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リレーするキスのパズルピース
同僚と恋人/11
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ティーカップをソーサーの上で両手で包み込み、静かに言葉を紡いだ、遊線が螺旋を描く優雅で芯のある声で。
「あなたとこちらの店へ、仕事が終わったあとよくきました。とても素敵な時間でした。このまま、帰りたくないと思ったことが何度もありました」
様々な壁にぶつかる仕事。それが終わったあとの開放感。愛している男。お互いのお気に入りのカフェ。食事をしながらの楽しい会話。お酒も飲んだだろう。
そして、夜はあっという間に更けてゆく。相手も自分を愛していると知っている。このまま夜の街にふたりきりで消えたい。そう望んで当たり前だった。
だが、そこには大きな壁があった。ショコラの茶色をしみ込まされたナプキンは、きちんと端をそろえて折りたたまれる。
「俺が引き止めてやってもよかったが、結婚している。だから、不倫になる。だが、あれがいつもの直感で言ってきた」
直感、天啓。それは光命も蓮も持っていないものだった。お互いが愛する、あの女の特徴のひとつ。しかも、外すことが少ない。結婚という契約をたもちながら、新しい愛を受け入れる。そんなことを可能にする術を、あの女が思いついた。
光命は組んでいた足はそのままに身を乗り出した。すると、十字のチョーカーがすうっと宙を横に泳ぎ、甘くスパイシーな香水がそよ風を起こした。
「どのように言ったのですか?」
「この世界の法律はただひとつ、みんな仲良くだと。結婚に関する規定はないと。だから、お前に、気持ちを伝えてやってもいいと思った」
「そうですか。そちらもそうだったのかもしれない……」
いつもと違った言葉遣いになった光命の冷静な水色の瞳は、涙で視界がゆらゆらと揺れ始めた。ウッドデッキのテーブルの上に乗っているオレンジのランプの炎がにじむ。
自分が悩んできた可能性の数値を、あの女は直感でひっくり返す。抱え込んでいた悲しみを、一瞬にして幸福に変えてしまう女。ビックバーンのように斬新な影響を与えたかと思うと、自分と同じように声にも出さず、寒さに凍えるように静かに涙を頬に伝わせる。
全てを記憶する頭脳。あの女が言ってきた言葉の一字一句、日付も何もかもが狂わず、光命の脳裏の浅い部分に、走馬灯のように浮かんでは消えてゆく。
物思いにふけっている光命の神経質な横顔に、蓮は問いかけた。
「何の話だ?」
「私と夕霧のことは、彼女がこちらのように言っていました」
従兄弟同士。小さい頃からをやり直して、恋は芽生えて、それでも素直に受け入れられなくて、自分の中の罪悪感は光命からは消えなかった。それなのに、あの女は消し去ったのだ。
「ん?」
蓮が不思議そうに首を傾げると、光命は真正面に顔を向けて、自身を後悔の泉から救ってくれた女の言葉を、一字一句間違えずに口にした。
「神様のお導きだったんですね。何度もお互いを意識することが起きたんだから、運命だったんですよ。神様にも神様はいるんですから。結婚するようにって言ってたんじゃないんですか? だから、これでよかったんです、と」
神の導き――
背徳感でも罪悪感でもなく、そこには神聖と慈悲があった。そう気づかされた時、光命は立っていられないほどの悦楽と、過ぎてきた哀傷の渦の相反する乱気流に見舞われた。
彼女の前で思わずしゃがみ込んで、涙をいくつも流したのだ。ありのままの自分で生きていいと、ずっと赦されていたのだと知って。
重複婚どころの話ではない私生活を、繰り広げているミュージシャンは、妻が他の男を愛していると知っても、平気な顔で話し始めた。
「あれは神を信じている。他のやつばかり優先して、自分のことは後回し」
だが、あの女の自分への態度を思い出したら、イライラが募り始め、天使のような綺麗な顔が怒りで歪んでいった。
「鈍臭くて、失敗ばかりで、見ててイライラする。だから、つい物を言いたくなる。だが、あれも引かなくて、毎回毎回、言い争いのケンカだった」
自宅で、ふたりが言い争っているのを何度も見ている光命は、手の甲を唇に当ててくすくす笑い出した。
どんぐりの背くらべみたいな微笑ましい限りのケンカ。配偶者のひとりとして、自分の目の前にいる夫が、あの女に対してどんな気持ちで接しているのか、光命は可能性からすでに導き出していた。
「あなたは彼女に甘えているのではないのですか?」
「なぜ、そんなふうに思う?」
蓮にとっては意外な言葉で、ただただ自分の言いたいことを言ってるが、必ずカチンとくるようなことを言い返してくる、我が妻。
「私たち夫の前では、あなたはそのようなことはしません。ですが、彼女の頭を叩いたりするではありませんか?」
蓮の両腕は腰のあたりで組まれ、人差し指をイライラとトントンと叩き始めた。
「あれがおかしなことを言うからだろう。ふたりでデートしに行くんだねとか、蓮も結構ボケてるよねとか、恋愛に鈍感だねとか、いちいち指図するなとか、あと……」
まだまだ、話は続きそうだったが、銀の前髪はうんざりと言うように横に揺れた。
「あぁ~、思い出すと、またぶり返す。この話はもう終わりだ」
「あなたたちは、おかしな人たちですね、立場が対等なのですから」
夫婦なら立場が対等、それが当然。だが、あの女は違うのだ。この世界への自由な出入りを禁止されている。ある場所から動くことができない。それなのに、関わってくる、自分たちの生活に言動に。
「あなたとこちらの店へ、仕事が終わったあとよくきました。とても素敵な時間でした。このまま、帰りたくないと思ったことが何度もありました」
様々な壁にぶつかる仕事。それが終わったあとの開放感。愛している男。お互いのお気に入りのカフェ。食事をしながらの楽しい会話。お酒も飲んだだろう。
そして、夜はあっという間に更けてゆく。相手も自分を愛していると知っている。このまま夜の街にふたりきりで消えたい。そう望んで当たり前だった。
だが、そこには大きな壁があった。ショコラの茶色をしみ込まされたナプキンは、きちんと端をそろえて折りたたまれる。
「俺が引き止めてやってもよかったが、結婚している。だから、不倫になる。だが、あれがいつもの直感で言ってきた」
直感、天啓。それは光命も蓮も持っていないものだった。お互いが愛する、あの女の特徴のひとつ。しかも、外すことが少ない。結婚という契約をたもちながら、新しい愛を受け入れる。そんなことを可能にする術を、あの女が思いついた。
光命は組んでいた足はそのままに身を乗り出した。すると、十字のチョーカーがすうっと宙を横に泳ぎ、甘くスパイシーな香水がそよ風を起こした。
「どのように言ったのですか?」
「この世界の法律はただひとつ、みんな仲良くだと。結婚に関する規定はないと。だから、お前に、気持ちを伝えてやってもいいと思った」
「そうですか。そちらもそうだったのかもしれない……」
いつもと違った言葉遣いになった光命の冷静な水色の瞳は、涙で視界がゆらゆらと揺れ始めた。ウッドデッキのテーブルの上に乗っているオレンジのランプの炎がにじむ。
自分が悩んできた可能性の数値を、あの女は直感でひっくり返す。抱え込んでいた悲しみを、一瞬にして幸福に変えてしまう女。ビックバーンのように斬新な影響を与えたかと思うと、自分と同じように声にも出さず、寒さに凍えるように静かに涙を頬に伝わせる。
全てを記憶する頭脳。あの女が言ってきた言葉の一字一句、日付も何もかもが狂わず、光命の脳裏の浅い部分に、走馬灯のように浮かんでは消えてゆく。
物思いにふけっている光命の神経質な横顔に、蓮は問いかけた。
「何の話だ?」
「私と夕霧のことは、彼女がこちらのように言っていました」
従兄弟同士。小さい頃からをやり直して、恋は芽生えて、それでも素直に受け入れられなくて、自分の中の罪悪感は光命からは消えなかった。それなのに、あの女は消し去ったのだ。
「ん?」
蓮が不思議そうに首を傾げると、光命は真正面に顔を向けて、自身を後悔の泉から救ってくれた女の言葉を、一字一句間違えずに口にした。
「神様のお導きだったんですね。何度もお互いを意識することが起きたんだから、運命だったんですよ。神様にも神様はいるんですから。結婚するようにって言ってたんじゃないんですか? だから、これでよかったんです、と」
神の導き――
背徳感でも罪悪感でもなく、そこには神聖と慈悲があった。そう気づかされた時、光命は立っていられないほどの悦楽と、過ぎてきた哀傷の渦の相反する乱気流に見舞われた。
彼女の前で思わずしゃがみ込んで、涙をいくつも流したのだ。ありのままの自分で生きていいと、ずっと赦されていたのだと知って。
重複婚どころの話ではない私生活を、繰り広げているミュージシャンは、妻が他の男を愛していると知っても、平気な顔で話し始めた。
「あれは神を信じている。他のやつばかり優先して、自分のことは後回し」
だが、あの女の自分への態度を思い出したら、イライラが募り始め、天使のような綺麗な顔が怒りで歪んでいった。
「鈍臭くて、失敗ばかりで、見ててイライラする。だから、つい物を言いたくなる。だが、あれも引かなくて、毎回毎回、言い争いのケンカだった」
自宅で、ふたりが言い争っているのを何度も見ている光命は、手の甲を唇に当ててくすくす笑い出した。
どんぐりの背くらべみたいな微笑ましい限りのケンカ。配偶者のひとりとして、自分の目の前にいる夫が、あの女に対してどんな気持ちで接しているのか、光命は可能性からすでに導き出していた。
「あなたは彼女に甘えているのではないのですか?」
「なぜ、そんなふうに思う?」
蓮にとっては意外な言葉で、ただただ自分の言いたいことを言ってるが、必ずカチンとくるようなことを言い返してくる、我が妻。
「私たち夫の前では、あなたはそのようなことはしません。ですが、彼女の頭を叩いたりするではありませんか?」
蓮の両腕は腰のあたりで組まれ、人差し指をイライラとトントンと叩き始めた。
「あれがおかしなことを言うからだろう。ふたりでデートしに行くんだねとか、蓮も結構ボケてるよねとか、恋愛に鈍感だねとか、いちいち指図するなとか、あと……」
まだまだ、話は続きそうだったが、銀の前髪はうんざりと言うように横に揺れた。
「あぁ~、思い出すと、またぶり返す。この話はもう終わりだ」
「あなたたちは、おかしな人たちですね、立場が対等なのですから」
夫婦なら立場が対等、それが当然。だが、あの女は違うのだ。この世界への自由な出入りを禁止されている。ある場所から動くことができない。それなのに、関わってくる、自分たちの生活に言動に。
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