魔法務省の過労令嬢と残業嫌いな冷徹監査官の契約からはじまる溺愛改革

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第三部:革命の夜明け

第65話 ジークの最後のカード

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夜明け前の王都は、異様なほどの静けさに包まれていた。
決戦の準備が進む隠れ家から一人抜け出したリリは、息を殺して王都の闇を駆けていた。アリアたちの作戦は完璧に近い。だが、アリアは光だ。光の戦法だけでは、あの底なしの闇(大臣)は討てない。奴を討つには、奴と同じ、闇から放たれる毒の一矢が必要だ。その正体を探るため、彼女は自らが持つ裏社会の情報網を使い、一つの賭けに出ていた。

目的地は、オーブリー邸の北塔。慰安祭の後、父によって幽閉されたジーク・オーブリーの、鳥かご。

その頃、豪華な牢獄の中で、ジークは一人、過去の亡霊に苛まれていた。
酒ではもう、悪夢を紛らわすことはできない。彼は、幽閉されてからずっと、書斎に残されていた過去の書類の束を、狂ったように読み返していた。自分の栄光の残骸にすがるように。そして、無意識に、あの頃の彼女の影を探すように。
その中で、彼は見覚えのある一束の報告書を見つけ出した。数年前の干ばつ対策に関する、膨大な魔力回路図と水利計画書。彼が自らの最大の功績として父に提出し、褒賞を得た、あの計画書だ。

しかし、今、野心というフィルターのかかっていない目でそれを見返した時、彼は初めて、その紙面に込められた本当の意味を理解した。
余白にびっしりと書き込まれた、アリアの流麗な筆跡による注釈。徹夜で修正されたであろう、インクの滲み。そこには、ただの作業記録ではない、この国を、その民を、心から豊かにしたいと願う、一人の人間の、あまりにも純粋な献身が刻ま込まれていた。
彼は、天才の仕事を盗んだのだ。彼女の犠牲を、誇りを、自らの出世のための踏み台にした。
「……っ!」
ジークは、報告書を、自らを罰するかのように、ぐしゃりと握り潰した。初めて感じる、焼けるような羞恥の念が、彼の内側を蝕んでいた。

その時、脳裏に、ずっと忘れていたはずの、遠い記憶が蘇った。
まだ幼かった頃、父の書斎に忍び込んだ日に見た光景。父が、一人の少女と話していた。太陽のように輝く金色の髪。屈託のない笑顔。その少女の名は、エレナ。父の自慢の弟子だと、一度だけ聞かされたことがあった。だが、その少女を見る父の目は、弟子を見る温かいものではなく、極めて珍しい標本を分析するような、冷たい光を宿していた。
そして、ほどなくして、彼女は「不慮の事故」で死んだと、聞かされた。

「……何の用だ」
過去の記憶の淵からジークを引き戻したのは、窓の外から聞こえた、低い女の声だった。
見ると、バルコニーの暗がりに、リリが、まるで猫のように音もなく立っていた。

「あんたの親父を、止めに来た」
リリは、単刀直入に言った。
「奴は、アリアを殺す気だ。あんたが父上に切り捨てられたみたいに、今度はアリアが、奴の大義のための生贄にされる。十年前のエレナって子みたいに、『陽だまりの一族』の力を暴走させてな!」

エレナ。『陽だまりの一族』。
その言葉が、ジークの中で、バラバラだったパズルのピースを、一つの恐るべき絵として完成させた。
父の書斎で見た、あの少女。彼女の「事故死」。そして、アリアが放つという、黄金色の魔力。
全ては、繋がっていた。
エレナの死は、事故などではない。父の狂気的な実験の、犠牲者だったのだ。そして父は、その悪夢を、アリアを使って再び繰り返そうとしている。

彼は、自分がどれほど巨大な罪の片棒を担いでいたのかを、ようやく理解した。
父の駒として、アリアを追い詰め、断罪した自分。それは、父の実験台に、新しい標本を献上する行為そのものだったのだ。

「……そうか。僕は……」
彼の口から、乾いた笑いが漏れた。
「僕は、父が遊ぶ盤上の、最も愚かな駒だったというわけか……」
父への憎悪が、沸点を超える。しかし、それはもう、捨てられたことへの個人的な恨みだけではなかった。自らが加担した罪への、そして、アリアと、今はもう顔も思い出せないあの少女への、遅すぎた贖罪の念が、その憎悪を、鋼のような決意へと変えていた。

「奴は、必ずやる」
ジークの瞳から、虚無の色が消えていた。代わりに宿っていたのは、全てを破壊し尽くす、狂気的な復讐の炎だった。
「御前会議の場で、アリアの魔力が暴走したかのように見せかける、完璧に偽造された映像記録を使うはずだ。それを無効化できる、たった一つの方法がある」

彼は、震える手で、懐から一枚の、くしゃくしゃになった羊皮紙の地図を取り出した。
「父の研究所、『カルテ№9』の地下最深部。そこに、全ての記録映像を統括する『マスターキー』となる魔力水晶が隠されている。これを使えば、奴のシステムに外部からアクセスし、偽の映像を、本物の記録――十年前の、エレナの実験記録に、すり替えることが可能だ」

それは、悪魔的な、しかし唯一の逆転の一手だった。
リリは、ゴクリと喉を鳴らし、その地図を受け取った。

「これは、復讐だ」
ジークは、壊れたように笑った。
「だが、僕一人の復讐じゃない。父が築き上げた完璧な世界を、この僕の手で破壊することが、僕にできる、唯一の償いだ」
彼は、リリに背を向け、光の中へと歩き始めた。自らの罪を告白し、裁きを受けるために。

「アリアに、伝えてくれ」
最後に、彼は一度だけ振り返り、そう言った。その顔にはもう、かつての傲慢な光はなく、ただ、全てを失って初めて真実を見つけた男の、ひどく穏やかな微笑みがあった。
「すまなかった、と。君が守ろうとしていた光の価値に、ようやく気づけた、と」

そう言い残し、彼は闇の中へと消えていった。
残されたリリの耳に、王宮の方角から、御前会議の始まりを告げる、重々しい鐘の音が聞こえてきた。
もう、時間は残されていない。
リリは、アリアたちの、そしてこの国の運命を左右する地図を強く握りしめると、仲間たちが待つ隠れ家へと、全力で駆け出した。
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