インナースペース・ネクロノミコン 〜ポケベルと白い血肉と円卓の騎士

地ゐ聞

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(30) 電気羊の夢(3)

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 病床にいたのだ。
 わりと長いこと。


 臥せっていたころのことは、ほぼ覚えていない。かろうじて、まわりの風景くらいは残っている。
 薬臭く、清潔で、目にふれるものが果物くらい新鮮でなかったころ。ようやく具体的な記憶がはじまる。
 そのことについてむしかえすことはない。生きているという記憶であり、死んでいないという記録であり、うちすてられた実験結果であり。
 そもそも、生きている、死んでいる、死んでしまった、と、だれか自分に教える者はいたかどうか。
 教えられたとして、ごくごく単純な意味で言葉を理解できる脳だったか。
 点滴につながれた腕。針の痛み。ながれこんでくる薬品の不愉快さ。自分の身体になにかをうめこむという苦しさ。
 ベッドの上だけにいる孤独さ。病室の壁や天井を見飽きる冷たさ。なにもかも理解できず、言葉にできることはない。
 だから、なにひとつ枯れ木のようにやせほそった身体にはなかった。
 そのため苦しみはなかった。恐怖もなかった。沈みこんでいく暗闇だけ、いつもいつからか頭のすみに染みついていた。
 自分以外がいなければ、それはそれだけですんでいたのだが。いや、言うことではない。むしろ、周囲の予想より長く生きすぎていた。
 そういえば思いだされるのは、おなじ病院にいた男の子だった。
 八歳のころだか、九歳のころだったか。
 男の子は十五歳はいっていて、かなり年上だった。はじめて会ったときは、重い病気をわずらっていたがくわしくは今も知らない。
 自分は、その歳でもう彼に好意をいだいていて、初恋と言っていい。きっかけといったことではない。話して、優しくされた。彼が異性で数回もかかわって気になった。動機としてはそんな話だ。
 ほかの子供たちとは、そもそも会う回数じたいが少なかった。だから、なじまないのは自分だけの理由ではなかったが、重要でもない。
 ある日、そんな折に気になっていた男子が身奇麗な女の子と話していた。見舞いにきた子であるらしい。賢そうで、健康そうで、なにより綺麗だった。
 なんとなく察したのは女の子と彼は、親しい関係にあるということだった。病状が重要な局面にあった彼が、いろいろな人にあいさつをしていたころであったようだ。あとから聞いた話によると。
 大事な手術にのぞんで、どうやらうまくいったらしい彼が、二ヶ月ほどして病院をはなれることになった。
 そのときも身奇麗な女の子は、彼につきそっていた。優しげでわきまえていて、自分などよりずっと、と、そのときの自分は思ったものだった。
 外の世界などろくに知らない、そのころの自分にも二人の関係はわかった。事実、そうであったらしい。
 男の子は転院していって、それきりだった。手術がうまくいき、これからは好転するようすを見るための入院に専念する、とまわりから聞いたのにほっとしたのは、たしかだ。
 それが、彼が容態を回復し、これから明るい場所へ出て暮らしていくということがなんとなく察せられたためか、それとももうひとりの彼女となかよく過ごすところが見ずにすむためかは、わからない。
 どちらにせよ、これ以上見ない。そのことは、当然すぎることとして受け取っていた。受け入れていたわけではない。
 そんな言葉も、実感も知らなかった。そう言える。
 痛みを実感する体験は過ぎた。記憶としては残った。
 依然として、自分の体は不格好だった。そう思うことが嫌で嫌で、寝床から起き上がることよりは嫌いではなかった。
 好き、嫌いといった思考がどうにか定着したのはそこから起き上がってもよくなってからのことだ。だから、いまそうだったと思うのは、ただ、思いかえしてあれはそうだった……と定義するからにすぎない。
 何も知らないまま、死にかけるのが十何度もつづいた。生まれつき虚弱で、生き続けるのも困難な体は内臓の活動も、ままならず投薬と、現状維持的な治療がつづいた。
 断っておくが、自分をどうにかしていた医師たちも治そうとしなかったわけではない。たんにどうにもならなかった。
 ただただ延命していたわけではなく、それを行っていたほうにも理由はあった。方向性があったというのが、だらだらと生き続けさせた要因ではあった。
 生命活動の継続がどうにか、可能らしいと判断すると研究を再開したのだ。
 特殊な素養があったのだから、どうせ生きているなら活用するのがのちのちのためになる。
 非人道的という話ではなく、それだけの価値を認めたし、認めるほどゲンコ・オブライアン、とあとから名乗る名無しの人間。
 ■■・■■■■。または■■■■■。
 放棄や破棄をあらわす意味合いの、存在しない古代の言語で編まれたスラング。
 決して嫌味で名づけられたわけではない、研究をおこなっていた彼らが、当然のこととしてわりふった。
 タエコ・イソーテという特別な人間の素養を微量でも受けついだ、価値のある身体に称賛を送ったのだ。
 ただそこにいるだけで褒められる人間など、この世にいるだろうか?
 いるのであれば、人間ではない。
 それは物体であり、肉でできているのなら肉のかたまりである。
 血と老廃物の詰まった有機物の袋であると、判断する側が判断するのは、ごく自然なことである。
 そんな調子でいつのまにか十年がすぎる。
 自分はしぶとくも生きている。
 そのころに、変化があった。
 正確には十二年か。生まれてそれまで、ベッドにつながれていた。つながれていないと、生きられなかったのだから、ネガティブな言い方をするのは抵抗がある。そのころも、あっただろう。
 女性がやってきた。 
 いい歳といわれる女性だ。
 そのころのタエコ・イソーテというのは、遺伝子提供をされて十何年も経っていたとはいえ、子供がそんなに育っている歳ではない。
 その子供と言いはれば、すぐに養子だとわかった。タエコ・イソーテは見た目も童顔ぎみといえるほど若かったし、なおさらだった。
 その若い顔がさいしょに見たのは、おそろしく平然とした顔だった。生命維持装置、とか言うほどおおげさなものにつつまれていたわけではないが、そのときの姿をゲンコはたまに想像する。
 やせ衰えた髪。しわのついた手足。ベッドずれをしないよう、慎重にととのえられた肌。青白い顔。艶のなくなった瞳、同年代より小さい身体は、ただゲンコを生きながらえさせようとした人々が努力した結果である。
 それもそのころにはさすがに消えようとしていた。実験対象として、用も価値もわりと失せ、しかし、倫理的には人間である。
 カテゴライズが失せた人間を殺したい人はいない。ただ、数年の寿命は確定していた。
 後味が悪かっただろう。
 ショッキングなものを前にした人間は、硬直する。心理的にも、身体的にも。
 一般的に、そういったものが表に出ないのは、慣れていたりこらえていたり、もしくは麻痺していたりするらしい。
 なににせよ、女性はその場でなにかを言うことはなかった。
 彼女が来たときは、ちょうど体調の悪化が認められたところで、ゲンコにとってのそれというのは、死の淵をさまよいかねなかった。ともかく、しぶとくも戻ってきた、ちょうどそこだった。
 最初に自分が感じたことは、覚えていない。
 目も顔もろくに見えなかったその女性は、ゲンコの髪にそっと指でくしをいれて、それ以上は触れなかった。
 自分の環境に変化がおとずれる契機になるのだ、とはもちろん思いもしない。
 一週間後、体調の悪化から持ち直したゲンコは、これからべつの場所にうつされる用意があると告げられた。
 それで、ずいぶんひさしぶりにまともな言葉を発したものだ。自分を見ている医師たちや、看護師たちに発している言葉がまともなものでなかったはずもないが。
 つまるところ、環境に拗ねていたことは間違いない。
 今思えば、不甲斐ないことだった。自分をとりまくものがなんであれ、人間に対する感謝や義務感をうしなったら、結局、人間ではなくなってしまう。
 過度に言わなければ、ろくな人間ではなくなってしまう、とも言える。
 二ヶ月も経って、リハビリの最中に女性の来訪があった。
 そのときにも不思議には思っていた。それまでの最低限の維持とはちがって、まるで外に出るかのようなメニューだったからだ。
 女性は、二ヶ月ちょっとまえにゲンコを見舞いにきたようなあの女性だった。
 初対面であらたまって向かい合い、そこでかわした会話らしいものがなんだったか。
 ともあれ、こんにちは、と無難なあいさつを女性が言ってきた。

「こんにちは」

 と、緊張と不審を感じながら、ゲンコははきはきと答えた。そのぐらいは身についていた。
 周囲に大人か年上しかいなかったから、敬語が身についていた。相手は大人で、一度しか会ったことのない相手だった。
 はじめまして、と、よどみなくその大人は言ってきた。

「私の名前は、タエコ・イソーテと申します。イソーテと覚えてください」

 はい、と素直にゲンコは返して、そのときのまだ変わる前の名前を名乗った。
 キリア・■■■■■。長い名前だ。キリア=カレグラス・メリオタス。または、■■・シウァル。
 パル・シウァル。
 そのどちらもが、自分の名前だった。ふたつのうちのいずれかで呼ばれた。
 なので、女性にはふたつの名前で名乗った。女性、イソーテはとくに逡巡することなくカレグラスとゲンコのことを呼ぶことにした。
 女性はゲンコの目から見ても魅力的といっていい外見だった。ただし、ゲンコ本人の感想としては好きになれず、ともすると嫌悪感を抱くかもしれなかった。
 このときは知らなかったが、彼女がゲンコというクローンのもとになった人間である。 
 であるなら、当然だろう。自分に似た外見を好きになれる人間はいない。
 タエコ・イソーテという女性は、ゲンコにとってずっとそういう人間で、数年ていどだけ母娘としていたようなときも、結局そうだった。
 人間として好感はもてなくとも、関係値としてはべつだった。
 ゲンコ・オブライアンは、その点、被害者よりの人生ではあったが、たしかに薄情で冷たかった。母親以外に情が沸くのを感じたことがない。
 それが許されないことであることは、知らなかった。
 今の名前になったのは、タエコ・イソーテの養子として引き取られることになったころだ。
 あなたの名前を変えるが、いいだろうかと彼女が聞いてきた。ゲンコははい、と答えた。

「いまの名前にとくべつ愛着などはありませんから、問題ありません」
「そう? いい名前だと思うのに」

 わりと無神経なことを言うのに、ゲンコは気にせずに、首をややかしげた。

「名前にいい、わるいってあったんですか?」
「うーん。あなたは、そういうところすこし私に似てるのね」

 苦笑して、彼女が言ったものだった。
 とまれ、彼女の偽名であるオブライアンにあわせてオブライアン。
 ゲンコ、という浮いた名前は、東洋系にルーツのあることにあわせたものだった。日本語で拳やゲンコツをあらわすゲンコ、ガンコをもじったゲンコ、ということであるらしい。
 タエコ・イソーテが自分で考えて採用したと言っていたものだった。あとで考えるなら、いい、わるいで判断して悪い名前といえた。
 ともかく彼女は、それからイソーテという女性から母親になった。彼女とすごした数年間のうち、数ヶ月ほどがゲンコにとって幸福な期間になった。
 二度とおとずれないものでもある。
 母が笑って言ったものだ。

「キリア・カレグラス。あなたにとって良い日々になるといいわね」

 その名前で私を呼ばないで、とゲンコはつぶやいていた。
 もっとも、母はもういないのだが。



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