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干からびたごちそう
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部屋の中に静かに夜が降りてくる。
薄いカーテン越しに街灯のオレンジ色がにじんで、壁にやわらかい影をつくっていた。帰宅して玄関の鍵をかけたあと、彼女はその影を横目で見ながら靴を脱ぎ、溜め息をひとつこぼす。
仕事は特別忙しいわけでもなかったけれど、些細なミスの連発の果てに、上司にきつめの一言をもらってしまい気持ちはどんより。今思い出しても心に刺さったトゲはさらに深く沈んでいき、じんわり痛む。
そんな日は、帰りにコンビニでビールとつまみを買う。たったそれだけで、ちょっとだけ気が晴れる気がしていた。
だが今日は、それだけでは足りなかった。
「こういう日こそ、ちゃんと贅沢しよう」と心に決めて、普段立ち寄らない高級志向なスーパーにも足を延ばした。小さなパックに3枚しか入っていない、イタリア産の生ハム。普段なら高いと躊躇するそのパックを、今日は思いきって2つもかごに入れた。
帰宅してすぐにシャワーを浴び、部屋着に着替え、テーブルにおつまみを並べる。
クラッカー、クリームチーズ、タコわさ、塩昆布キャベツ。コンビニで買った缶チューハイと、スーパーで手に入れたクラフトビールも用意した。
机の上がちょっとしたバルみたいににぎやかになると、自然と気分も上向く。
「かんぱい」
ひとりだけの乾杯の音は、部屋に響かない。ただグラスを掲げただけ。でも、自分の中にはちゃんと響いた。
テレビをつけてバラエティ番組を流し、ひと口ずつつまみを運んでは、グラスを傾ける、その繰り返し。彼女はゆっくりと酔いに身を委ねていった。
気づけば、カーペットの上で横になっていた。
テレビはつけっぱなしで、空になった缶が一本転がっているのが見えたが、構うことなく再び目を瞑った。
---
目を覚ましたのは、カーテンの隙間から差し込む日差しに目を細めたときだった。
ぼんやりと壁時計を見ると、針は午前11時を指していた。スマホには通知がいくつか溜まっていたが、彼女はそれを無視して、まずは昨夜の“戦場”を確認した。
――机の上は、見慣れた惨状。
チーズがちょっと乾いて、タコわさのパックの端には乾燥の気配。クラッカーの欠片が散らばって、飲みかけのビールはぬるくなり炭酸は抜けきっていた。
そんな中で、彼女の目に飛び込んできたのは、あの贅沢品だった。
「……生ハム……!」
見るからに乾ききっていた。触らなくともわかる程度に。端っこは丸まり、まるで昨晩の姿とは別物だ。
赤身の色もくすみがかって、食べ物というより“何かの残骸”といった方が近い。昨晩、頑張って買った生ハム。もったいない、という気持ちがズシンと胸にのしかかる。
「やっちゃったな……」
さすがにこれはもう捨てるしかない、と思いつつも、ゴミ箱に向かう足が止まる。
冷蔵庫に入れておけば……チーズみたいに保存きいたのに。今頃変わらず美味しさのまま食べられただろうに。
惜しむ気持ちがしつこく残って、どうしても手放せなかった。
そして、ふと――勇気を出して、一切れをつまみ上げた。
唇に運び、ためらいながらも口に入れる。
乾いた食感。噛みしめると、予想以上のしょっぱさが舌に広がる。思わず眉が寄る。
……でも。
そのあとに、ふわりと旨味が押し寄せた。
塩辛さの奥から、濃縮された肉の味が顔を出す。もともと生ハムは塩気の強い食べ物だけど、ここまで凝縮されると、もはやジャーキーのような味わいだった。
「……うまい……?」
自分でも信じられないような声が漏れる。
もう一切れ食べてみる。今度は、クラッカーに乗せて、チーズを添えて。
すると、完璧なバランスだった。強い塩気と脂、旨味と香り――昨晩の失敗が、奇跡的なアレンジへと昇華していた。
彼女はくすりと笑った。
昨日は疲れていた。だけど、こうして目覚めて、思わぬかたちで新しい出会いを味わうことができた喜び。
誰かと分かち合うわけでもなく、SNSに上げるわけでもない。人に伝えるほどのたいした内容ではない。
でも、それでもいいと思えた。
「またやろうかな、宅飲み」
今度は、生ハムをわざと乾かしてみようか。
そうしたら、またあの味に出会える。
そう思うと、なんだか楽しくなってきた。
彼女は空になったグラスを片付け、洗い物を始めた。
休日の昼前、静かな部屋の中で、小さなごちそうが胸の中にじんわりと残っていた。
薄いカーテン越しに街灯のオレンジ色がにじんで、壁にやわらかい影をつくっていた。帰宅して玄関の鍵をかけたあと、彼女はその影を横目で見ながら靴を脱ぎ、溜め息をひとつこぼす。
仕事は特別忙しいわけでもなかったけれど、些細なミスの連発の果てに、上司にきつめの一言をもらってしまい気持ちはどんより。今思い出しても心に刺さったトゲはさらに深く沈んでいき、じんわり痛む。
そんな日は、帰りにコンビニでビールとつまみを買う。たったそれだけで、ちょっとだけ気が晴れる気がしていた。
だが今日は、それだけでは足りなかった。
「こういう日こそ、ちゃんと贅沢しよう」と心に決めて、普段立ち寄らない高級志向なスーパーにも足を延ばした。小さなパックに3枚しか入っていない、イタリア産の生ハム。普段なら高いと躊躇するそのパックを、今日は思いきって2つもかごに入れた。
帰宅してすぐにシャワーを浴び、部屋着に着替え、テーブルにおつまみを並べる。
クラッカー、クリームチーズ、タコわさ、塩昆布キャベツ。コンビニで買った缶チューハイと、スーパーで手に入れたクラフトビールも用意した。
机の上がちょっとしたバルみたいににぎやかになると、自然と気分も上向く。
「かんぱい」
ひとりだけの乾杯の音は、部屋に響かない。ただグラスを掲げただけ。でも、自分の中にはちゃんと響いた。
テレビをつけてバラエティ番組を流し、ひと口ずつつまみを運んでは、グラスを傾ける、その繰り返し。彼女はゆっくりと酔いに身を委ねていった。
気づけば、カーペットの上で横になっていた。
テレビはつけっぱなしで、空になった缶が一本転がっているのが見えたが、構うことなく再び目を瞑った。
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目を覚ましたのは、カーテンの隙間から差し込む日差しに目を細めたときだった。
ぼんやりと壁時計を見ると、針は午前11時を指していた。スマホには通知がいくつか溜まっていたが、彼女はそれを無視して、まずは昨夜の“戦場”を確認した。
――机の上は、見慣れた惨状。
チーズがちょっと乾いて、タコわさのパックの端には乾燥の気配。クラッカーの欠片が散らばって、飲みかけのビールはぬるくなり炭酸は抜けきっていた。
そんな中で、彼女の目に飛び込んできたのは、あの贅沢品だった。
「……生ハム……!」
見るからに乾ききっていた。触らなくともわかる程度に。端っこは丸まり、まるで昨晩の姿とは別物だ。
赤身の色もくすみがかって、食べ物というより“何かの残骸”といった方が近い。昨晩、頑張って買った生ハム。もったいない、という気持ちがズシンと胸にのしかかる。
「やっちゃったな……」
さすがにこれはもう捨てるしかない、と思いつつも、ゴミ箱に向かう足が止まる。
冷蔵庫に入れておけば……チーズみたいに保存きいたのに。今頃変わらず美味しさのまま食べられただろうに。
惜しむ気持ちがしつこく残って、どうしても手放せなかった。
そして、ふと――勇気を出して、一切れをつまみ上げた。
唇に運び、ためらいながらも口に入れる。
乾いた食感。噛みしめると、予想以上のしょっぱさが舌に広がる。思わず眉が寄る。
……でも。
そのあとに、ふわりと旨味が押し寄せた。
塩辛さの奥から、濃縮された肉の味が顔を出す。もともと生ハムは塩気の強い食べ物だけど、ここまで凝縮されると、もはやジャーキーのような味わいだった。
「……うまい……?」
自分でも信じられないような声が漏れる。
もう一切れ食べてみる。今度は、クラッカーに乗せて、チーズを添えて。
すると、完璧なバランスだった。強い塩気と脂、旨味と香り――昨晩の失敗が、奇跡的なアレンジへと昇華していた。
彼女はくすりと笑った。
昨日は疲れていた。だけど、こうして目覚めて、思わぬかたちで新しい出会いを味わうことができた喜び。
誰かと分かち合うわけでもなく、SNSに上げるわけでもない。人に伝えるほどのたいした内容ではない。
でも、それでもいいと思えた。
「またやろうかな、宅飲み」
今度は、生ハムをわざと乾かしてみようか。
そうしたら、またあの味に出会える。
そう思うと、なんだか楽しくなってきた。
彼女は空になったグラスを片付け、洗い物を始めた。
休日の昼前、静かな部屋の中で、小さなごちそうが胸の中にじんわりと残っていた。
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