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第二部:反逆の狼煙
第32話 蝕まれる日常
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ロヴェール男爵が課した狂気的なノルマは、悪夢となって保管庫の日常を支配し始めた。
最初の数日は、男爵の巧みな賞賛と激励に煽られ、誰もが一種の興奮状態にあった。しかし、その熱が冷め、終わりの見えない過重労働が現実となってのしかかってくると、職員たちの顔からは急速に光が失われていった。
男爵のやり方は、陰湿で、そして悪魔的なまでに巧妙だった。
彼は決して、大声で怒鳴ったり、罰を与えたりはしない。むしろ、その逆だった。
「リリ君、君の昨日の魔力充填は見事だった。皆の模範だ」
朝礼で、彼は満面の笑みでリリを褒め称える。しかし、その直後、彼はリリを個別に呼び出し、声を潜めてこう囁くのだ。
「ただ、一点だけ。最後の最後で変換効率が0.3%低下していた。素晴らしい成果だっただけに、実に惜しい。君ほどの才能があれば、完璧を目指せるはずだ。期待しているよ」
完璧な成果の中から、ほんの些細な瑕疵を探し出し、それを「君のためを思って」という善意の仮面で指摘する。そのじわじわと心を蝕む毒は、あからさまな罵倒よりもずっと効果的だった。職員たちは、常に「期待に応えなければならない」という強迫観念に駆られ、互いのミスを監視し合うようになっていった。かつてアットホームだった職場の空気は、冷たくギスギスとしたものに変わっていく。
そして、その矛先は、巧妙に私へと向けられていた。
「アリア君が築いてくれたこの素晴らしいシステムがあるからこそ、我々は高みを目指せるのだ!」
彼は事あるごとに、皆の前で私を持ち上げた。その言葉は、職員たちの心の中に、「この苦しい状況の原因は、アリアが生み出した高い基準のせいだ」という、歪んだ責任転嫁の種を植え付けていく。
「あんたのおかげで、『効率的』にこき使われて、ヘトヘトだよ」
ある夜、疲れ果てたリリが、私にだけ聞こえるような声で、棘のある冗談を吐き捨てた。その瞳に浮かぶ疲労と苛立ちの色に、私の胸はナイフで抉られるように痛んだ。彼女を責めることはできない。私が、皆を楽にするために作ったはずのシステムが、今、皆を苦しめているのだから。
村の異変は、もはや気のせいでは済まなくなっていた。
三日前、村の生命線である共同井戸の水が、半日にわたって完全に枯渇した。長老たちも「こんなことは初めてじゃ」と首を傾げる異常事態。公式には「季節的な水位の低下」と発表されたが、その日、保管庫の魔力生産量が観測史上最大を記録していたことを、私だけが知っていた。
さらに、原因不明の体調不良を訴える者が、村で急増していた。特に、保管庫に近い地区の住民に、頭痛やめまい、倦怠感を訴える者が集中している。それはまるで、大地そのものが悲鳴を上げ、その毒気が人々を蝕んでいるかのようだった。
間違いない。そう結論づけた瞬間、全身から血の気が引いた。
この村は、ゆっくりと死に向かっている。
私たちの保管庫が、大地から生命力を無理やり吸い上げる、呪われたポンプとなって。
その夜、私は自室で一人、カイン様が残してくれた服務規程の本を、ただ呆然と見つめていた。無力感に、涙がこぼれそうになる。
また、私は、大切なものを守れないのか。
そう、絶望に飲み込まれそうになった、その時だった。
『奴らの論理を、奴ら以上に知れ。それが、君の盾になる』
彼の、静かで、しかし力強い声が、脳裏に響き渡った。
そうだ。泣いているだけでは、何も変わらない。感情で訴えても、あの男には届かない。
私に必要なのは、涙ではない。武器だ。
私は、涙を拭うと、机の引き出しから、一冊の真新しい革張りの日誌を取り出した。
そして、カイン様の几帳面な文字を真似て、その最初のページに、こう記した。
『監査記録』
私は、その日から、全てを記録し始めた。
男爵が口頭で発した命令の、正確な時刻と内容。
職員たちの残業時間と、それによって引き起こされた事故やミスの件数。
そして、保管庫の魔力生産量と、村で発生する異変との、不気味な相関関係。
感情を殺し、ただ、事実だけを、冷徹なインクの文字で刻みつけていく。
それは、悲劇のヒロインの嘆きの日記ではなかった。
氷の監査官の教え子による、反撃の狼煙を記した、最初の戦闘記録だった。
部屋の隅で、魔力灯がまた弱々しく瞬いた。その不吉な光に、私はむしろ背中を押されるように、ただ一心に、ペンを走らせ続けた。
最初の数日は、男爵の巧みな賞賛と激励に煽られ、誰もが一種の興奮状態にあった。しかし、その熱が冷め、終わりの見えない過重労働が現実となってのしかかってくると、職員たちの顔からは急速に光が失われていった。
男爵のやり方は、陰湿で、そして悪魔的なまでに巧妙だった。
彼は決して、大声で怒鳴ったり、罰を与えたりはしない。むしろ、その逆だった。
「リリ君、君の昨日の魔力充填は見事だった。皆の模範だ」
朝礼で、彼は満面の笑みでリリを褒め称える。しかし、その直後、彼はリリを個別に呼び出し、声を潜めてこう囁くのだ。
「ただ、一点だけ。最後の最後で変換効率が0.3%低下していた。素晴らしい成果だっただけに、実に惜しい。君ほどの才能があれば、完璧を目指せるはずだ。期待しているよ」
完璧な成果の中から、ほんの些細な瑕疵を探し出し、それを「君のためを思って」という善意の仮面で指摘する。そのじわじわと心を蝕む毒は、あからさまな罵倒よりもずっと効果的だった。職員たちは、常に「期待に応えなければならない」という強迫観念に駆られ、互いのミスを監視し合うようになっていった。かつてアットホームだった職場の空気は、冷たくギスギスとしたものに変わっていく。
そして、その矛先は、巧妙に私へと向けられていた。
「アリア君が築いてくれたこの素晴らしいシステムがあるからこそ、我々は高みを目指せるのだ!」
彼は事あるごとに、皆の前で私を持ち上げた。その言葉は、職員たちの心の中に、「この苦しい状況の原因は、アリアが生み出した高い基準のせいだ」という、歪んだ責任転嫁の種を植え付けていく。
「あんたのおかげで、『効率的』にこき使われて、ヘトヘトだよ」
ある夜、疲れ果てたリリが、私にだけ聞こえるような声で、棘のある冗談を吐き捨てた。その瞳に浮かぶ疲労と苛立ちの色に、私の胸はナイフで抉られるように痛んだ。彼女を責めることはできない。私が、皆を楽にするために作ったはずのシステムが、今、皆を苦しめているのだから。
村の異変は、もはや気のせいでは済まなくなっていた。
三日前、村の生命線である共同井戸の水が、半日にわたって完全に枯渇した。長老たちも「こんなことは初めてじゃ」と首を傾げる異常事態。公式には「季節的な水位の低下」と発表されたが、その日、保管庫の魔力生産量が観測史上最大を記録していたことを、私だけが知っていた。
さらに、原因不明の体調不良を訴える者が、村で急増していた。特に、保管庫に近い地区の住民に、頭痛やめまい、倦怠感を訴える者が集中している。それはまるで、大地そのものが悲鳴を上げ、その毒気が人々を蝕んでいるかのようだった。
間違いない。そう結論づけた瞬間、全身から血の気が引いた。
この村は、ゆっくりと死に向かっている。
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その夜、私は自室で一人、カイン様が残してくれた服務規程の本を、ただ呆然と見つめていた。無力感に、涙がこぼれそうになる。
また、私は、大切なものを守れないのか。
そう、絶望に飲み込まれそうになった、その時だった。
『奴らの論理を、奴ら以上に知れ。それが、君の盾になる』
彼の、静かで、しかし力強い声が、脳裏に響き渡った。
そうだ。泣いているだけでは、何も変わらない。感情で訴えても、あの男には届かない。
私に必要なのは、涙ではない。武器だ。
私は、涙を拭うと、机の引き出しから、一冊の真新しい革張りの日誌を取り出した。
そして、カイン様の几帳面な文字を真似て、その最初のページに、こう記した。
『監査記録』
私は、その日から、全てを記録し始めた。
男爵が口頭で発した命令の、正確な時刻と内容。
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そして、保管庫の魔力生産量と、村で発生する異変との、不気味な相関関係。
感情を殺し、ただ、事実だけを、冷徹なインクの文字で刻みつけていく。
それは、悲劇のヒロインの嘆きの日記ではなかった。
氷の監査官の教え子による、反撃の狼煙を記した、最初の戦闘記録だった。
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