬肉のユッケ、好きなんだよなあ。あれならご飯のおかずにできると思う。よっしゃ、作ろ。
馬刺し醤油にニンニクを刻み入れ、しょうがも入れ、そこに卵黄。このたれに着ければ即席ユッケの完成だ。かいわれも一緒に食べよう。
卵黄によってより濃厚さを増した醤油。すくい上げるようにして馬刺しにつけ、かいわれを巻いて、食べる。
ああ、これこれ。この味だよ。馬刺しの癖のある感じが幾分か和らぎつつも、うま味はちゃんと残っている。いや、それどころか醤油のコクと卵黄のまろやかさでうま味が増し、しかもそこにニンニクの香りとしょうがのさわやかさが相まってたまらないおいしさだ。
それをきりっとまとめる、かいわれのみずみずしさと強すぎない辛み。最高に飯に合う。
「そのたれ、少しもらっていい?」
「あ、私も~」
「ん」
父さんと母さんもたれを気に入ったらしい。酒にも合うんだな。そりゃそうだ。ユッケは酒の肴として店ではメニューに書かれていたのだ。
酒の肴になるものは、白米にも合うらしい。逆もそうなのだろうか。
さすがに酒を飲むことはできないが……酒の肴で白米に合うものは他にもあるのだろうか。あ、からあげもまさしくそうだな。
いろいろ試してみる余地ありだなぁ、これは。
「ごちそうさまでした」
家庭科室を離れて、大きく息をつく。なんだか、長い間息を止めていた気分だ。
「俺は楽しかったぞ!」
隣を歩く咲良は、にこにことまるで疲労を感じさせない笑みを浮かべて言った。
「からあげうまかったな~」
「まあ、うまかったけど……」
「作るときはちょっと大変だったかな?」
のんきに言いやがって。しかし、説明を一手に担ってもらった身としてはあまり文句は言えない。
例の料理教室は、思ったよりも大変だった。
部員の方々よりも一足先に家庭科室へ向かい、材料の確認とレシピのコピーの配布をしておいた。これ、やっといてよかったと、しみじみ思う。
なにせ、部員が集まる時間はまちまちで、しかも、全員そろってから始めるというものだから、結構時間が押したのだ。
「時間になったら始めればいいのにねぇ」
これは、早瀬のお姉さんの言葉である。そもそも集合時間が決まっているのだから、その時間になったら始めればいいのだ。先輩の言うとおりである。
始まってみれば、思いのほか咲良の説明が手際よく、その辺はよかった。まあ、知り合いがいたらしく、テンションが上がりまくっていたので、落ち着きはなかったな。これは想定内ということで。
家庭科室には教卓の代わりというべきか、大きめのシンクが前に一つある。そこである程度の調理工程を説明してから、実際に作る、という感じで事を進めた。
「一条先輩、やっぱりさすがの手さばきですね!」
逐一、きらきらした目を向けてくる橘にはやりづらかったが……
「橘はさ、一条に夢中だったよな」
「あ?」
咲良がいたずらっ子のように笑って言った。
「料理作ることよりも、春都が料理してるとこ見るのが楽しいってかんじ」
「そうなのか?」
「だから、手元が危なかったんだよ」
その言葉に、ああ、と思い当たる節があった。
妙に集中力がないな、と橘を見て思った。
どこか上の空というか、別に気になることがあるみたいで、物を落としそうになったり手を切りそうになったり……とにかく、危なっかしくてしょうがなかった。
こっちはこっちで料理を仕上げながら教えないといけなかったので、周りを見る余裕はほとんどなかった。そういう時は咲良が見て回っていたが……
「まさか俺を見ていたから集中力がなかったとは」
「あはは。でもさー、興味津々なの、分かるなあ。いつも学校で会ってるやつが、妙に手慣れた感じで料理してると、つい見るもん。先輩とかだと、なおさらさぁ」
確かにそれは否定できない。普段、冴えない感じの同級生が、めちゃくちゃ運動神経よかったり、特定の科目とか競技で目立ったりすると、つい見てしまうもんな。
しかし俺には、そこまで夢中にさせるほどの技量はないと思うのだが。
こちらが一段落ついたところで、あちこちからお呼びがかかった。
千切りがしづらいとか、粉の量がよく分からないとか、色々聞かれたが一番助けを求められたのはあれだな、油跳ね。
そりゃ揚げ物だし、水分もそれなりにあるから油跳ねはする。慣れないうちは確かに怖いよな。分かるよ。俺だってそうだった。突然爆発するかもしれないし、細かく飛び散る油は思いのほか痛い。
しかしそれをほとんどの班から言われ、結局、そのほとんどの班の手伝いをすれば、自分で頑張ってくれと言いたくなるのだ。それを練習するための今日だろう、と。
当然、自力で頑張っている班もあった。火加減だけはとんでもないことをしていたので教えたが、あとはなんとかできていたようである。橘の班には早瀬先輩もいたが、あのままやっていたら、からあげではなく炭が誕生していたかもしれない。うまくできてよかった。
校門を出て、咲良はスマホを取り出した。
「勝手にレシピ変えてるやつらいたよな。ゴマ油入れてたっけ?」
「ああ……」
「こっちの方がうまいよな! ……なんて言ってさあ。俺、レシピ作ったわけじゃないけど、ちょっとムッとしたもん。おいしいかもしんないけどさあ……なんか、違うじゃん、そういうの」
そして咲良はスマホをポケットにしまい、そのまま手も突っ込むと、こちらを向いて屈託なく笑った。
「俺、春都のレシピで作ったからあげが、一番うまいと思ったぜ」
「……そうかよ」
つられるように笑い、付け加える。
「醤油がいつも使ってるやつと違うから、味がちょっと違かったんだ。うちで作ったのは、もっとうまいぞ」
「お、そうなのか? じゃあ、今度食べに来よーっと」
ずうずうしいやつだ。でも、今は、その図々しさも悪くないと思えたのだった。
晩飯は生姜焼きか。それと……馬刺しだ。
「馬刺しのために、ショウガをたっぷりすったからね」
母さんは笑う。なるほど、それで生姜焼き。
「今日は疲れただろう。馬刺し、元気が出るぞ~」
父さんはうきうきと芋焼酎を準備している。
「いただきます」
まずは生姜焼きを食おう。いつもよりショウガがたっぷりで爽やかだ。醤油の香ばしさと砂糖の甘味のバランスがよく、やわらかい豚肉にたれがしっかり絡むと……ご飯が進む。うまいなあ。やっぱ誰かが作ってくれる飯はうまい。
マヨネーズをつけるとまったりして食べ応えが増す。キャベツを一緒にくるめば、みずみずしさも相まって、最高にうまい。
「馬刺し、ちょっとちょうだい」
「いいぞー。たんと食え」
濃くドロッとした馬刺しの醤油にショウガをたっぷり入れ、それに浸して食べる。甘めだが、どこがガツンとくる香りの醤油、それなりに噛み応えのある肉、生々しいひんやりとした口当たり、鼻に抜ける独特の風味。おお、馬刺しだ。おかずになるかと言われると何とも言えないが、この味は好きだ。
馬肉のユッケ、好きなんだよなあ。あれならご飯のおかずにできると思う。よっしゃ、作ろ。
馬刺し醤油にニンニクを刻み入れ、しょうがも入れ、そこに卵黄。このたれに着ければ即席ユッケの完成だ。かいわれも一緒に食べよう。
卵黄によってより濃厚さを増した醤油。すくい上げるようにして馬刺しにつけ、かいわれを巻いて、食べる。
ああ、これこれ。この味だよ。馬刺しの癖のある感じが幾分か和らぎつつも、うま味はちゃんと残っている。いや、それどころか醤油のコクと卵黄のまろやかさでうま味が増し、しかもそこにニンニクの香りとしょうがのさわやかさが相まってたまらないおいしさだ。
それをきりっとまとめる、かいわれのみずみずしさと強すぎない辛み。最高に飯に合う。
「そのたれ、少しもらっていい?」
「あ、私も~」
「ん」
父さんと母さんもたれを気に入ったらしい。酒にも合うんだな。そりゃそうだ。ユッケは酒の肴として店ではメニューに書かれていたのだ。
酒の肴になるものは、白米にも合うらしい。逆もそうなのだろうか。
さすがに酒を飲むことはできないが……酒の肴で白米に合うものは他にもあるのだろうか。あ、からあげもまさしくそうだな。
いろいろ試してみる余地ありだなぁ、これは。
「ごちそうさまでした」
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