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64話 崖の深淵
しおりを挟むユリシア王国、西の塔最上部。
ソウタはルースのことを考えながら、いつの間にか眠ってしまっていたようだった。
身体は鎖につながれたかのように、指一本動かすのも重く感じる。
どれほどの時間が経っただろうか。やがて、楽しげな足音が近づき、扉が開く音がした。
アルヴァが部屋に帰ってきた。
「ただいま、ソウタ」
そう言いながら、アルヴァはソウタが横たわるベッドに腰掛け、彼の右手をそっと持ち上げた。
そして、まるで壊れそうなものを扱うかのように優しく口付ける。
「僕がいなくて、寂しかった?」
アルヴァは、期待に満ちた瞳で見つめる。しかし、ソウタはただ不快に思うだけだった。
このまま拒絶し続けても状況は好転しない。
むしろ、アルヴァの機嫌を損ねれば、さらに危険な状況に陥るかもしれない。
ソウタは、深呼吸をして表情を切り替えた。
さっきまでの拒絶的な態度とは打って変わり、親しげな表情でアルヴァに優しく話しかける。
「……おかえり、アルヴァ。どこに行っていたんだ?」
アルヴァは、ソウタの変化に内心喜びを隠せないようだった。その顔には、満面の笑みが浮かんでいる。
「この塔の周辺を確認してきたんだ。君が逃げ出せないようにね」
ソウタは、慈愛に満ちた笑みを返した。そして、アルヴァにそっと近づく。
「アルヴァのことを、もっとよく知りたいな……」
アルヴァは大喜びでソウタを強く抱き寄せた。まるで懐く子犬のように、アルヴァはソウタの首筋に頭を埋める。
「ソウタが知りたいことがあれば、なんでも教えてあげるよ!」
ソウタは、怒りを奥歯で押し殺しながらも、慈愛の表情を崩さず、優しく言った。
「どうして、こんな所に何年も閉じ込められていたんだ?」
アルヴァは、ソウタに関心をもってもらったことに感動したようだった。
頬を染めながら、ソウタの手をぎゅっと握りしめる。
「あまり思い出したくないことだけど、君は僕の恋人だから、話してあげる」
そう言って、ソウタを部屋の外に連れ出した。
塔の中は、螺旋状の長い階段が続いており、足音が虚しく響く。
一段一段ゆっくりと階段を降りながら、アルヴァは語り始めた。
「僕が三歳の時に、初めてトモダチを作ったんだ。最初は猫くらいの大きさしか作れなかったけど、何度も作るうちに、大きいのも作れるようになったんだよ」
ソウタはそれを聞きながら、そんな幼い頃から、未確認生物を生み出していたことに驚きを隠せない。
(天才と変態は紙一重だな……)
ソウタは、アルヴァの人並み外れた才能に、心の中で小さく溜息をついた。
「それで五歳の頃、初めて作った大きなトモダチが、人を殺したんだ」
アルヴァは、まるでなんでもないことのように、あっけらかんと告げる。その言葉には、一切の罪悪感や後悔が見られなかった。
ソウタは、そんなアルヴァを見ながら、改めて彼の異常性を感じ取った。
長い階段を降りきり、塔の外に出る。
しかし、ソウタは塔の中にいる時よりも、さらに強い圧迫感と重圧を感じていた。
周囲は分厚い灰色の雲に覆われ、空が落ちてくるかのように低く垂れ込めている。
そして、目の前には、どこまでも続くような深い崖が、底の見えない闇を晒していた。
冷たい風が、ソウタの肌を刺す。
この異様な重みが、ソウタの心を押し潰しそうになる。
アルヴァは、そんなソウタの様子など気にも留めず、話を続けた。
「父上がすごく怒って、僕を産んだ罪で、母さんを崖の底に落として、この塔に僕を閉じ込めたんだ」
その過去を口にした一瞬、彼の顔に悲しみが浮かんだ。しかし、それはすぐに消え失せ、いつものにこやかな笑顔に戻る。
「この塔はね、魔力を抑える特殊な技術で建てられてるんだよ」
そう言って、彼は誇らしげに笑みを浮かべた。
「僕がここを出たくて色々と調べていたら、他人の魔力を抑えられるようになったんだ!」
アルヴァの無邪気な笑顔が、その端正な顔立ちと、ガラスのように冷たい灰色の瞳をさらに引き立たせる。
まるで無垢な天使のような美しさ。しかし、彼の言葉はソウタをイラつかせた。
アルヴァの過去は可哀想だが、それが彼の歪んだ行動を正当化する理由にはならない。
崖の底の見えない深淵を眺めながら、アルヴァは暗い顔で呟いた。
「この底にいる母さんの声がするんだ……
『なぜ、お前だけ生きているの』って、ずっと聞こえてくる」
その言葉を聞いたソウタは、ルースが自分を産んだ時に母親が亡くなったことを悲しんでいたのを思い出す。
ソウタは、無意識のうちに口を開く。
「……その声は幻聴だよ」
アルヴァは、その言葉を聞いて驚き、そしてソウタに嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう、ソウタ」
ソウタは、少し気まずさを感じながら目を逸らし、真っ暗で冷たい風が吹き荒れる深淵を眺める。
(ここから落ちたら、さすがに死ぬよな……)
ソウタは、この窮地をどう切り抜けるか、必死に考えを巡らせていた。
こんな絶望的な状況で、誰が助けに来てくれるだろうか。
誰でもいいわけじゃない。何も出来ない自分を、守ると言ってくれた優しい彼の顔が、自然と脳裏に浮かんだ。
その時だった。
深淵の向こう側から、だんだんと近づいてくる黒い影が見えた。
その影は、徐々に形を成し、力強くこちらへ向かってくる。
それを見た瞬間、暗く沈んでいたソウタの瞳が、きらきらと輝き始めた。
ルースが来たのだ。
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