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迷い猫のあったかお出汁
迷い猫のあったかお出汁-1
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序
「ありがとうございました」
深々と頭を下げ、お鈴は店の外に出た。
いつの間にやら夕暮れだ。往来は真っ赤に染まり、行きかう人はめいめいに帰り道を急いでいる。居酒屋の前にぽつりと佇むお鈴になど、誰も目もくれない。
ふう、とため息をついた。
大通りを過ぎて、川沿いの道を歩く。
強い風が吹き、はためく裾を押さえた。まだ秋半ばだが、空気が肌寒くなってきたように感じる。早くみと屋に帰ろうと足に力を込めた時だった。
「もし、そこの方」
どこからか、声がした。
見回すと、川べりに人影があった。風体は虚無僧のようで、黒い小袖めいたものを着て、深い藁の編み笠を被っている。椅子に座るその人の前には、簡素な木の机が設えられており、黒々と「占」と書された行灯が置かれていた。占というからには、占い師なのだろうか。
あたりにはお鈴しか見当たらない。再び「もし」と聞こえて、編み笠の人がお鈴に向かって手招きをした。
「あ、あたしですか」
自分に何か用だろうか。おそるおそる机に近づく。
「ああ、そうだ、おぬしだ。突然声をかけてすまなんだ」
笠に隠れて顔は伺えないが、声からして壮年の男のようだ。深みと落ち着きのある声音に、警戒していたお鈴の心が少し和らぐ。
「はい。いえ。あの、あたしに何か御用ですか」
「うむ。おぬしの顔にずいぶん暗い相が出ておったのでな。つい声をかけてしもうた。許してくれ」
「あ、いえ、そんな」
「おぬし、深い悩みがあるのではないか」
どきりとした。
「いえ、その、はい、あの」
どう答えていいやら、おろおろする。
「その悩みごとは、男のことであろう」
「分かるんですか」
喉からつるりと出てしまい、慌てて口を押さえた。
「拙僧は八卦や人相見を修めておってな、語らずとも人の悩みごとが見えるのだ。よければそこに座って話してみぬか。力になれることがあるやもしれぬ」
弱っていた心が揺れる。
「でも、あたしそんなに持ち合わせがなくて」
「なに、拙僧は金もうけのために占いをしているのではない。困っている者達の助けになりたくてこの稼業をしているのだ。銭のことは心配せずともよい」
温かな言葉に誘われるように、置かれた椅子にふらふらと座った。そんなお鈴を、男はじっと見た。
「ふむ。おぬしの悩めるお人……そうさな、おそらく年上の男ではないかの」
「あ、はい。そうなんです」
心の靄を言い当てられて、はっとする。本当にこの人は特別な力を持っているのかもしれない。もしかしたら、この人ならば。
「あの、あたし、おとっつあんを捜しているんです」
「ほう、御父上を」
「はい。あたしのおとっつあんは、甲州街道で料理屋をやってたんです。飯が道を開くが口癖で、いつもお客さんを想った料理を出すから店も繁盛してました。それが、わけも話さずに急にいなくなってしまったんです。心労がたたったおっかさんは病で死んでしまって、それで、おとっつあんを捜しにひとりで江戸にやってきたんですけど、なかなか見つからなくて」
風呂敷一つで江戸に出てきて半年。今はみと屋という料理屋に居候しながら暮らしており、買い出しや店の休みを使っておとっつあんを捜す日々だ。
実は今日もおとっつあんを捜していた。どこかの料理屋や居酒屋で料理人として働いているかもしれないと思い、店に話を聞いて回ったのだが、それらしき手がかりは見つからずじまいだった。捜せど捜せど杳として知れぬ消息に、お鈴の心は疲れ果てていた。
「では、今はひとりで暮らしておるのか」
「はい。江戸にやって来て行き倒れかけたところを、みと屋っていう料理屋の人に助けてもらって、そこで働きながら暮らしています」
誰かに話を聞いてもらいたかったのかもしれない。つい口が軽くなり、胸の奥から言葉が滑り出ていく。もっとも、お鈴を助けてくれた「みと屋っていう料理屋の人」については詳しく語らなかった。なにせ、元やくざの親分が料理屋を開いていて、行き倒れていた小娘を助けただなんて、誰が信じてくれようか。
「ふむ、料理屋か。なるほどな」
男は机に並べてあった、たくさんの木の棒を手に取った。
「これを知っておるか」
「分からないです」
「これはな、筮竹といって海の向こうの国で生まれた易術の道具じゃ。これでおぬしを見てしんぜよう」
箸よりも細長い棒を何十本も片手で持ち、もう片方の手に叩くように当てる。ぶつぶつと口の中で呟きながら、何本かを抜き出して両手で組み合わせ、その動きを何度も繰り返す。やがて。
「うむ、なるほど」
「あの、何か、わかりましたか」
男は頷いた。
「おぬしの御父上には深い事情があったようだな」
「そうなんです」
お鈴は身を乗り出し、食いつくように言葉を紡いだ。
「おとっつあんは元々、お城の料理人だったらしいんです。でも、お城で起きた事件の濡れ衣を着せられて、そこから逃げてたみたいで。それで、ひっそり料理屋をやっていたのに、おとっつあんを追ってくる人が来て、あたし達家族に迷惑をかけないために、姿を消したんじゃないかって」
理由を告げずに姿をくらませたから、お鈴も確かなことは知らない。ただ、みと屋の人が調べてくれた話を繋ぎ合わせて、今ではおぼろげに事情を理解していた。それを吐き出すように口にする。
おとっつあんは元気だろうか。怪我はしてないだろうか。飯は食べているだろうか。鼻の奥がつんとなり、涙をこぼさぬように眉根に力を入れる。
「そうか、拙僧が視た限りでも、そのように出た。辛かったろうな」
「あの、おとっつあんはどこにいるんでしょうか。何か、手がかりでも分からないでしょうか」
「どれ」
男は再び細い棒を手に取り、じゃらじゃらと交ぜ合わせた。まじないのような言葉を唱えた後、両手を上げて「ふん」と気合を入れた。と、思うと動きを止め、虚空を見つめる。
やがて、男はゆっくりと手を下ろした。
「待ち人、便りある」
「え」
「そう卦が出た。安心なされよ。拙僧の見立てでは、御父上からきっと便りがあることだろう」
「本当ですか」
「うむ。拙僧を信じなされ」
「あ、ありがとうございます!」
お鈴は立ち上がり、深々と頭を下げた。しょせんは占いだから眉唾かもしれない。けれど、気休めだとしてもその前向きな言葉は、沈んだ心に一筋の光を与えてくれた。温かみのある声音からも信じられる人だと思えたし、銭も取らずに占ってくれるのだから、優しい占い師なのだろう。
「なかなか手がかりが見つからなくて、落ち込んでたんです。でも、元気になりました。占い師さんのおかげです。ありがとうございます」
「なに、気になされるな。御父上に早く会えるとよいな」
「はい。占いを信じて待ってます」
「うむ。そういえば、おぬしはどのあたりに住んでおるのだ」
「はい、水道橋を渡ったところです。大きな柳の木のそばにある『みと屋』という料理屋で働いてます。よかったら食べに来てください」
編み笠越しに、目が光ったような気がした。
「寄らせてもらおう」
「はい、お待ちしています」
「気を付けて帰りなされ」
「ありがとうございました」
今度こそみと屋への帰り道を歩き出す。その足取りは先ほどより軽く感じられた。
第一話 迷い猫のあったかお出汁
一
しと、しと、しと。
規則的に聞こえるのは雨音だ。ここのところ空模様が悪く、強くも弱くもないじっとりとした雨の日が続いている。
「客が来ねえ」
ぼそりとだみ声がして、お鈴はぬか床を捏ねる手を止めた。
厨房から店を覗くと、銀次郎が機嫌悪そうに煙管をふかしていた。
店内には他に誰もいない。銀次郎が居座る小上がりに加えて床几が二つだけ並ぶ、いつもどおりの閑散とした光景だ。
「お客さん、来ないですねえ」
銀次郎は「ふん」と鼻を鳴らして、煙管を火鉢に打ち付けた。
「あの、あたし、呼び込みとかしてきましょうか。そうしたらもう少しお客さんも来るかも」
「そんな小細工するんじゃねえ。料理屋ってのは、飯で客を呼ぶもんだ。おめえは旨い飯を作ることだけ考えてりゃあいい」
「は、はい」
そうは言ってもなあ、と思う。
なんたってここは、普通の料理屋じゃないからなあと。
お鈴が働くこの店は、料理屋「みと屋」。
神田明神から歩いて少し、水道橋を渡ってすぐ。川べりにある二階建ての建物で、店の隣には立派な柳の木が生えている。
料理を出すのは日中のみで、酒やつまみは扱っていない。誰でも気軽に食べられる定食が主だ。だが近くの店よりもお足はお手頃。自慢じゃないが、食材だって負けちゃいない。
それなのに、この店にはいっこうに客が来ず、いつだって閑古鳥が鳴いている。
それもそのはず。
小上がりで鼻を鳴らす料理屋の主こと銀次郎は、かつてやくざの大親分だった人物。
仁義を大切にし、地元の民を愛した名親分で、今はすっぱり足を洗っているのだが、やくざの親分が開いた料理屋という噂だけが独り歩きして、なかなかお客が寄ってこない。それどころか愛嬌の欠片もない銀次郎である。ずんぐりと大柄な身体つきにいかつく平たい顔。目と目の間は広がっていてひきがえるそっくり。客がいようといまいと不機嫌そうに小上がりで煙管をふかしている。
時たま怖いもの見たさで入ってくる客や、事情を知らずにやって来る客もいるにはいるが、銀次郎に怯えてそそくさと帰ってしまう。お鈴もずいぶん銀次郎に慣れたとはいえ、いまだに話すのは少しどきどきする。
実のところ、銀次郎が怖いのは見た目と物言いだけで、本人としては訪れるお客を精一杯歓迎しているつもりだし、人を思いやる気持ちは誰よりも深い。銀次郎が「みと屋」を開いた理由というのも、やくざの稼業に疲れた心を料理に救われ、自分も誰かの心を救えるような料理を食わせてやりたいと思ったからだ。
お鈴がこんな訳ありの店で料理人をしているのも、父を捜しに江戸に出てきて行き倒れたところを銀次郎に助けられたためである。ちなみに銀次郎の心を救った料理人というのがお鈴の父であるのだから、縁とは妙なものだ。
助けられた恩を返すためにも、なんとか「みと屋」を繁盛させたいのだが、こうした事情もあって前途多難であった。
看板障子ががたんと開いた。
激しい音にお鈴はびくりとし、銀次郎が嬉しそうに「おう、客かい」と言う。
「大変大変大変」とつむじ風のように暖簾をくぐってきたのは、目元涼しい色男。みと屋の仲間である弥七だった。
「なんでえ、おめえか。騒々しい」
「ねえちょっと大変大変」
鼠色の着物に洒落た根付をたらしており、形のいい唇には紅が一差し。身体つきはなよりと細く、ふわりとした口ぶりからはどこぞの役者にしか思えない。ところがこの男、カマイタチの弥七とあだ名された凄腕の殺し屋だから、人は見かけによらないものである。かつては紙切れのように薄く研いだ匕首を懐に忍ばせており、その切り口があまりに鋭かったことから名づけられたそうな。
「客じゃねえ奴は、とっとと帰れ」
「もう、そんなこと言ってる場合じゃないのよ、大変なのよ」
弥七は何やら抱えておろおろし、その場を右往左往する。
「弥七さん、どうかしたんですか」
「ああ、もうお鈴ちゃん、どうしましょう、これ。ちょっとこっちに来てちょうだい」
近寄ると、弥七は抱えていたものを丁寧な手つきで床几に下ろした。
「まあ」
「うむ」
置かれたものを覗き込んで、お鈴と銀次郎は声を漏らした。
そこにいたのは、弱ってぐったりとした、小さな黒猫だったのだ。雨に濡れぼそって毛はべったりと貼りついており、身体つきはずいぶんと薄い。目をつぶって細かく震えていた。
「茶屋で団子を食べてた帰りにね、神社にお参りしに行ったのよ。ぱんぱんって手を合わせてさあ帰ろうかっていう時に、なんだかみいみい聞こえるじゃない。そしたら、境内の下でこの子が丸まって鳴いてたのよ」
「それで、連れて帰ってきちまったのか」
「だって、ほうっておけないじゃない」
「おめえ、ここは食いもん屋だぞ」
「もう、うるさいこと言わないの。ね、お鈴ちゃん、どうしたらいいかしら」
すがるような目を向けられて困り果てる。お鈴も犬猫を世話した経験はないのだ。だが丸まって震えている姿があまりにもかわいそうで、「と、とりあえず火鉢の側で寝かせてあげますか」と提案したのだった。
*
黒い毛が上下に動く。手ぬぐいで水を拭いてやって、震えも落ち着いた。芯から冷え切っていた身体も、火鉢の側で温まってきたようだ。
「息がゆっくりしてきましたね」
「ああ、よかったあ。死んじゃったらどうしようかと思った」
胸を撫でおろす弥七に、銀次郎はふんと鼻を鳴らした。
「後で、湯で洗ってやらねえとな。毛がずいぶん汚れてやがる」
「本当ねえ。まあ神社の境内にいたんだもんねえ」
三人で黒猫を眺めているうちに、お鈴はあることに気づいた。
「首のところに、何か付いてませんか」
「あらやだ、本当ね」
黒猫の首のまわりには、赤い糸のようなものが巻かれていた。赤の中に黒も交じっており、上等なものではなさそうだが、組み紐か何かだろうか。
「動転してて気づかなかったけど、この子、誰かん家の子かもね」
「迷子になって帰れなくなっちゃったんでしょうか」
「ううん、そうかもねえ」
銀次郎が「おい」と鋭い声を投げた。
「見ろ」
黒猫の瞼がゆっくり開こうとしていた。
「ああ、目を開けましたよ」
「よかったわあ。一時はどうしようと思っちゃった」
「本当によかったですね」
「ほら、もう大丈夫よ。ね、おいでおいで」
弥七が手招きをするが、黒猫は弱々しくみいと鳴くばかり。身体を動かす力がなさそうだ。
「ばかやろう、まだ病み上がりだぞ」
銀次郎に叱られて、しょんぼりする弥七。
「ずいぶん弱ってるのが見て分かるだろう。それに腹回りもぺらぺらじゃねえか」
「あら本当だわ。お腹がぺったんこ」
銀次郎の指摘通り、腹回りは薄く全体的に骨ばっている。雨に打たれて弱っていただけでなく、しばらく何も食べていなかったのだろう。
「大変、何か食べさせてあげなきゃ。ええと、猫だからやっぱり魚でも焼いてあげるのがいいかしら。そうね。鯖なんてどうかしら」
「ばかやろう」と一喝。
「おめえ、風邪っぴきの時にそんなもん食いたいのか。丸呑みなんぞしても困るし、すきっ腹に重いもん食わせたら、腹がびっくりしちまう」
銀次郎は膝をぱしりと叩いて、「よし」と立ち上がった。
「俺が腕によりをかけてやる」
「いや、親分、それはやめたほうがいいんじゃ」と弥七が止める間もなく、銀次郎は小上がりを降りて、のしのしと厨房に入っていった。
呆気に取られて厨房を眺めていると、中から聞こえてくるのは、がたん、ごとん、がしゃん、といった騒がしい音。時たま「いてえ」と呻く声がする。心配で様子を見に行こうかと何度も腰を上げかけたが、そのたびに弥七が首を横に振った。
しばらくして。
厨房から姿を現した銀次郎は、平皿を手に持っていた。
得意げな顔で、「ほら」と小上がりに置く。
その皿に盛られているのは、何やらどろっとした赤いものである。お鈴が知る限り、こんな見た目の料理は存在しない。気のせいか、まがまがしい気配すら放っているように見える。
「さあ、食え」と黒猫の前に押しやる手を、弥七が止めた。
「ちょっと親分、なによこれ」
「見りゃあ分かるだろう。粥だ」
「粥って、こんな色してたかしら」
「うるせえ、力が湧くように特別に作ってやったんだ。文句あるか」
「ちょ、ちょっと、この子に食べさせる前に毒見させてちょうだい」
弥七は木杓子を取って来て、赤いどろどろを恐る恐る口に運んだ。
しばし口を動かしていたが、やがて顔が白くなり青くなり、その場をぐるぐるし、猛烈な勢いで厠に駆け込んでいった。
戻って来て水を一息に飲み干した後、「なんなのあれは!」と銀次郎に詰め寄る。
「なんだか辛いし、苦いし。どうしたらあんな食い物が作れるのよ」
「ばかやろう、身体が温まるように生姜と唐辛子を入れてやっただけじゃねえか」
「ああ、だからあんなに赤かったのね」と弥七は手を額に当て、弱々しく呟いた。
「あのね、何度も言ってるけど、親分に料理の腕はないの。もうね、これっぽっちもないの。今はお鈴ちゃんっていう腕っききの料理人がいるんだから、親分は大人しくしてなさい。こんなん食べさせたら余計に具合が悪くなっちゃうわ」
そう、銀次郎も弥七もいるのに、お鈴がみと屋で料理人として雇われた理由。それは、店の主である銀次郎に料理の腕がなさすぎるからだった。なにせ料理どころか握り飯すらまともに作れない有様である。塩っ辛くなったり、妙に硬かったり、そのくせ変に自己流の料理を作りたがるから質が悪い。
銀次郎の料理では店に人が呼べるはずもなく、弥七はそもそも料理ができない。料理人を雇っても銀次郎が気に食わず辞めさせてしまう。ちょうどそんな時にお鈴が転がり込んできて、料理の腕を見込まれてみと屋で働くことになったのだった。
「ありがとうございました」
深々と頭を下げ、お鈴は店の外に出た。
いつの間にやら夕暮れだ。往来は真っ赤に染まり、行きかう人はめいめいに帰り道を急いでいる。居酒屋の前にぽつりと佇むお鈴になど、誰も目もくれない。
ふう、とため息をついた。
大通りを過ぎて、川沿いの道を歩く。
強い風が吹き、はためく裾を押さえた。まだ秋半ばだが、空気が肌寒くなってきたように感じる。早くみと屋に帰ろうと足に力を込めた時だった。
「もし、そこの方」
どこからか、声がした。
見回すと、川べりに人影があった。風体は虚無僧のようで、黒い小袖めいたものを着て、深い藁の編み笠を被っている。椅子に座るその人の前には、簡素な木の机が設えられており、黒々と「占」と書された行灯が置かれていた。占というからには、占い師なのだろうか。
あたりにはお鈴しか見当たらない。再び「もし」と聞こえて、編み笠の人がお鈴に向かって手招きをした。
「あ、あたしですか」
自分に何か用だろうか。おそるおそる机に近づく。
「ああ、そうだ、おぬしだ。突然声をかけてすまなんだ」
笠に隠れて顔は伺えないが、声からして壮年の男のようだ。深みと落ち着きのある声音に、警戒していたお鈴の心が少し和らぐ。
「はい。いえ。あの、あたしに何か御用ですか」
「うむ。おぬしの顔にずいぶん暗い相が出ておったのでな。つい声をかけてしもうた。許してくれ」
「あ、いえ、そんな」
「おぬし、深い悩みがあるのではないか」
どきりとした。
「いえ、その、はい、あの」
どう答えていいやら、おろおろする。
「その悩みごとは、男のことであろう」
「分かるんですか」
喉からつるりと出てしまい、慌てて口を押さえた。
「拙僧は八卦や人相見を修めておってな、語らずとも人の悩みごとが見えるのだ。よければそこに座って話してみぬか。力になれることがあるやもしれぬ」
弱っていた心が揺れる。
「でも、あたしそんなに持ち合わせがなくて」
「なに、拙僧は金もうけのために占いをしているのではない。困っている者達の助けになりたくてこの稼業をしているのだ。銭のことは心配せずともよい」
温かな言葉に誘われるように、置かれた椅子にふらふらと座った。そんなお鈴を、男はじっと見た。
「ふむ。おぬしの悩めるお人……そうさな、おそらく年上の男ではないかの」
「あ、はい。そうなんです」
心の靄を言い当てられて、はっとする。本当にこの人は特別な力を持っているのかもしれない。もしかしたら、この人ならば。
「あの、あたし、おとっつあんを捜しているんです」
「ほう、御父上を」
「はい。あたしのおとっつあんは、甲州街道で料理屋をやってたんです。飯が道を開くが口癖で、いつもお客さんを想った料理を出すから店も繁盛してました。それが、わけも話さずに急にいなくなってしまったんです。心労がたたったおっかさんは病で死んでしまって、それで、おとっつあんを捜しにひとりで江戸にやってきたんですけど、なかなか見つからなくて」
風呂敷一つで江戸に出てきて半年。今はみと屋という料理屋に居候しながら暮らしており、買い出しや店の休みを使っておとっつあんを捜す日々だ。
実は今日もおとっつあんを捜していた。どこかの料理屋や居酒屋で料理人として働いているかもしれないと思い、店に話を聞いて回ったのだが、それらしき手がかりは見つからずじまいだった。捜せど捜せど杳として知れぬ消息に、お鈴の心は疲れ果てていた。
「では、今はひとりで暮らしておるのか」
「はい。江戸にやって来て行き倒れかけたところを、みと屋っていう料理屋の人に助けてもらって、そこで働きながら暮らしています」
誰かに話を聞いてもらいたかったのかもしれない。つい口が軽くなり、胸の奥から言葉が滑り出ていく。もっとも、お鈴を助けてくれた「みと屋っていう料理屋の人」については詳しく語らなかった。なにせ、元やくざの親分が料理屋を開いていて、行き倒れていた小娘を助けただなんて、誰が信じてくれようか。
「ふむ、料理屋か。なるほどな」
男は机に並べてあった、たくさんの木の棒を手に取った。
「これを知っておるか」
「分からないです」
「これはな、筮竹といって海の向こうの国で生まれた易術の道具じゃ。これでおぬしを見てしんぜよう」
箸よりも細長い棒を何十本も片手で持ち、もう片方の手に叩くように当てる。ぶつぶつと口の中で呟きながら、何本かを抜き出して両手で組み合わせ、その動きを何度も繰り返す。やがて。
「うむ、なるほど」
「あの、何か、わかりましたか」
男は頷いた。
「おぬしの御父上には深い事情があったようだな」
「そうなんです」
お鈴は身を乗り出し、食いつくように言葉を紡いだ。
「おとっつあんは元々、お城の料理人だったらしいんです。でも、お城で起きた事件の濡れ衣を着せられて、そこから逃げてたみたいで。それで、ひっそり料理屋をやっていたのに、おとっつあんを追ってくる人が来て、あたし達家族に迷惑をかけないために、姿を消したんじゃないかって」
理由を告げずに姿をくらませたから、お鈴も確かなことは知らない。ただ、みと屋の人が調べてくれた話を繋ぎ合わせて、今ではおぼろげに事情を理解していた。それを吐き出すように口にする。
おとっつあんは元気だろうか。怪我はしてないだろうか。飯は食べているだろうか。鼻の奥がつんとなり、涙をこぼさぬように眉根に力を入れる。
「そうか、拙僧が視た限りでも、そのように出た。辛かったろうな」
「あの、おとっつあんはどこにいるんでしょうか。何か、手がかりでも分からないでしょうか」
「どれ」
男は再び細い棒を手に取り、じゃらじゃらと交ぜ合わせた。まじないのような言葉を唱えた後、両手を上げて「ふん」と気合を入れた。と、思うと動きを止め、虚空を見つめる。
やがて、男はゆっくりと手を下ろした。
「待ち人、便りある」
「え」
「そう卦が出た。安心なされよ。拙僧の見立てでは、御父上からきっと便りがあることだろう」
「本当ですか」
「うむ。拙僧を信じなされ」
「あ、ありがとうございます!」
お鈴は立ち上がり、深々と頭を下げた。しょせんは占いだから眉唾かもしれない。けれど、気休めだとしてもその前向きな言葉は、沈んだ心に一筋の光を与えてくれた。温かみのある声音からも信じられる人だと思えたし、銭も取らずに占ってくれるのだから、優しい占い師なのだろう。
「なかなか手がかりが見つからなくて、落ち込んでたんです。でも、元気になりました。占い師さんのおかげです。ありがとうございます」
「なに、気になされるな。御父上に早く会えるとよいな」
「はい。占いを信じて待ってます」
「うむ。そういえば、おぬしはどのあたりに住んでおるのだ」
「はい、水道橋を渡ったところです。大きな柳の木のそばにある『みと屋』という料理屋で働いてます。よかったら食べに来てください」
編み笠越しに、目が光ったような気がした。
「寄らせてもらおう」
「はい、お待ちしています」
「気を付けて帰りなされ」
「ありがとうございました」
今度こそみと屋への帰り道を歩き出す。その足取りは先ほどより軽く感じられた。
第一話 迷い猫のあったかお出汁
一
しと、しと、しと。
規則的に聞こえるのは雨音だ。ここのところ空模様が悪く、強くも弱くもないじっとりとした雨の日が続いている。
「客が来ねえ」
ぼそりとだみ声がして、お鈴はぬか床を捏ねる手を止めた。
厨房から店を覗くと、銀次郎が機嫌悪そうに煙管をふかしていた。
店内には他に誰もいない。銀次郎が居座る小上がりに加えて床几が二つだけ並ぶ、いつもどおりの閑散とした光景だ。
「お客さん、来ないですねえ」
銀次郎は「ふん」と鼻を鳴らして、煙管を火鉢に打ち付けた。
「あの、あたし、呼び込みとかしてきましょうか。そうしたらもう少しお客さんも来るかも」
「そんな小細工するんじゃねえ。料理屋ってのは、飯で客を呼ぶもんだ。おめえは旨い飯を作ることだけ考えてりゃあいい」
「は、はい」
そうは言ってもなあ、と思う。
なんたってここは、普通の料理屋じゃないからなあと。
お鈴が働くこの店は、料理屋「みと屋」。
神田明神から歩いて少し、水道橋を渡ってすぐ。川べりにある二階建ての建物で、店の隣には立派な柳の木が生えている。
料理を出すのは日中のみで、酒やつまみは扱っていない。誰でも気軽に食べられる定食が主だ。だが近くの店よりもお足はお手頃。自慢じゃないが、食材だって負けちゃいない。
それなのに、この店にはいっこうに客が来ず、いつだって閑古鳥が鳴いている。
それもそのはず。
小上がりで鼻を鳴らす料理屋の主こと銀次郎は、かつてやくざの大親分だった人物。
仁義を大切にし、地元の民を愛した名親分で、今はすっぱり足を洗っているのだが、やくざの親分が開いた料理屋という噂だけが独り歩きして、なかなかお客が寄ってこない。それどころか愛嬌の欠片もない銀次郎である。ずんぐりと大柄な身体つきにいかつく平たい顔。目と目の間は広がっていてひきがえるそっくり。客がいようといまいと不機嫌そうに小上がりで煙管をふかしている。
時たま怖いもの見たさで入ってくる客や、事情を知らずにやって来る客もいるにはいるが、銀次郎に怯えてそそくさと帰ってしまう。お鈴もずいぶん銀次郎に慣れたとはいえ、いまだに話すのは少しどきどきする。
実のところ、銀次郎が怖いのは見た目と物言いだけで、本人としては訪れるお客を精一杯歓迎しているつもりだし、人を思いやる気持ちは誰よりも深い。銀次郎が「みと屋」を開いた理由というのも、やくざの稼業に疲れた心を料理に救われ、自分も誰かの心を救えるような料理を食わせてやりたいと思ったからだ。
お鈴がこんな訳ありの店で料理人をしているのも、父を捜しに江戸に出てきて行き倒れたところを銀次郎に助けられたためである。ちなみに銀次郎の心を救った料理人というのがお鈴の父であるのだから、縁とは妙なものだ。
助けられた恩を返すためにも、なんとか「みと屋」を繁盛させたいのだが、こうした事情もあって前途多難であった。
看板障子ががたんと開いた。
激しい音にお鈴はびくりとし、銀次郎が嬉しそうに「おう、客かい」と言う。
「大変大変大変」とつむじ風のように暖簾をくぐってきたのは、目元涼しい色男。みと屋の仲間である弥七だった。
「なんでえ、おめえか。騒々しい」
「ねえちょっと大変大変」
鼠色の着物に洒落た根付をたらしており、形のいい唇には紅が一差し。身体つきはなよりと細く、ふわりとした口ぶりからはどこぞの役者にしか思えない。ところがこの男、カマイタチの弥七とあだ名された凄腕の殺し屋だから、人は見かけによらないものである。かつては紙切れのように薄く研いだ匕首を懐に忍ばせており、その切り口があまりに鋭かったことから名づけられたそうな。
「客じゃねえ奴は、とっとと帰れ」
「もう、そんなこと言ってる場合じゃないのよ、大変なのよ」
弥七は何やら抱えておろおろし、その場を右往左往する。
「弥七さん、どうかしたんですか」
「ああ、もうお鈴ちゃん、どうしましょう、これ。ちょっとこっちに来てちょうだい」
近寄ると、弥七は抱えていたものを丁寧な手つきで床几に下ろした。
「まあ」
「うむ」
置かれたものを覗き込んで、お鈴と銀次郎は声を漏らした。
そこにいたのは、弱ってぐったりとした、小さな黒猫だったのだ。雨に濡れぼそって毛はべったりと貼りついており、身体つきはずいぶんと薄い。目をつぶって細かく震えていた。
「茶屋で団子を食べてた帰りにね、神社にお参りしに行ったのよ。ぱんぱんって手を合わせてさあ帰ろうかっていう時に、なんだかみいみい聞こえるじゃない。そしたら、境内の下でこの子が丸まって鳴いてたのよ」
「それで、連れて帰ってきちまったのか」
「だって、ほうっておけないじゃない」
「おめえ、ここは食いもん屋だぞ」
「もう、うるさいこと言わないの。ね、お鈴ちゃん、どうしたらいいかしら」
すがるような目を向けられて困り果てる。お鈴も犬猫を世話した経験はないのだ。だが丸まって震えている姿があまりにもかわいそうで、「と、とりあえず火鉢の側で寝かせてあげますか」と提案したのだった。
*
黒い毛が上下に動く。手ぬぐいで水を拭いてやって、震えも落ち着いた。芯から冷え切っていた身体も、火鉢の側で温まってきたようだ。
「息がゆっくりしてきましたね」
「ああ、よかったあ。死んじゃったらどうしようかと思った」
胸を撫でおろす弥七に、銀次郎はふんと鼻を鳴らした。
「後で、湯で洗ってやらねえとな。毛がずいぶん汚れてやがる」
「本当ねえ。まあ神社の境内にいたんだもんねえ」
三人で黒猫を眺めているうちに、お鈴はあることに気づいた。
「首のところに、何か付いてませんか」
「あらやだ、本当ね」
黒猫の首のまわりには、赤い糸のようなものが巻かれていた。赤の中に黒も交じっており、上等なものではなさそうだが、組み紐か何かだろうか。
「動転してて気づかなかったけど、この子、誰かん家の子かもね」
「迷子になって帰れなくなっちゃったんでしょうか」
「ううん、そうかもねえ」
銀次郎が「おい」と鋭い声を投げた。
「見ろ」
黒猫の瞼がゆっくり開こうとしていた。
「ああ、目を開けましたよ」
「よかったわあ。一時はどうしようと思っちゃった」
「本当によかったですね」
「ほら、もう大丈夫よ。ね、おいでおいで」
弥七が手招きをするが、黒猫は弱々しくみいと鳴くばかり。身体を動かす力がなさそうだ。
「ばかやろう、まだ病み上がりだぞ」
銀次郎に叱られて、しょんぼりする弥七。
「ずいぶん弱ってるのが見て分かるだろう。それに腹回りもぺらぺらじゃねえか」
「あら本当だわ。お腹がぺったんこ」
銀次郎の指摘通り、腹回りは薄く全体的に骨ばっている。雨に打たれて弱っていただけでなく、しばらく何も食べていなかったのだろう。
「大変、何か食べさせてあげなきゃ。ええと、猫だからやっぱり魚でも焼いてあげるのがいいかしら。そうね。鯖なんてどうかしら」
「ばかやろう」と一喝。
「おめえ、風邪っぴきの時にそんなもん食いたいのか。丸呑みなんぞしても困るし、すきっ腹に重いもん食わせたら、腹がびっくりしちまう」
銀次郎は膝をぱしりと叩いて、「よし」と立ち上がった。
「俺が腕によりをかけてやる」
「いや、親分、それはやめたほうがいいんじゃ」と弥七が止める間もなく、銀次郎は小上がりを降りて、のしのしと厨房に入っていった。
呆気に取られて厨房を眺めていると、中から聞こえてくるのは、がたん、ごとん、がしゃん、といった騒がしい音。時たま「いてえ」と呻く声がする。心配で様子を見に行こうかと何度も腰を上げかけたが、そのたびに弥七が首を横に振った。
しばらくして。
厨房から姿を現した銀次郎は、平皿を手に持っていた。
得意げな顔で、「ほら」と小上がりに置く。
その皿に盛られているのは、何やらどろっとした赤いものである。お鈴が知る限り、こんな見た目の料理は存在しない。気のせいか、まがまがしい気配すら放っているように見える。
「さあ、食え」と黒猫の前に押しやる手を、弥七が止めた。
「ちょっと親分、なによこれ」
「見りゃあ分かるだろう。粥だ」
「粥って、こんな色してたかしら」
「うるせえ、力が湧くように特別に作ってやったんだ。文句あるか」
「ちょ、ちょっと、この子に食べさせる前に毒見させてちょうだい」
弥七は木杓子を取って来て、赤いどろどろを恐る恐る口に運んだ。
しばし口を動かしていたが、やがて顔が白くなり青くなり、その場をぐるぐるし、猛烈な勢いで厠に駆け込んでいった。
戻って来て水を一息に飲み干した後、「なんなのあれは!」と銀次郎に詰め寄る。
「なんだか辛いし、苦いし。どうしたらあんな食い物が作れるのよ」
「ばかやろう、身体が温まるように生姜と唐辛子を入れてやっただけじゃねえか」
「ああ、だからあんなに赤かったのね」と弥七は手を額に当て、弱々しく呟いた。
「あのね、何度も言ってるけど、親分に料理の腕はないの。もうね、これっぽっちもないの。今はお鈴ちゃんっていう腕っききの料理人がいるんだから、親分は大人しくしてなさい。こんなん食べさせたら余計に具合が悪くなっちゃうわ」
そう、銀次郎も弥七もいるのに、お鈴がみと屋で料理人として雇われた理由。それは、店の主である銀次郎に料理の腕がなさすぎるからだった。なにせ料理どころか握り飯すらまともに作れない有様である。塩っ辛くなったり、妙に硬かったり、そのくせ変に自己流の料理を作りたがるから質が悪い。
銀次郎の料理では店に人が呼べるはずもなく、弥七はそもそも料理ができない。料理人を雇っても銀次郎が気に食わず辞めさせてしまう。ちょうどそんな時にお鈴が転がり込んできて、料理の腕を見込まれてみと屋で働くことになったのだった。
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