魔法務省の過労令嬢と残業嫌いな冷徹監査官の契約からはじまる溺愛改革

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第三部:革命の夜明け

第56話 秘密の研究所

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深夜。王都の貧民街の最奥、忘れられたように佇む古びた診療所の前に、数人の影が音もなく降り立った。カイン・アーデルハイトは、フードを目深に被り、建物を冷徹に観察する。看板の文字は掠れ、窓は固く閉ざされ、人の気配はない。ジークが託した地図がなければ、ここがオーブリー魔法大臣の狂気の心臓部である『カルテ№9』だと、誰が想像できただろうか。

部下の一人が、魔力探知機を慎重に操作する。「結界反応、ありません。内部からの魔力漏洩も、完全に遮断されています」。その完璧な隠蔽工作が、逆にこの場所の異常性を物語っていた。カインは静かに頷くと、手慣れた様子で古びた扉の錠前に細い金属棒を差し込む。最小限の動きで、音もなく、錠は開いた。

一歩、中へ足を踏み入れた瞬間、カインの全身の神経が警告を発した。
鼻腔を刺す、ツンとした薬品の匂い。消毒液と、何か得体の知れない腐敗臭が混じった、不快な臭気。外観とは全く違う、ひやりとした空気が肌を撫でる。
そこは、診療所などではなかった。

通路の先に見えたのは、冷たい金属とガラスでできた、無機質な研究室だった。壁も床も継ぎ目のない鋼鉄で覆われ、天井からは魔力灯が手術室のように青白い、一切の影を許さない光を投げかけている。ガラスケースの中には、用途不明の医療器具や、色とりどりの液体が入ったフラスコが、整然と並べられていた。
静かすぎる。あまりにも。まるで墓所だ。カインは息を呑んだ。

その、静寂を破るように。
カインの視線が、研究室の壁の一点に釘付けになった。
鋼鉄の壁に、無数の、深い爪痕が刻み込まれていたのだ。
それは、内側から、必死に外へ出ようとした誰かがつけたものだと、一目でわかった。指の骨が砕けるのも厭わず、自由を求めて壁を掻きむしった、絶望の痕跡。その夥しい傷跡が、この清潔すぎる部屋で何が行われていたのかを、何よりも雄弁に物語っていた。

カインは、その壁にそっと指先で触れた。ひやりとした金属の感触。その奥に、声なき魂の叫びが染み付いているかのようだった。
彼は、次々と部屋を調べていく。拘束具のついた診察台。床に残る、拭き取れなかった黒い染み。そして、廃棄されたカルテの断片。『被験体、精神崩壊により廃棄』『サンプル、期待値以下のため処理』。
人の命が、ただの「データ」として、無機質な文字で処理されている。
その冷酷な単語は、彼が最も憎み、そして、自らがかつて犯した過ちそのものだった。人の心を、痛みを、数式に置き換え、効率の名の下に切り捨てる。オーブリー魔法大臣の狂気は、かつての自分と同じ根を持ち、そして、それを遥かに凌駕する深さと邪悪さで、この場所に根を張っていた。
彼の心の中で、静かだった怒りが、絶対零度へと下がっていくのを感じた。

「室長、こちらを」
部下の一人が、最深部の部屋を指差した。そこだけが、他とは比較にならないほど厳重な、魔力式の封印が施された鋼鉄の扉で閉ざされていた。資料室だ。

封印を解き、重い扉を開ける。
中は、壁一面が黒い鋼鉄の棚で埋め尽くされた、巨大な書庫だった。分類番号が振られたおびただしい数のファイルが、息が詰まるほどの密度で並べられている。その全てが、ここで命を弄ばれた者たちの、血塗られた記録なのだろう。

カインは、その膨大な悪意の記録の中から、たった一つの真実を探し出すために、棚の間を足早に進んだ。
そして、彼は見つけた。
書庫の一番奥、最も厳重に管理された区画。そこに、どの記録とも違う、異質な存在感を放つ一冊の書物が、黒いビロードの布の上に、まるで聖遺物のように置かれていた。
分類番号はない。古文書を模した黒い革で装丁され、その表紙には、金文字でただ一言、こう記されていた。

『陽だまり』

その言葉が持つ温かい響きと、この死の匂いが充満する場所との、あまりの乖離。カインは、吸い寄せられるように、その書物に手を伸ばした。
白い手袋越しの指先に、ざらりとした古い革の感触が伝わる。
彼は、息を呑み、震える指で、その重い表紙を、ゆっくりと、めくった。

それは、古代の文献ではなかった。
美しい挿絵と共に、流麗な文字で綴られた、大臣自身の筆による、恐るべき『研究日誌』だった。
歴史から意図的に抹消されたはずの、『陽だまりの一族』に関する古代文献の記録と、彼自身が行った非人道的な実験データが、そこに克明に記されていた。

ページをめくる手が、止まらなくなる。
彼らの持つ特異な魔力特性。幸福感を源とし、周囲の魔力さえも浄化し、活性化させる黄金の魔力。それは、現行の「勤労魔力」とは全く違う、生命そのものを祝福するような、奇跡の力だった。

大臣は、この力を知っていた。
知っていた上で、その存在を隠蔽し、この場所で、その力を解明し、支配しようとしていたのだ。
そして、日誌の最後のページに記されていた一文が、カインの背筋を凍らせた。

『――この『陽だまりの力』を、人工的に抽出し、制御するシステムの構築を、最終目標とする』

アリアの、あの黄金の光を、人工的に?
人の心から生まれる温かい光を、冷たい機械で抽出しようと?
その、神をも恐れぬ狂気的な野望を知り、カインは戦慄した。これは、単なる魔力研究などではない。人の魂そのものを、意のままに作り替えようとする、冒涜的な試みだ。
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