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日常
第五百五十九話 チョコレート博覧会
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早朝、デパートの前にはずらりと列ができていた。
「まさかこれに並ぶ日が来るとは……」
こんな早い時間から街にいたことがないものだから、なんだか新鮮な気分だ。デパートの入り口には大きな看板が設置されていて、『チョコレート博覧会』の文字が躍っている。
「なー、百瀬ぇ。やっぱこんな朝早くから並ぶもんなの?」
大あくびをした後、咲良が言った。行きのバスと電車の中でこいつ、爆睡してたもんなあ。朝比奈は慣れているのか、もう達観したような目をしている。
女性客が多い列の中で、背の高い二人はよく目立つ。
「あたりまえでしょー。人気のやつは、すぐに売り切れるんだから」
百瀬はリュックサックからなんか紙みたいなのを取り出した。館内マップ……が、三枚?
「はーい、これ、君たちの割り当てね~。これは一条、で、こっちが井上でー、貴志はこれ」
百瀬に渡された館内マップを見てみる。なになに……バレンタインのチョコレート博覧会特別マップ? ああ、店の一覧と並びか。迷子になりそう。ん? なんか線が引いてある。
「あれ、春都のと俺の、なんか違う」
「ちょ、咲良の見せて」
ああ、ほんとだ。確かに、線が引かれている場所が違う。何だろうかと首をひねっていたら、すでに自分の世界に入り込んでしまった百瀬に代わって朝比奈が言った。
「一番効率的な店の周り方だ。百瀬が経験から割り出した、最もスムーズに、かつ確実に商品を確保できるルートなんだ」
「へえぇ……すげえな」
咲良は素直に驚いて、感心したように言った。
「こりゃあ、頑張らないとなあ、春都」
「俺は迷子にならねえようにする」
そう言うと、咲良は笑った。
「地図あるし、大丈夫だろ」
「俺はスマホのナビを使って道に迷ったことがあるからな」
まあ、何とかするしかない。
それからしばらくして、開場された。軍資金も渡されたことだし、もう頑張るしかないな。
人でごった返す地下は、甘い匂いときらめき、それと楽しげなざわめきで充満していた。何軒か回ったら、だいぶ慣れてきたけど、まるで夢の中にいるかのような、ふわふわした気分である。
「マカロンセットと……えっと、これ、オランジェット? 下さい」
「かしこまりました。ラッピングはどうなさいますか?」
「あ、いらないです。大丈夫です」
百瀬から渡された地図には、注意事項も書かれていた。特に強調されていたのはこれだ。
『ラッピングはいらないから、とにかく手早く回ってくれ』
ラッピングを待っている時間も惜しい、ってことらしい。
「ありがとうございましたー」
商品を受け取って、次の店に向かう。道順がしっかり示されていたから、迷う心配はなかった。
「にしてもすごいな、百瀬のマップ……」
並ぶこともなければ、在庫に不安もない。的確な順番なのだなあ、と実感する。
「お、一条。どこまで買った?」
途中で朝比奈とすれ違う。長時間立ち止まれはしないが、少しだけ言葉を交わした。
「残り三店舗くらいだな。朝比奈は?」
「俺はあと一店舗」
「手際いいなあ」
「……嫌でも慣れる」
そのつぶやきには、今日だけでなく、毎年蓄積されてきた疲労と諦めの色が見えた。
朝比奈と別れた後、和菓子専門店の限定チョコレートを買いに行く。抹茶かあ……抹茶味って店によって当たりはずれがあるからな。きっとここのは、おいしいんだろうな。
それにしてもいろんな店があるんだな。テレビで紹介されていたのはほんの一部に過ぎないようだ。百瀬、全店舗のチョコレート制覇するつもりらしいし、手がいるのも当然か。いったい貯金はいくらあるんだろう。
それからもこれといった問題もなく、与えられた仕事はこなした。地下街を出て、待ち合わせ場所である広場へ向かう。
外の冷たい空気が、今は心地いい。ベンチに座り、目の前を行く人波を見ていると、自分がここにいるのが不思議な気分がしてくる。せわしない歩みの人、のんびりと談笑しながら行く人、店に入っていく人、出ていく人。目まぐるしく変わっていく景色を見ていると、いつも自分が見ている景色がスローモーションのようにさえ思えてくる。
「っはー……くたびれた」
もう一度、買ったものを確認する。再三確認はしたが、買い忘れがあると大変だからな。
「よし、オッケー」
「あぁーっ! 疲れた!」
盛大なため息をつきながら、咲良がやってきた。
「チョコレートってこんな大変な思いして買うものなの?」
「まあ、いろんな種類があるからな」
「朝比奈と百瀬はもう少ししたら来るってさ。最後の店に並んでた」
「ああ、そうか」
咲良は隣に座ると、背もたれにぐったりと身を預けた。
それからお互いに喋る気力もあまりなく、ぼんやりとしていた。朝比奈と百瀬が帰ってくる頃には少し回復はしていたが、それでもまだ疲労はたまっている。
「お疲れー! ご協力、感謝する!」
そう言う百瀬は来た時よりも元気そうだ。すげえなあ、その体力はいったいどこから来るんだろうか。
朝比奈は百瀬から荷物を受け取ると、すぐ近くのベンチに座った。百瀬はにこにこ笑いながら何かを差し出してきた。
「はい、お礼。今日はほんと、感謝してるよ~」
どうやらホットチョコレートとお菓子のセットらしい。実に甘そうだが、心底くたびれた今の体にはちょうどよさそうである。
「おお、ありがとな」
「俺もたーべよっと」
百瀬は朝比奈の隣に座った。
「いただきます」
ホットチョコレートって、初めてかもなあ。溶けたチョコレートをなめたことはあるが、わざわざ溶かしたチョコレートは飲んだことがない。
あ、なにこれ。めっちゃうまい。ただ単にチョコレートを溶かしたってだけじゃないんだな。見た目はココアにも似ているが、味わいは全然違う。濃厚でとろみがあって、チョコレートの風味がぶわっと花開く感じだ。ほんとにこれは、花開くって表現がよく似合う。
上にのっている生クリームのふわふわもうまい。これを合わせると、チョコレートアイスっぽい風味になる。削ったチョコレートはほんのりビターで、食感の違いもまた楽しい。
お菓子は……クッキーだ。ブラックココアに薄切りのナッツが入っているのか。これ絶対うまいじゃん。
サクッと香ばしく、ほろっとした舌触り。ココアの風味がしっかりしつつ、苦みもあって甘いホットチョコレートに合う。一緒に飲むと、クッキーがまるで焼きたてのように感じる。シュワっとほどけて、気分も体も緩むようだ。
これにまたナッツが効いてる。パリッとカリッとしてて、たまらなく香ばしい。チョコレートとかココアとか、そういう味とナッツってよく合う。
「で、これからもう帰るのか?」
咲良が聞くと、百瀬はにっこりと笑い、朝比奈はゆっくりと首を横に振った。百瀬は言った。
「近くに有名なチョコレート専門店があるから、そこにも行くよ! 手頃な値段で、おいしいんだ~。大丈夫! そこは人多くないから!」
まだ行くんだ。元気だなあ……
まあでも、たまにはいいな、こういうのも。疲れるけど、楽しい。
ほんと、たまにだからな……
「ごちそうさまでした」
「まさかこれに並ぶ日が来るとは……」
こんな早い時間から街にいたことがないものだから、なんだか新鮮な気分だ。デパートの入り口には大きな看板が設置されていて、『チョコレート博覧会』の文字が躍っている。
「なー、百瀬ぇ。やっぱこんな朝早くから並ぶもんなの?」
大あくびをした後、咲良が言った。行きのバスと電車の中でこいつ、爆睡してたもんなあ。朝比奈は慣れているのか、もう達観したような目をしている。
女性客が多い列の中で、背の高い二人はよく目立つ。
「あたりまえでしょー。人気のやつは、すぐに売り切れるんだから」
百瀬はリュックサックからなんか紙みたいなのを取り出した。館内マップ……が、三枚?
「はーい、これ、君たちの割り当てね~。これは一条、で、こっちが井上でー、貴志はこれ」
百瀬に渡された館内マップを見てみる。なになに……バレンタインのチョコレート博覧会特別マップ? ああ、店の一覧と並びか。迷子になりそう。ん? なんか線が引いてある。
「あれ、春都のと俺の、なんか違う」
「ちょ、咲良の見せて」
ああ、ほんとだ。確かに、線が引かれている場所が違う。何だろうかと首をひねっていたら、すでに自分の世界に入り込んでしまった百瀬に代わって朝比奈が言った。
「一番効率的な店の周り方だ。百瀬が経験から割り出した、最もスムーズに、かつ確実に商品を確保できるルートなんだ」
「へえぇ……すげえな」
咲良は素直に驚いて、感心したように言った。
「こりゃあ、頑張らないとなあ、春都」
「俺は迷子にならねえようにする」
そう言うと、咲良は笑った。
「地図あるし、大丈夫だろ」
「俺はスマホのナビを使って道に迷ったことがあるからな」
まあ、何とかするしかない。
それからしばらくして、開場された。軍資金も渡されたことだし、もう頑張るしかないな。
人でごった返す地下は、甘い匂いときらめき、それと楽しげなざわめきで充満していた。何軒か回ったら、だいぶ慣れてきたけど、まるで夢の中にいるかのような、ふわふわした気分である。
「マカロンセットと……えっと、これ、オランジェット? 下さい」
「かしこまりました。ラッピングはどうなさいますか?」
「あ、いらないです。大丈夫です」
百瀬から渡された地図には、注意事項も書かれていた。特に強調されていたのはこれだ。
『ラッピングはいらないから、とにかく手早く回ってくれ』
ラッピングを待っている時間も惜しい、ってことらしい。
「ありがとうございましたー」
商品を受け取って、次の店に向かう。道順がしっかり示されていたから、迷う心配はなかった。
「にしてもすごいな、百瀬のマップ……」
並ぶこともなければ、在庫に不安もない。的確な順番なのだなあ、と実感する。
「お、一条。どこまで買った?」
途中で朝比奈とすれ違う。長時間立ち止まれはしないが、少しだけ言葉を交わした。
「残り三店舗くらいだな。朝比奈は?」
「俺はあと一店舗」
「手際いいなあ」
「……嫌でも慣れる」
そのつぶやきには、今日だけでなく、毎年蓄積されてきた疲労と諦めの色が見えた。
朝比奈と別れた後、和菓子専門店の限定チョコレートを買いに行く。抹茶かあ……抹茶味って店によって当たりはずれがあるからな。きっとここのは、おいしいんだろうな。
それにしてもいろんな店があるんだな。テレビで紹介されていたのはほんの一部に過ぎないようだ。百瀬、全店舗のチョコレート制覇するつもりらしいし、手がいるのも当然か。いったい貯金はいくらあるんだろう。
それからもこれといった問題もなく、与えられた仕事はこなした。地下街を出て、待ち合わせ場所である広場へ向かう。
外の冷たい空気が、今は心地いい。ベンチに座り、目の前を行く人波を見ていると、自分がここにいるのが不思議な気分がしてくる。せわしない歩みの人、のんびりと談笑しながら行く人、店に入っていく人、出ていく人。目まぐるしく変わっていく景色を見ていると、いつも自分が見ている景色がスローモーションのようにさえ思えてくる。
「っはー……くたびれた」
もう一度、買ったものを確認する。再三確認はしたが、買い忘れがあると大変だからな。
「よし、オッケー」
「あぁーっ! 疲れた!」
盛大なため息をつきながら、咲良がやってきた。
「チョコレートってこんな大変な思いして買うものなの?」
「まあ、いろんな種類があるからな」
「朝比奈と百瀬はもう少ししたら来るってさ。最後の店に並んでた」
「ああ、そうか」
咲良は隣に座ると、背もたれにぐったりと身を預けた。
それからお互いに喋る気力もあまりなく、ぼんやりとしていた。朝比奈と百瀬が帰ってくる頃には少し回復はしていたが、それでもまだ疲労はたまっている。
「お疲れー! ご協力、感謝する!」
そう言う百瀬は来た時よりも元気そうだ。すげえなあ、その体力はいったいどこから来るんだろうか。
朝比奈は百瀬から荷物を受け取ると、すぐ近くのベンチに座った。百瀬はにこにこ笑いながら何かを差し出してきた。
「はい、お礼。今日はほんと、感謝してるよ~」
どうやらホットチョコレートとお菓子のセットらしい。実に甘そうだが、心底くたびれた今の体にはちょうどよさそうである。
「おお、ありがとな」
「俺もたーべよっと」
百瀬は朝比奈の隣に座った。
「いただきます」
ホットチョコレートって、初めてかもなあ。溶けたチョコレートをなめたことはあるが、わざわざ溶かしたチョコレートは飲んだことがない。
あ、なにこれ。めっちゃうまい。ただ単にチョコレートを溶かしたってだけじゃないんだな。見た目はココアにも似ているが、味わいは全然違う。濃厚でとろみがあって、チョコレートの風味がぶわっと花開く感じだ。ほんとにこれは、花開くって表現がよく似合う。
上にのっている生クリームのふわふわもうまい。これを合わせると、チョコレートアイスっぽい風味になる。削ったチョコレートはほんのりビターで、食感の違いもまた楽しい。
お菓子は……クッキーだ。ブラックココアに薄切りのナッツが入っているのか。これ絶対うまいじゃん。
サクッと香ばしく、ほろっとした舌触り。ココアの風味がしっかりしつつ、苦みもあって甘いホットチョコレートに合う。一緒に飲むと、クッキーがまるで焼きたてのように感じる。シュワっとほどけて、気分も体も緩むようだ。
これにまたナッツが効いてる。パリッとカリッとしてて、たまらなく香ばしい。チョコレートとかココアとか、そういう味とナッツってよく合う。
「で、これからもう帰るのか?」
咲良が聞くと、百瀬はにっこりと笑い、朝比奈はゆっくりと首を横に振った。百瀬は言った。
「近くに有名なチョコレート専門店があるから、そこにも行くよ! 手頃な値段で、おいしいんだ~。大丈夫! そこは人多くないから!」
まだ行くんだ。元気だなあ……
まあでも、たまにはいいな、こういうのも。疲れるけど、楽しい。
ほんと、たまにだからな……
「ごちそうさまでした」
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