インナースペース・ネクロノミコン 〜ポケベルと白い血肉と円卓の騎士

地ゐ聞

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(32) 地底旅行

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 翌々日。
 夜半。霧の暗闇。


 呼吸音だ。
 したしたと雨がブレザーの生地にしみこんでいた。つよくたたくほどではなく、ゲンコの肩になじんでいる。
 その感覚がうすら寒い。呼吸の音はゲンコのものではなく、発砲音のあと、二拍ほどおいて駆けてきた包囲班のマスクの下のだった。
 霧を割って、巨大な影がとびだしてくる。闇夜をぬらりと表面に返した体。質量に似合わない敏捷な動き。
 中型、といったところだろうか。大型よりふたまわりは小さく感じる。
 しかし、視界もろくにきかない霧の闇のなかでは実際の大きさよりもおそろしく見える。ゲンコはふみこんで、アスファルトを駆けた。駆け出しざまに弓と矢を出現させている。
 二本の腕らしい器官で、すばやく地を這ってくるような肉塊。頭に椅子を逆さにした突起物がぶらさがっている。
 位置どって、矢を放つ。やや近距離から放つかたちになったため、もろに命中した正面から肉塊がふきとぶ。
 つぶれる音でつっぷした中型のうしろから、さらに似たサイズ感のやつが猛烈な速度で出てくる。

(大きい)

 ゲンコはあらたに弓をひいて、狙い撃った。一発。二発。
 太い触手でアスファルトをかいて、巨体が倒れふす。
 白っぽい体液と肉片が、虫っぽくうごめいた。その後ろからわらわらと、小型が数匹もせりだしてきた。
 発砲が消音されたなかから、その体にばちゃばちゃとつきささる。が、散発的にダメージをあたえただけだ。
 注意が散った小型に、ゲンコが近接していく。不可視の糸に指がかかっている。

(痛)

 左足に疼痛がはしる。
 無視して、ゲンコは濃灰色にかがやくをはしらせた。ばちりと眼球の奥に伝う、電流の感触がする。どうにか、三体をまたたくまに処理する。
 レシーバーから次の指示がとび、了解をかえす。包囲班に合流して移動をはじめる。
 鍛えあげられた屈強なスタッフは、さすがにゲンコより肉体機能がおとる者はいない。
 その現場でのはたらきについていくのは、努力がいる。まあ、彼らは必要に応じてだれにも合わせることができるプロフェッショナルだから、あるていど任せても対応したりはする。

(頭、いた)

 あたりは霧がおおっていて視界がきかない。
 いや、実はそうではない。
 雨は降っている。
 ずきずきとする頭をおさえ、呼吸音をきく。
 ゲンコのよく通りすぎる耳に、よけいな雑音として入ってくる。それも実は雑音ではない。ゲンコは、目をまたたいた。
 ふいにつぶやきが聞こえる。ハンドサインが送られて、包囲班の一部が先行した。その、足を止めてるなかだ。耐えかねたように、ひとりぶんのつぶやきがひびく。
 それはさきほどから呼吸音を散らしているひとりだった。マスクの下から男の声で言う。

「くそ、霧だ。霧が、そこらじゅうの住宅をおおうみたいに、植物が……」
「おちついてください」

 ゲンコは、包囲班のひとりの肩をたたいて、それをびくりとさせた。強めな声で静かに言う。

「霧なんてでていません。植物も」

 肩を叩かれたひとりは、正気をとりもどした。「すまない。ありがとう」と、ゲンコに言うと、本来の動きを再開する。

(まあ、私にも見えているんだけどね) 

 霧はでている。
 そこらじゅうの家の外壁から、植物の蔦がおいしげっていた。だらだらと、血のようにたれさがっている。

(そう、出ていない。見えているだけ……)

 気を抜くと見えるものだ。二、三回気をしずめてまたたきをすると、霧は消えて、植物は見えなくなった。建物の外壁はもとに戻り、雨の音がしずかに鳴っている。
 さっき肩をたたいた包囲班のひとりが、前に駆けていったのを見送ると、レシーバーに連絡がはいった。むこうでの処理を終えたグループがこちらに一部合流する。
 この日は、ゲルトヒーデルと諒子は出ていない。ヨハネもおらず、かろうじてフロムナインが対処にあたっている。

(アンドロイド……には、この幻覚ってみえるの?)

 聞いたことはないが。
 今度、質問してみるか、とできもしないことを考える。幻覚。
 意思ある暗闇と、怪物の濃度が濃くなるとあらわれる集団に作用する症状だった。
 よく起こるほどではないが、怪物の駆除にあたっては、見られるものだ。厄介なものではある。ただ、危険があるほどではない。
 症状といわれるだけあって、その場にいる数人は精神にかるい錯乱をおこす。これには対処が必要だった。
 それに発生すること自体に、現象の傾向がある。

『数体、目視で五、六メートル級』

 レシーバーが告げる。
 こちらにながれてきたのを、フロムナインをふくむグループが追尾している。対象は、動きが速く跳躍もふくむ。手足をそなえたものが一体まじっている。
 特筆する情報ではないが、形状として人体の一部をまねしたものは個体として強力であることがある。
 レシーバーに入った情報を聞きながら、ゲンコは「上だ!」と、するどい声を聞いた。カンのきくアフリカ系のデーヴィドのようだ。言うと同時に、何人かが指差しさしている。
 民家の屋根だ。黒い何かが屋根をおおい、そして跳躍するのを見た。
 ぎりぎりで、影を追いかけて小銃のライトが照らしあげている。
 その交差を目のはしに追いやりながら、ゲンコは着地点をみさだめた。矢を用意する間はない。すばやく走って、後退が遅れている包囲班をどうにかつかんで力をこめる。
 つかんだ一人はおもいきり体勢をくずしかけ、無理のある方向へのがれた。虫のような肉っぽい巨体が着地する。ゲンコは手がふさがっているのをかまわず、口元にエイブリーをよせ、不可視の糸をかみしめた。ばちんと糸がはじかれ、八本か九本ある甲殻めいた巨体のあしを斬った。
 ばじゃっと肉片がひらめいて、巨体がとびすさる。怒って暗闇に光る目。
 ばらばらに五つ、顔面らしきところへついた眼球がゲンコをみて、一瞬で触手がのびた。細く、そして長い。
 同時にのびてきた太い触手の塊を、足でとらえてふみつぶす。この足は、クリケットのバットのように力加減をくわえてふらないと、力を発揮しない。護身術ていどしか、まだわきまえていないゲンコには十全にあつかえるわけではない。
 腕に触手がまきつき、左足をおなじくまきつかれる感覚。ゲンコは、ぞっとしつつ、また脳が赤熱する感覚をおぼえた。焼けつくような悪寒とともに、いかりながら身をひねる。
 腕だけが脱し、のどと右足のつけねや足首をつつむように触手のかたまりがまきつく。
 すさまじい力だった。が、両腕が自由なら問題はない。頸動脈に圧してくる肉の塊を感じつつ、ゲンコは不可視の糸に指をかけた。 
 横からがくんと力がかかる。ゲンコは、触手の支点がずれたのを感じ、体勢をわずかにくずした。中型の横あいから、何者かが強い力をかけた。
 視線を転じると、白銀の人型だった。フロムナインは、すばやくつづきの一撃を巨体にくわえた。肉片がばらばらにとびちる。
 体液をあびて、フロムナインの体躯がかがやいた。
 白い血肉。
 なんとなく思う。
 指に力をこめて四本を引ききる。至近距離で、すくない指の動作ではなたれる、真空の刃。真空か、それとも空間のゆがみや断裂かといった区別はゲンコもあまりしてはいない。
 速いいきおいで肉片と肉塊がとびちった。ゲンコは、触手から脱した。あいだに一撃をくわえて気をひくフロムナインと連携して弓をひく。一撃の矢。
 中型は体液の雨をふらしながら沈黙した。
 さらに二体がちかくに出現して捕捉されている。レシーバーに了解をかえしながら、ゲンコは怪物の死体を確認した。
 ふと足をとめる。
 レシーバーの連絡に、のこった中型の二体のことをだれかが相手どっている、と追加連絡がはいった。ノーフェイス・エージェント。またはルチャドールのようだ。
 光る剣尖の持ち主。おそろしいはやさで、機械的に目標を輪切り、千切りに変える防がれない、すべりこんでかならず斬る斬撃の使い手。
 速いな、と思いながら、同じように足を止めていたフロムナインにちかよる。通信がはいっていたのだろう。

「ありがとう! すみません」

 と、ゲンコは彼女の目を見て一言いった。
 目というが、フロムナインの顔はのっぺりとしたお面じみていて、その鼻のない表面に光る凹凸がある。眼球のようではなく、ライトのようだ。
 その丸いのが、応じるようにまたたいた。ゲンコはさっさと急いだ。現場を彼にまかせるわけには当然いかない。
 ゲンコらが到着するときには終わっていて、中型が二体うごかなくなっていた。
 どう見ても死んでいるが、念のためゲンコの到着を待って死体の確認がおこなわれた。その処理をおこなった当人、光る剣尖の主は影もかたちもない。

(仕事は最後までしていってくれればな)  

 やくたいもないことをぐちる。
 その日はそれで鎮静化した。霧は晴れた。
 負傷者は二名。いずれも重傷にはいたらなかった。
 翌日の昼。
 菅原大附属高校。
 昼休憩中。
 ゲンコは、よびだされたのに従い、廊下を歩いていた。いっしょに昼ごはんを、と誘ってくる松本らに断りをいれて、よばれた先、保健室へ行く。
 簡単にもっていたカロリーメイトをかじり、空腹をまぎらせている。
 直前に、手洗いをすませてきたときの鏡を思い出す。
 おそらく、今もあれで見たときとおなじ顔をしている。

(なにが、呼び出しだ)

 電話があったのは昨日の深夜。
 例によって、不明な番号からだった。まるで、仕事げんばを終えてきたのを見計らったかのような連絡だった。
 直後に、ウェルフには連絡をいれた。時間が時間だったが、平静な声で出た。なにかやっていたのだろうか。ともあれ、なにか事態があれば連絡をいれる。それはウェルフ本人から厳に言われていることだ。
 保健室。
 ゲンコは、立ったタイミングで平坦にノックした。失礼します、と声をかけると「どうぞ」と、声が返ってきた。
 ドア越しでくもっている。中にいる相手にも、ゲンコの声はくもって聞こえたのだろう。
 ゲンコは引き戸を開けた。
 保健室の内装のなかに、机と座っている人影がみえた。白衣を着た女性である。後ろ姿に、ちらりと髪型がみえた。
 ロングヘアで、金髪。ストレートで、背は高すぎるというほどでない。
 髪色は明るいはちみつ色で、陽のあるところでみると印象がちがう。立ち上がり、こちらを見てにこにこと目礼をかえす。

「こんにちは。どうぞ中へ」

 声の印象は平易で明るかった。ゲンコは後ろをむいて行儀よく扉をしめた。鍵をかけるべきか、ちらりと思ったがそのままにする。
 簡易な丸椅子があり、そこへ座るよう女性は言ってくる。養護教諭、でいいのだろう。すくなくとも本人がそういう格好をしてここにいるのだから。
 ゲンコは椅子にかけた。
 女性が、ゲンコに背を向けて保健室の扉に鍵をかける。音はいやな感じにひびいた。
 女性は、まず肉付きや骨組みはしっかりした印象だった。清潔感のあるブラウスとスカート。過度に足を露出しない平素なよそおい。編みこんだ髪に、泡のようにさわやかな外面。
 部屋をいきかうすくない動作のあいだに、そんなことを見てとる。ゲンコは落ちついてはいないながらも、その鼓動はひかえめで外にもらさないようすだった。スカートの足が、あまり座りごこちのいいとはいえない丸椅子のクッションからさがっていた。
 オート・モーフィス。
 女性の姿をしたその怪異は、作業をこまごまとしてコーヒーをブラックでいれた。砂糖をふたつほどいれて、かきまぜる。
 しずかな音をたててスプーンがおかれた。
 こちらへもってきて、保健室の机におく。おおきな事務用品らしい机で、なんとか来客をそこにおけるくらいには幅がある。

「どうぞ」

 と、コーヒーをすすめてくる。「ありがとうございます」と、ゲンコは言った。白くかざりけのひかえめなカップに口をつける。
 オート・モーフィスは椅子に座った。あらためて正面をむく。

「自己紹介はしたほうがいいだろうか」
「あいさつだけで」

 ゲンコは、カップをちょうど置くタイミングで答えた。オート・モーフィスは納得した無言をかえしてゲンコの目をみた。まつ毛ののびたこころもち垂れ目がちな瞳。青ではなく金色がかった琥珀色だ、とゲンコはちらりと思った。
 以前見たときとは目の色がちがっている。が、それ以外の容姿はおなじだ。服装もちがう。青みがかった薄い色のブラウス、静かに脚ののびた膝丈ていどの黒いスカート。
 首もとは楽なていどにのびていて、ロシア系の血がまじっているらしい肌の色、しっかりしたチューブトップ系のインナーが保護しているような胸元。ローヒールの足もとが、動きやすさを比較的意識している。

『あの連中に動かれたのなら、そういうことだろう』

 と、ウェルフはそれだけ言っていた。
 ゲンコもなにかあると期待したわけではない。どこから調べたのか、たぶん、オート・モーフィスのような存在にとってはかんぐっても無駄なのだろう。
 原因をつきとめても対処はできない。そういう手合いだ。ウェルフも、最低限人員は割いて周囲の監視はおこなうようにするとは言っていた。

「まあ、そう悲観するようなことでもないよ。わたしたちは、たとえばこうしたいと思ったことに段階を踏むようなことはないから」

 見越したように、オート・モーフィスは言った。ゲンコは黙って見た。
 きれいな顔だ、と思われる。そう言わない人もいるタイプの美形だろう。編みこみを入れた髪とあいまって、それらは人形のような美しさを表現するようオート・モーフィスの造形にあつまっていた。

「……」
「人をなぶる趣味嗜好はないからさ。言ってしまうと君と話がしたかった。こうして対面でね。電話ではなくて」

 ちいさく肩をすくめて言う。

「話というと、私にでしょうか」
「もちろん、ほかにだれもいない」
「私には……」

 言いながら、ゲンコはふと姿勢をあらためた。ひざのうえにおいた手をにぎる。かるくだが。気負わずに、口をひらいた。

「先日は失礼をしました」
「うん?」
「二年前、あなたに命を救われました。そのことは言いたかった」
「それは、お礼ということかな。わたしはよく記憶していないが、私の手によって数日前、君の友人たちが生命の危機にさらされたのでは? その相手にそんなことを……?」
「それはべつの話になると思っています」
「まあ、意地のわるいことは言わないさ。親切だからね、それ」

 オート・モーフィスはさらりと言った。
 自分で淹れてきたカップの中身につ、と口をつけている。上品なしぐさで、ほとんどカップをかたむけず、伏し目がちになる。
 ふと気になることをゲンコは聞いた。

「ここにいた養護教諭の方は」
「いやいや。懸念するのはわかるがね。君と顔をあわせていないだけで、わたしはつい最近この学校には姿を見せていたよ。養護教諭の資格をもっていてね。ま、もうひとつの仕事があるからみじかい臨時のことだと思うが、元の……ハヤサカといったかな、その人は産休だ。おめでたいことじゃないか?」
「知りませんでした」
「そういうことだから、君もこの学校の生徒ということならよろしく頼む」

 心にもないことを言っている顔で、ゲンコを見やる。

「君たちも難儀なことをしている」
「ナンギというと」
「仕事のことだ」

 急に言うので、ゲンコは心底ちょっとけげんな色をあらわした。

「厄介に思っていることはありませんよ。たぶんだけど、だれも」
「実際に現場やその裏を回している人間の意識と……実際の労力というのはまたべつの話だ。人間のすばらしいところは、積み上げた莫大な労力を精神で慣れというものに圧縮して継承していくところだな。わたしたちにはないことだ」
「よくわかりません」

 ゲンコが言うと、オート・モーフィスは気にとめたようすもなかった。紅茶の水面を一瞬見やって、机に置いた。
 両手の指を音もなく組む。

「君は当事者意識がやや薄いものな」
「……このコーヒー、私の好みにぴったりでした」
「君のことであれば、わたしはわかる」

 言うと、小首をうごかしてよそをみやる。

「まあ、どちらにしろ君たちの労苦はとりのぞかれる。あと三年ほどで」
「というと、なんの」
「正確には二年と九ヶ月はかかるものと思うが、わたしたちはこの星から去る予定だからだな。星上にうすくちらばっていた意思ある暗闇と君たちがよぶものにより、規定していた量の遺伝と進化の情報の収集、編纂を終えることができる。やることがなくなったために、いっせいにそれらは消え失せるのだ。怪物も怪異も、そのときをもって消失し、二度とあらわれなくなる。これは決定事項だ」
「それは、あなたがたの妄想と……」

 オート・モーフィスは、言われるとうさん臭くにこにこした。

「信じようが信じまいが、かまわない。一九九九年、七の月。その日をもって世界はタイムリミットをむかえるだろう。おぼえておいてくれるといい」
「ノストラダムスの大予言ですか?」
「君はイギリスの人なのに、その話を知っているのだな」
「まあ」

 日本に来てから読んだジュブナイルに、偶然そんなことが書いてあった。が、オート・モーフィスとの話はかかわりが薄いことだ。

「それ自体は都市伝説やジョークのたぐいに類するオカルトです」
「わたしたちはそのオカルトの話になるが、たとえば君のことならわたしはわかる、とか言ったことだが。これも君らにしたらPSIとか、そのなかのESPなんていわれる話だ」
「それもジョークって話……」
「超能力は否定されるための定義だものね。君たちはわたしたちの行使したり、利便するものものを本物の能力とオカルトであると考え、人間にそれがあるのはぜんぶ科学的原理で、オカルトはないと考える。合理的にいって、そうすることが発展性があるからだな。それでいいから聞いてほしいところだと、わたしたちの力のひとつとして意識がつながり、ネットワークを形成している」

 オート・モーフィスは冗談めいて、自分の頭を指した。

「わたしたちにしたら古い技術だ。でも、この星に来てからはそのほうが適しているので使用されていた。このつながりには、一定の条件を満たした人間も含まれていて、さらに該当する技術を用いて応用された人であるならその記憶や認識、またリアルタイムな行動まで共有できる。わたしたちでなく、人間である場合は、無自覚かつ無意識ということになるが」
「そういう力があるのなら、直接会う必要はなくなりますね」
「記憶や認識、リアルタイムな行動といったもの以外のことが知りたい。だから、直接顔をあわせる」
「……」

 オート・モーフィスは、さっさと指をおろしている。わかりやすい疑念に沈黙しているゲンコの顔をみやる。

「君のほかにもこの町には、とくに対象者がいて彼らのリアルタイムまでわたしたちは共有することができたし、した……それでわかるのは断片的で表層的、さしせまった人物として根ざしていなければ、結局他者を感じることはできない。そういうとっくに説明されていることは置いておいて、ま……とりあえず面とむかってわかることは、君が思ったより他者を尊重する気があるということかな」
「そうですか」
「わりと図々しい性根をしている」
「そうでしょうと思います」
「黄金の雲間を見たかな?」
「……いいえ」

 ゲンコは、感じるまま答えた。
 オート・モーフィスに呼び出された時点で、この怪異には、どのようにされてもそれは終わったこととなる。
 そのつもりで来てはいた。が、今の質問には強い、なにかあらがわなければならない不快さととまどいをおぼえる。

「アズーの本とかいう、愚にもつかない本がこの町のどこかにあるらしい」
「……」
「らしいとはいうが、不自然な話で、それもたしかにくだんの本は君らがなかばエイブリーと認定するような代物になっている。あらゆる認識をはばんで、隠れ住む、ただそれだけだが、力は力だ」
「あ……」
「君はあの魔道書をさがしにきたのでは?」

 ゲンコは言われて、けげんな顔をした。答えて言う。

「いいえ……」

 ぴし、と窓ガラスを雨がたたく音がした。ゲンコは、肩を反応させながらもオート・モーフィスから目をはなさない。

「天気雨かな。いやな空模様だね」

 オート・モーフィスは言うと、椅子から腰をあげた。ゲンコに近づくと、おもむろに手をのばす。

「――っ」

 ゲンコが息をのむ。オート・モーフィスの手は、明確にゲンコの首のあたりにのばされた。
 それから、すこしあがって首筋には触れなかった。ただし、左耳のあたりに指先がかかった。
 そして、ゲンコの左ほほをかすめて手のひらのあたりが触った。ほとんど手をかけたと言っていい。ゲンコはオート・モーフィスを注視したまま動かない。そのぱっちりした青い目の表面に、恐れのような血管が見える。
 オート・モーフィスは、一切気にしないまま中指をゲンコの耳にさしだして、耳の空洞にさしいれた。

「っ、……」

 ゲンコはさすがにかすかに不快さをしめした。その次の瞬間、オート・モーフィスの中指から電流のような刺激が、ゲンコの耳の中を通って、直接脳へ入りこんだ。

「っ……」

 びくり、と肩をけいれんさせてゲンコは反応をかえした。オート・モーフィスは、すぐにささやいた。

「動かないの」

 オート・モーフィスはそう言った。
 ただし、言った瞬間にさらにつよい刺激を感じたように、ゲンコの身体がねじれかけた。息をしたまま、肺からしぼりだしたような音が一瞬もれる。が、ゲンコはそれをこらえて姿勢をくずさなかった。

「我慢はよくない。過呼吸におちいるぞ」

 言いながら、オート・モーフィスはじっとゲンコを見たまま指を抜かない。

「ぐっ……ぅ」

 聞こえないていどに、ゲンコは息をもらした。
 そのまま、数度もオート・モーフィスの指からは刺激がながしこまれた。
 オート・モーフィスはようやく、指をはなした。ゲンコが思わずつかんでいた手首を、あっさりとはなさせる。

「……」
「用意はすんだ。君の様子は有意義だった。わたしにいくつかのことを理解させたから。まあ、それらはなかば承知のうえであったから、理解ではなく確認と認識というのだろうな」

「なにが……」と、ゲンコがつぶやいた。
 オート・モーフィスはやや意地悪そうな目をした。感情らしい感情ではない。
 口でだけは、と思われるようすで親切そうに言う。

「さ……、――言ったとおり、会わなければわからないきわめて非効率的な要素だ。処置まで君の外面やらを見つつ、直接やる必要がある。非効率には怒りと憎悪をおぼえるのが発展した精神の欠点だな」

 言いながら、すでに丸椅子に着席している。

「欠点とは弱点でもある。すなわち、わたしのそれが最大の弱点たりえる」

 にこにこと言いながら、紅茶をとって飲んでいる。
 すでに冷めているようにも思われる。
 実際そうだったのか、オート・モーフィスは興味がうすそうにカップを回すような仕草をした。ふとしゃべりだす。

「つまり、それが君たちが私を倒せる可能性なのだろう。ながながと観念を語ってうっとおしいことだったが……そろそろ、おちついた?」
「はい」

 ゲンコははっきりと答えた。オート・モーフィスは笑った。

「よかった。では、そろそろ帰りたまえ。君の精神によくないから」
「……はい」

 ゲンコは、けわしいままの表情ながら答えた。
 椅子を立つ。
 足どりはこわばってはいる。
 対話は終わった。

「……ひとつお聞きしたいことがあります」
「なに?」
「世界が終わるって、どういう?」
「ああ、それ?」

 オート・モーフィスは、ややつまらなそうに言った。おもしろい、という感情があるかどうかはわからなかったが。
 言う。

「ネットワークの話をしたよね」
「ええ」
「わたしたちのあいだでだけ使用しているが、一定の条件を満たした人間もふくまれると」
「はい」

 ゲンコが言うと、オート・モーフィスはあくまで親切めいたようすで言った。

「わたしたちは、この星における人間の遺伝と進化の情報を収集しているとも」
「はい」
「この収集と編纂を終えた人間というのは、すべて一定の条件を満たした人間となる」
「?」

 ゲンコがけげんな顔をすると、オート・モーフィスは、答えた。にこにこと笑う。

「くわしい原理ははぶくと、わたしたちに走査の手をいれられると、その人間にはわたしたちの一部か大部分な影響が身体や精神にのこされるのだ。このことをもってネットワークにひっぱられるか、残留する。これをわかりやすく言うと、狂気に侵されるとなる」
「……」
「この星からわたしたちが去るというのは、きれいさっぱりそれをひっこぬいてはるか遠くにもっていくということかな」

 さて、と、オート・モーフィスはそこで話をきりあげるそぶりをした。

「頭が痛いだろ。今度こそ行きたまえ。ここは今日は君は使えないから」

 ゲンコはいうとおり、ますます顔色を悪くしていた。
 オート・モーフィスは保健室の入り口で、見送るようにしている。

「さようなら」

 ゲンコは言った。オート・モーフィスは手を上げた。言う。

「さようなら。そうそう。今後私にどうこうされるとしても、それはわたしの関知するところでないから」
「……それは?」

 ゲンコは聞いたが、質問するのをつらそうにする。「無理はしないように」と、オート・モーフィスは口を封じて、言った。

「わたしはもう消え去るので、以降、私のやることにかかわることができない」

 ゲンコは考える顔をした。ほんの数瞬くらいで、あわい理解が顔にうかぶ。
 オート・モーフィスは、つづけて言った。

「自己紹介はいるかな、と最初くらいに聞いたじゃないか。わたしは、君と会うのはこれがはじめましてだった。そして、君と会うことは金輪際ないだろう」

 オート・モーフィスはやわらかく笑って言った。

「なんとなく気づいただろう?」
「多重人格……」
「んん。もっとわかりやすいものだ」

 そこまで聞いて、ゲンコは押し出されるような足どりで保健室をでた。
 自分で扉を閉めた。
 はあ、と、ため息っぽい呼吸がもれる。
 無言で、左の耳朶をふれる。

「痛っつ……」

 うめいて頭をかるく押さえると、歩きだした。足どりはしっかりしている。
 連絡をしなければ。



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