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(36) 記録(7)
しおりを挟むゲルトヒーデルという人間は、立派な人だ。すくなくとも、表面上はそうであろうとしている。
ケウス・マクラウド=諒子、あるいは家系紀呼という人間にとって、そのことは重要だった。
人を尊敬できるか。その人の努力がむくわれてほしいと思うのであるか。
そのことも、重要ではあった。
(自由をあたえられているからこそ、節度が重要……詩的だなー)
後遺症めいていて、ぴりぴりするこめかみ……洗浄処置のあと、体質か、諒子にはそういう自覚症状がのこった、を気にしながら、ぎし、と椅子を鳴らした。
机の上には、さっぱりすすまない宿題が広がっている。理数科目の計算法が目のはしにこびりついているようだった。
集中できるわけもなかったが、諒子は、そうせざるを得ないのをみとめる顔をした。
自分の思ったことがそのままノートのはしに書き出されている。これは、人格矯正の治療の際に、クセとして身につけるよう施術されたためだった。
施術といっても、投薬や、外科的手術ばかりではない。精神的な面からくる「病」なら、そういう施術も、またあるということだった。
諒子の担当医の口ぐせだった。昔は彼のことが嫌いだったが、付き合いが長くなれば、いい面、わるい面が見えてきて対処法が身についた。身につくと、その人自身に対する感情も悪くなくなる。
ましてや、個人だった。昔の諒子は、人を人として見ていなかった。群体として見ていた。大枠といってもいいが、そんな病だった。
「ふっ」
と、ため息をついたことに自己嫌悪して、ほほをひきつらせる。
だいぶ顔の筋肉がかたくなっているようではあった。昔よりましになったとはいえ、人並みに人様とおなじようなていどの感情表現。
それがむずかしかった。いまは、できるとはいえ。
ぎっとアルバムの表紙を見ずに、なでさする。
反すうするために近くに置くように言われている。中身は見ないようにする。
昔の諒子というのは、まず、表情のない子供だった。むすっとしているというのとは違って、不自然な無表情さである。それが不気味さを生んで、一部の変わった友人、いまの麻衣子……数少ない友人の一人だ、をのぞいては意識的に近寄らなかった。
いつもぴかぴかのシャツを着ていて、ひとりか麻衣子とふたりでおり、手をつないでいて、人を見たり見なかったりしていた。
人を見ているときは、まっくらな節穴めいた琥珀色の目がじっと対象を見ている。子供らしいかわいらしさがかけらもないまなざしだった。
アルバムの写真に写っているのも、そういう自分である。それは、諒子も認識していた。
「……すー」
意識して深呼吸をし、腕をのばした。
いくらか、こめかみの疼痛がうすらぐ。
「はあい」
母が、階下から呼んだので、あけっぱなしの扉ごしに返事する。今日は季節はずれに暑いが、諒子の部屋には冷房がない。諒子自身が、クーラーの冷気に弱かった。
外では注意して行動している。家では、諒子の体に配慮して冷房を部分的に使っていた。扇風機は止まっている。
急な風や冷気を当てられる、というのが駄目というよりは敏感で、肌がぞわぞわする。
ひやりとした雨や冷気、というならそれは、近ごろ夜に身をさらしているあのおそろしい場所に近かった。
「……」
気をぬいたシャツ。留まったボタン。
気がつくと、第二ボタンあたりをとんとんとたたいていた。諒子は嫌気がさすのを感じた。母に呼ばれた用事をしに、階下に下りようと思う。
麻衣子に、携帯電話のことで嘘を言ったのを思い出す。例の連絡に使うもので、ポケベルともども、持ち歩かないといけない。しかし、当然私的な利用は自分の判断のみでやるわけにはいかない。ゲルトヒーデルに相談したところ、教えてもかまわない、とあとで諒解を得たものの、最近麻衣子と会って、携帯電話のことを聞かれたときとっさに嘘をついて気まずくなってしまったことがある。いや、嘘というほどのことではないが、諒子のなかでは麻衣子に嘘をついたとカテゴライズされた。
そもそも電話を持ったと気がついたのも、見せたり話したりしたわけでなく、麻衣子が勘がよくて気づいてしまった、というだけで諒子に落ち度はない。
背の高い、弓道をやっていてよく鍛えている体つきの友人を思いつつ、そんな場合でもないとすぐ思考をうつした。
部屋を出るとき、かざっている家族写真が目にはいる。母と父、歳のはなれた兄に自分。
五歳くらいの頃だったか。
信じがたいことだが、そのころの記憶から、諒子は自分がこの家の娘でないことに気づいていて、なぜか確信していた。
両親はいまにいたるまでそのことを諒子に言っていないが、あとあと、ちょっとしたことかあって、その確信は事実なのだと諒子に気づかせることがあった。そのときは悲しくて何日か勝手に涙が出た。
だが、大きくはなかった。それでもおおげさに悲しむことができる、そんな小狡いところが諒子は自分の中にある、とわかっている。
机をはなれて、ちょっと体をのばしながら、階下におりる。母の手伝いをすませて、解放されてからポケベルを見やる。
今夜の予定だろう。
洗ったばかりの手が、外気でひんやりしていた。両親が、自分にいつ戸籍のことを(どうなっているか見せてもらったことはない。が、いずれ見せなければならないタイミングは両親もわかっているはずだ)言うのか、それはわからない。
それまで命を損なうというのは、心残りである、という顔をそのときの諒子はしていた。
自分の凶暴性とエイブリーについて、部屋を入って電話を終えてからふと思う。電話に関しては、伝え手側がいつも心得ていて、諒子はメモを取りながら二、三回うなずくだけでよかった。
エイブリー、わけのわからないもの。ウィルトシャー、エイブリーの石、というのが、由来のわからないとされるストーンサークルだというのはオカルトでは有名な話らしい。
ゲルトヒーデルが、そういう横道をはぶいて説明するタイプなため、諒子はゲンコとの雑談でその豆知識は知った。ゲンコは、むしろゲルトヒーデルがそうであるように余計なことを好まない人であるように思うが、けっこうそういう人だった。彼女のことを知っているらしいゲルトヒーデルによれば、もともとの彼女の人格はああではなく、いまは「普通でない」状態だという。
むろん、諒子には関係ない話であることは承知していて、なぜ自分に話したのか、意味はあるはずだ、と諒子はわりとまじめに考えている。
「はあー、?」
諒子は、疑問符を音に出しながら、頭ではずれたことを考えた。
左目の近くに、シワのような線がのこったあたりを意識する。ある時期までの諒子の写真には、その線はない。
昔、祖母の美以子と友人のヨハネ、ふたりに身体の動かし方を習うようになる前、諒子は麻衣子をよく暴力で傷つける子供だった。
とくに前触れもなく、危険なことやなにかおびえた反応を引き出すために縫い針の先でつつく真似をしてみるとか……けっこうな異常とおもわれるていどのことだ。わざとよどんだ川に突き落としたり、虫を食べるようせまったこともあったはずだ。
そういう自分のやったことと言うのは記憶がおぼろげになるが、諒子の脳は昨日やったように認知するところがある。
それは異常なのだよ、と、やんわり彼女の担当医は教えた。いまは素直に異常なのだ、とうけいれる柔軟性がなんとかそなわってある。
「うん」
咳払い。
それはそれとして、ある日のことだ。そんな前振りがあって、ついに事件を一つやった。被害者はまたぞろ麻衣子だ。
彼女の腕にはそのときの傷がちいさく残っている。そのせいで、諒子の前では露出のすくない格好で夏もいる。
裁縫に使う糸切りバサミがあるが、あれが刺さった傷だ。あの日、ふたりでいた経緯はなぜか忘れてしまったが、たぶん、感情が昂ったときに忘れたのだろう、と担当医の彼は言っている。
とまれ、その日麻衣子が激しい口答えをしたのだ。それに激昂したのだろう諒子はくだんのハサミで結果として二の腕を刺した。麻衣子が、腕を上げていたためだが、そうでなかったら、左目を傷つけていた。
さすがに事件沙汰になって、麻衣子と諒子はひきはなされた。
その後、母の田舎にある祖母の美以子に諒子はあずけられた。そこでようやく更生にむかった。運よく、といっていいのか、美以子が友人のヨハネにも頼みこんでこの孫をどうにかしようと心をくだいてくれた。そのことには感謝しかない。
もどってこれるようになったのは、三年後のことだった。十三歳で、一年おくれで私立中学校に入学した諒子はその足で麻衣子に謝りに行った。
とうてい仲直りなどできないはずだったが、そのあと麻衣子は許してくれ、また友人にさえなってくれた。その真心とよべるのをうたがうことはあってはならないが、諒子はいまも麻衣子が自分を許したというのは嘘で、いまに彼女からなにかの意趣返し、それもなにか致命的な、をうけるのだと考えてしまってならない。
自罰的な発想、ともいえるが、そうではなく、具体的な予感となって、諒子をときどき悪夢に落としているそれは、きっと実現するだろう。
(いやだな)
いやだな、と、ノートの端にまた書いている。
そこまでやって、諒子はシャーペンを投げ出した。
現在的なことを考えだす。
待ちうける、嫌なことではなく、実際にさしせまっているものだ。
エイブリーと、それに選ばれたという話だ。
選ばれた、というのも身勝手な話なのだが、自分をとりまく環境……というより、状況は一転した。
本来そういうことはない。だが、あるかもしれない。
そういった、あやふやでまちがった原理が「オカルト」で現実に存在するSFなんだとか。
(もしこれがSFっていうんならさ、もっと、考証とか考察とかできるはず)
オカルトとはそれさえもないもの。
とにかく。
行かなくてはならない。
やらなくてはいけないかは、べつとして。
諒子はあくびをした自分を嫌がった。ノートへの書き込みは、もっと増えていた。宿題も終わったことだ。泥のように眠って夜を待つ。
それしかできない。
それは、諒子にとって焦燥と恐怖で、身に痺れをきたすほど、真に迫っていなかった。あとで、このこともノートに書いておかなければならない。
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